50音ショートショート

50音分のタイトルで短編を書き終えれたら、関係ないけどとりあえず仕事やめようと思う(-A-)

(せ)セントエルモの火

息子が万引きをした。
それは僕にとって、かなりセンセーショナルな事件だった。

僕が務める会社に、颯太の通う小学校から電話がかかってくるなんてことは初めてだったし、颯太が万引きという「非行」に走ったのもやはり初めてだった。


会社の同僚に早退することを謝り、小学校の先生に迷惑をかけたことを謝り、コンビニの店長には万引きした商品の代金を支払った上で何度も何度も謝った。
そうしているうちにすっかり日は暮れ、当の颯太は結局殆ど僕と話をしないまま眠りについてしまった。

本来であれば、親として、その日のうちに息子の話を聞き、しっかり叱らねばいけないことはわかっていた。
しかし、「ごめんなさい」としゃっくりをあげて泣き続ける颯太から話を聞き出す強さも、説教できる威厳も僕にはなかった。


「息子と向き合う」という最も大切な父親の務めを明日に先送りし、どこかほっとしている自分の臆病さにうんざりしながら、泣き疲れてソファーで寝てしまった颯太に僕はそっと毛布をかける。
「ごめんな、こんな父親で」
そっと触れた颯太の頬は、涙が乾いてべっとりとしていた。
「美咲も、ごめん」
僕は、ソファーの後ろの戸棚に飾ってある妻の写真に向かって呟く。
「全然上手く父親できてないよな、ごめん」
今日は謝ってばかりだ。

僕は美咲の写真から目をそらすと、視界に入ったお菓子の箱を手に取って、眠っている颯太の横に腰をおろす。
颯太が盗ったのは、人気アニメのキャラクターカードがついているそのお菓子1つだった。
僕は何の気もなくカード袋の封を切り、中身を取り出してみる。
キラキラ光る銀色のコーティングがなされたそのカードには、皮肉にも「レアカード!」と書かれていた。
僕は思わず笑ってしまう。
息子が万引きするなんて、確かにレアかもしれない。
いや、もしかしたら大人が気づかないだけで、こんなこと少年たちの間では日常茶飯事なのかもしれない。

お小遣いは不自由なくあげていたつもりだった。
毎年親戚から貰うお年玉だって、颯太自身に渡していた。それに、お菓子ぐらい僕に頼めばいくらでも買ってやった。
なのに、どうして颯太は万引きなんてしなければならなかったのか。

僕の頭には、ちらりと「いじめ」という言葉が浮かんだ。
万引きを強要するイジメがあることは、ドラマや漫画で知っていた。もしかすると、颯太はその被害者なのかもしれない。

だけど、もしそうじゃなかったら?
息子贔屓かもしれないが、颯太は決していじめられるようなタイプではない。
背も高く、小学2年生の頃から4年続けているサッカーのおかげで、身体も他の子と比べてがっしりしている。
成績も悪くないし、何より明るくて活発な子だった。
しかし、そんな子が何か些細なことがきっかけでいじめられてしまうことだって多分にあるのだろう。

僕はため息をもらす。
実際はどうなんだろう。
僕はどちらを望んでいるんだろう。
颯太がいじめられていて、嫌々万引きをやらされた現実か。
それとも、颯太が自分の意志で万引きをした現実か。
どちらの方が親として責任がないのだろう。
そこまで考えて、僕はまた自己嫌悪に苛まれる。
ここにきても、僕は僕の落ち度だけを心配してしまっているのか。

「本当に、くそみたいな親だな」
美咲が病死してから2年。
弱音だらけの独り言は日に日に増えていく。
「どっちにしたって、僕は颯太と向き合うのが怖いよ」
僕はぐっと目を瞑り、空から落ちてくる槍から身を守るように、ソファーの上で縮こまった。手にしたままのカードが、掌の中でぐしゃっと音を立てた。

「本当、あきくんは弱っちいなぁ」
ぼんやり聞こえた懐かしい声に、僕ははっと顔を上げる。
そこにはいつもと変わらない、物が散乱したままのリビングがあるだけだった。
僕は自嘲しながらため息をつく。
死んでしまってもなお、美咲に縋りつこうとしている自分がもはや可笑しかった。
ゆっくり目を閉じると、途端に眠気が込み上げてきた。
襲い来る睡魔にあがらう気もおこらず、僕はあっさりそれを受け入れようとソファーの背もたれに身体を沈める。
もう何も考えたくなかった。

「寝ちゃだめだってば。明日颯太とちゃんと話さなきゃだめなんでしょ。あきくん、ちゃんとできるの?」
頭の中にかかった靄を切り裂くような、はっきりとしたその声に、僕は飛び起きる。
今度は間違いない。
確かに美咲の声がしたのだ。
僕は目の前の光景に焦点を合わせる。
もうここは夢の中なのか、それとも幻ななのか。
すっかり見慣れた寂しい空間には、毎日毎日焦がれるほど望み続けた美咲の姿があった。

「あ、あ…。美咲…」
呆れるぐらい情けない声がぼくの口から漏れる。唇はわなわなと震えていた。
「美咲、なのか」
テーブルの向こうで、カーペットの上にちょこんと座る美咲は、眉を下げて「そうだけど?」と笑った。
その呆れたような笑顔が懐かしくて、鼻の奥がつんとした。
「なんで、美咲が。幽霊?夢?」
僕はソファーから転げ落ちるようにふらふらと美咲のそばに寄ると、その華奢な肩に手を伸ばす。
心のどこかで、触れようとしても透けてしまうのではないかと覚悟していた。しかし、意外にも僕の手は美咲の実体をとらえ、その体温までも感じられた。
「さぁ、わかんないし、覚えてもないけど、あきくんが今困ってるのは知ってるよ。困りきって逃げそうになってることも」
美咲は、僕が手にしたままのぐしゃぐしゃのカードを指差しながら、僕に問いかける。
「さて、あきくんは明日颯太とどう向き合うのでしょうか」

こんなわけのわからない状況でも、美咲の顔を見ているうちに不思議と心は落ち着き始めていた。
残念ながら、これらきっと夢なのだ。
僕の弱い心が、夢に彼女を呼び出したのだ。
情けない状態ではあるが、夢の中なのだから、僕は思う存分美咲に甘えられるし、助けを乞うこともできる。
僕は肩の力を完全に抜いて、素直に美咲に今の思いをぶつけることにした。

「さあ、どうすればいいんだろう。とりあえず万引きの理由を聞くんだろうけど、正直に話してくれるかな」
美咲は「どうだろうね」とだけ呟く。
いつ覚めるかもわからないこの夢の中で、沈黙している時間がとても勿体無く感じられ、僕は続けざまに口をひらく。
「颯太がいじめられてるって可能性はないよな?無理矢理やらされたとか」
「あるかもしれないね。あなたは颯太がいじめられるタイプじゃないと思ってるみたいだけど、あの子、小学2年生の時いじめられてたしね」
「え?うそ」
「ほんと。同じマンションの上級生に」
美咲は、まるで何でもないことのように答える。
驚くべき事実に、僕は「どうして僕は知らなかったの」と、弱々しく尋ねるしかない。
「だって、その頃といえば、あきくんは出世がかかった大事なプロジェクトのリーダー様だったからね。殆ど家にいなかったし、大変そうだっから耳に入れなかったのよ。プロジェクトが落ち着く頃にはいじめも終息してたし」
「そういう問題かよ」
「でも、当時言ってたとしても、あきくんは困っちゃうだけで、何もできなかったでしょう」
美咲の遠慮のない指摘に僕は返す言葉がない。
夫婦喧嘩となればいつだって、美咲の完全勝利だったことを思い出す。
「それで、いじめはどうやって解決できたの?」
「それはもう、私がいじめっ子たちのところに行って、泣くまで叱ってやったのよ。騒ぎに駆けつけたいじめっ子の母親たちも味方になってくれて、トドメをさして終了。そっから颯太もサッカーやりだして逞しくなってったしね。見事な解決っぷりでしょう」
「君はいつも大胆すぎるよ」
僕は呆れた表情を作りながらも、内心感心していた。
僕ならよその子を叱るなんて到底できない。僕の行動のせいでもし颯太が余計酷い目にあってしまったら、とか、いじめっ子の親が怒鳴りこんできたら、とか、常識的に考えられるあらゆることを想定して動けなくなってしまうだろう。
しかし、美咲は違う。
一応色々想定したうえで、「そんなの知るか」と動き出せてしまうのだ。
勿論美咲の人生においては、それで失敗することの方が多かったに違いないのだが、彼女はその生き方を最後まで貫き通した。
そんな彼女に僕は、どうしようもなく惹かれていたのだ。

「まぁ、そういうことで、もしかしたらまた誰かにいじめられてるのかもしれない。そしたらあきくんはどうするの?」
美咲は僕を真っ直ぐ見つめる。
投げかけられた言葉を、僕は頭の中で反芻する。

颯太がいじめられていたとしたら。
そう考えた時、内心どこか安心している自分に気付く。
颯太がいじめを受けていることは心苦しいし、許せない。
しかし、いじめられていたならば、今回の万引きは颯太が悪いのではない。
むしろ颯太は被害者なのだ。
そう思うと、自分も「親の責任」という重荷から逃れられたような気がした。
しかし、心が軽くなるのは一瞬だけで、すぐにまた別のずっしりした重荷が僕を襲う。
万引き問題はそれで済んでも、いじめという過酷な問題が、僕と颯太を捕らえ続けるのだ。
僕は「いじめの解決」という模範解答の存在しない課題に押しつぶされる日々を想像しただけで絶句し、助けを求めるように美咲の大きな瞳を見つめ返す。


僕がギブアップしたと判断した美咲は、小さく溜息を漏らす。
「私が言うのもあれだけど。残念ながら、颯太の親はもうあきくんしかいないんだよ。これから何がおこっても、あきくんは颯太と2人で立ち向かっていかなきゃならないんだよ」
美咲はまた僕を見つめる。
思いの外優しいその眼差しに、僕は涙腺が緩み出すのを感じ、ぐっと歯をくいしばる。
いくら夢であれど、彼女の前で泣くのはあまりにも情けない。


僕はわざとふざけたように唇を突き出しながら、涙を誤魔化すために軽口を叩くことにする。
「立ち向かうって、君みたいにいじめっ子の家に殴り込むってこと?」
「あぁ、それはだめだよ。あきくんみたいな弱っちそうなのがでてきても、返り討ちにされちゃう」
美咲の思わぬ返答に、言葉を失う。
僕は妻にずっと、「弱っちそう」だと思われていたのか。
「じゃ、じゃぁどうすれは」
どうにか声になった言葉は、なるほど確かに弱っちい奴のそれだった。
「うーん、そうだねぇ」

静かな沈黙が生まれる。
壁に掛かった時計の秒針がチクタクチクタク4回鳴り、沈黙を恐れる僕が無計画に口を開こうとした時、美咲が呟くように話し始めた。
「私さ、いじめられてたことあるんだよね、中学生の頃」
「え?」
初耳だった。
僕と美咲が出会ったのは大学生の頃だから、それ以前のことは、美咲が話すこと以外殆ど知らないのは当然だ。
しかし「いじめ」と「美咲」は全く別の世界にカテゴライズされているような気がして、颯太がいじめられていたと聞いた時よりその事実は信じられなかった。

「生意気だとか、調子乗ってるとか、まぁよくわからない理由で、無視とか嫌がらせとかされてたことがあってね。担任も知らんぷりだし、私も参ってて」
美咲は、珍しくぼそぼそと話を続ける。
「今思えば馬鹿らしいけど、その頃は学校だけが自分の世界だったからね。そこに居場所がないって事実がもう恐ろしくて。死んじゃおっかなって思ったこともあったの。まぁ実際今は死んじゃってるんだけど」
僕は、美咲の取って付けたような幽霊ジョークに反応できないぐらい、ショックを受けていた。
明るくて優しくて強い、僕の最愛の妻を、そんなにも追い詰めた人間がこの世にいただなんて。
もう20年以上も前のことだとわかっていながら、僕は美咲を追い込んだ人間に、計り知れない怒りを覚えた。
「でね、そんな時、いじめられてることが親にばれちゃってね。恥ずかしいし情けないし、もう最悪だーって思ったんだけど、そっから毎日両親がどうすればいいのか熱心に考えてくれてね。その解決策がまた全部ぶっとんでて、全く役立つことはなかったんだけどさ」
美咲は少し照れたように笑った。
僕は、数年前に亡くなった美咲の両親の逞しい顔を思い浮かべる。
美咲の大胆さや強さはこの親あってのものなのか、と、結婚当初しみじみ納得してしまったことを思い出し、僕も思わず笑みをこぼした。
「でも、ありがたかったんだ。あんな情けなかった私のこと、恥ずかしがることも、目を逸らすこともせず、一緒に悩んでくれてさ」
結局いじめは、クラス替えと同時にあっさり消滅したのだと、美咲は話してくれた。


「話を戻すけどね。もしも颯太がいじめられてたとしても、あきくんが投げ出さずに、しっかり颯太の話を聞いて、一緒にうんうん唸りながら、解決策を考え続ければ、颯太は大丈夫だよ、きっと」
「君の子だから?」
「そう、私の子だから」
美咲はにっこり笑う。

ソファーで眠っている颯太が、小さく寝返りをうつ。美咲はゆっくり颯太のそばに寄り、愛おしそうにその髪を撫でた。
それはとても美しい光景のように思えた。
時計は、深夜3時をさしていた。

しばらく颯太の寝顔を幸せそうに見つめていたは美咲は、ふと思い出したかのように再び僕に呼びかける。
「それより、あきくん。いじめの可能性を心配するのもいいんだけど、颯太が自分の意志で万引きしてた場合の対応がわりと重要なんじゃないの、親としては」
「確かに」
何となく話がまとまった気になっていたが、まだ颯太との向き合い方を僕は全く定められていなかった。

「もしも颯太の意志で万引きをしていたなら、どうすればいいんだろう。怒るのかな?諭すのかな?美咲のご両親はどうしてた?」
「知るわけないでしょ、私、万引きなんてしたことないし」
思わず口にした問いかけをぴしゃりと跳ね返され、僕はしゅんとしてしまう。

「あきくんは?したことないの?万引き」
「え?」
あるわけないじゃないか、と言いかけて、僕は口をつぐんだ。
「え、あるの?」
美咲は意外そうに、僕が再び話し始めるのを待っている。

その時、僕の頭の中では、幼い頃の記憶が驚くほど鮮明に再生され始めていた。
それは、今日まで全く思い出されることのない記憶だった。

「未遂を、おかしたことは、あるかも」
僕は突然呼び覚まされた記憶に戸惑いながら続ける。
「小学生になりたてぐらいの頃かな、ショッピングモールの文房具売り場で、お試し用のペンや消しゴムを並べてるコーナーがあったんだ」
やけにはっきりと思い出せるそのコーナーには、フルーツやパンの形をした色とりどりの消しゴムが沢山置いてあった。

幼い僕は、それらにとても心を惹かれていた。
親に言えば買ってもらえたかもしれない。そもそも冷静に考えれば、それほど欲しいものでもなかったかもしれない。
だけど、何故か僕はその中の1つ、パイナップルの形をした黄色い消ゴムを、ズボンのポケットに入れてしまったのだ。
「なんで盗っちゃったのかは覚えてないんだ。ポケットに入れたことは誰にもばれなかった。でも、だんだん僕は怖くなってきて、ショッピングモールのトイレに駆け込んで、洗面台のところにその消しゴムを置いて逃げたんだ」
消しゴムを置いた洗面台の位置まで詳細に思い出せることを、何より僕が驚いていた。
今までほんの一瞬たりとも思い出されることのなかった記憶が、どうしてここまで完璧に僕の頭に記録されているのか。
「まぁ未遂ってのがあきくんらしいよね」
僕の話を一通り聞いて、美咲は愉快そうに笑った。
「でも、その時あきくんは何が怖くなっちゃったんだろう。実際ばれずにその売り場は抜け出せたんでしょ?」
「うーん」


僕は再び記憶の中に潜り込む。
あの時、僕は万引きがバレることを恐れていたわけじゃなかったはずだ。
あんな小さな消しゴムが僕のズボンに入ってることなんて誰にもわからなかったし、そもそもあれは、沢山あったお試し用の1つで、売り物でもなかった。
お店の人はなくなったことにも気付かないだろうし、気付いたとしても大した問題にはしないだろうと、僕は幼いなりに考えていたはずだ。
では、僕は何を恐れていたのだろう。

「誇りを、失うのが怖かったんだと思う」
その言葉は、意外にもすっと僕の口からでてきた。
言葉にした後で、「誇り」という大袈裟な表現に少し恥ずかしさを感じたが、それが一番自分の中でしっくりときた。
その言葉は、幼かったあの頃では、きっとどれほど考えても辿り着けなかった答えだった。


「盗んだことはばれなくても、僕は盗んだことを知っている。その罪悪感をこれからずっと持ち続けることに、僕は恐ろしくなったんだ。一度そんなずるいことをしてしまって、これから自分を信じられなくなることも。僕はそれが怖かったんだと思う」
「それも、とてもあきくんらしいね」
美咲が優しく笑いかける。
その美しい表情に、あんなに堪えようと決めていた涙が、いとも簡単に僕の目からぽろりと落ちた。

「未遂」と言えど、長年鮮明な記憶として僕の頭に残っていたこの罪を、美咲が赦してくれたような気がした。


「その話を、颯太にもしてあげればいいよ」
美咲は、堰を切ったように涙を流し続ける僕の頭をぽんぽんと撫でながら、ゆっくり語りかける。
「颯太、ずっと泣いていたんでしょう。きっと罪の意識に潰されそうになって苦しんでるのよ。何でそんなことしたのかは聞かなくちゃいけないし、やってしまったことはちゃんと叱らなきゃいけない。その後で、あなたのその話をしてあげて。きっと、今のあの子はあなたの話がよくわかるはずだから」
「ちゃんと伝わるかな?このままぐれたりしないかな?」
子供のように泣きじゃくる僕は、まるでさっきまでの颯太みたいだった。
不安で、不安で、ただ怖かった。
「大丈夫」
そんな不安を、美咲の言葉がゆっくり消し去っていく。
「僕の子だから?」
「あきくんの子だから」
笑顔を作ろうとするが、うまくいかない。
こんなにも充たされた気持ちなのに、涙は全く止まる気配がない。
それから美咲は長い時間、2年間ため続けたありったけの僕の弱音を、呆れもせず受け止め続けてくれた。

いつの間にか、カーテンの隙間から弱々しい光が遠慮がちに差し込んできた。
隣の部屋から、微かに生活を始める音が聞こえ始める。
朝がきた。

泣き疲れて、もう涙もでなくなった僕は、そっと美咲の手を握りしめる。
その手はやはりとても温かく、彼女がこの世にいないだなんて、とても信じられなかった。
だけど、美咲はもういない。
幽霊は朝が来れば消えてしまうし、夢は目覚めれば終わってしまう。
今ここに美咲がいるという奇跡が、どうして起こりえたのか、僕には想像することもできない。
しかし、そんな奇跡もきっと今終わりを迎えようとしている。

「美咲、美咲」
ごめん。最後にそう言おうとした。
こんなに情けなくて、弱っちい僕が生きていて、こんなにも強くて優しい美咲が死ぬなんて。
颯太に申し訳ない。
美咲に申し訳ない。


「あきくん」
美咲は、僕の名前を一音一音大事そうに、丁寧に呼んだ。
そして、壊れやすい、愛しいものに触れるように、そっと僕の頬に手をあてる。
「ありがとうね」
それが何に対しての言葉なのかもわからないまま、僕はただぶんぶんと首を振る。
美咲にありがとうと言われることなんて、僕は何一つできていないのだ。
「あきくんは大丈夫だよ」
美咲は優しく言葉を続ける。
「私が信じた人だから」
急に視界が霞む。
猛烈な眠気が僕を襲う。
駄目だ、寝ちゃ駄目だ。僕の頭は必死にそう呼びかけるのに、そんな命令などお構いなしに、瞼はずんと重くなる。
「美咲…」
いかないでほしい。幽霊でも夢でもいい。お願いだから、行かないで。
「そして、颯太も大丈夫だよ」
「美咲の、子、だから?」
途切れそうになる意識をどうにか繋ぎ止めながら、僕はなんとか笑ってみせる。
「行かないで」と「安心して行って」という矛盾した思いが、僕の中で激しくせめぎ合う。
「ちがうよ」
美咲は僕の手をぎゅっと握りしめる。
「私とあきくんの子だから」

こんなことを言うのはかなり恥ずかしいことだとわかっているが、優しい朝陽を浴びながら微笑む美咲は、我が妻ながら、天使のようだった。

「美咲」
何よりも愛しいその名前を、呼び終えたか、終えなかったか。
僕の意識はそこで途切れた。


目覚めた時はもう昼過ぎだった。
美咲の姿は勿論どこにもなかった。
自分の頬に触れると、颯太がそうだったように涙が乾いてパリパリになっていた。
僕は呆然としたまま、隣でまだぐっすり眠っている颯太の寝顔を見つめる。
安らかに眠っている颯太の口元は、どこか幸せそうに笑っていた。
「お前もお母さんの夢、見てるのか?」
そうだとしたら嬉しい。
自然と頬が緩んだ。
颯太と向き合う覚悟は既にできていた。
「ありがとう」
僕はソファーから立ち上がり、美咲が幸せそうに笑う写真に向かって呟きながら、颯太とのこれからを思った。

(く)クリスマス・サプライズ

隣の席に座った男の顔を見たとき、ぴんときた。男が網棚に何やら荷物を押し込み、座席に腰掛ける際、一瞬だけ目があったのだ。
その「ぴん」は、運命の人を見つけた時の「ぴん」でもなければ、「あ、◯◯さんだ」という明確な「ぴん」でもない。
誰かはわからないし、恐らく知り合いでもない。
しかし、どこかで見たことがあって、しかも割と重要な人物なのではないか、という警察官の勘による「ぴん」だった。
とは言っても今はもう勤務外で、僕は家族のもとに帰る電車に乗っていた。
普段であれば勤務外だとしても、何らかの事件と関連があるかもしれない人間を見ると必死に頭を回転させ、その人物の動向を探るぐらいのことはするのだが、今日は全くそんな使命感は湧いてこない。
もしも仮にこの男が犯罪者だったとして、僕が下手に気付いてしまいでもしたら、今晩は家に帰れなくなってしまうかもしれない。
何があってもそれだけは避けたい。
今日は愛すべき家族と過ごす年に一度のクリスマスイブなのだから。

時刻はすでに21時を過ぎていた。
本来なら18時には勤務先である交番を出て、19時には自宅に着けるはずだった。
しかし、そういう日に限ってごたごたした些細な事件は起こるものだ。
くだらない残業を終え、予定より2時間遅れて僕は電車に乗り込んでいた。

車内は程よく混んでおり、仕事帰りのサラリーマンや、デート帰りの若いカップルたちが、通路を挟んで二席ずつ並べられた座席を埋めていた。
あと30分もすれば自宅の最寄り駅に着く頃だ。
僕は足元に置いた紙袋の中身をちらりと確認する。
ロフトの紙袋の中には真っ赤な衣装が入っている。それはサンタクロースの衣装で、ご丁寧にふわふわした真っ白い付け髭までついている。
サンタクロースサプライズは、そろそろサンタの存在を疑い始めた小学二年生の娘、彩香のために準備したものだった。
準備したと言っても、交番の近所の小学校でサンタの格好をして交通指導した時のものを物置から引っ張り出してきただけなのだが。
僕は背もたれに上半身を預けながら、娘のことを思い浮かべる。
サンタの正体を暴こうと、薄眼をあけて寝たふりをする彩香。暗闇の中、プレゼントを持って現れるサンタ。
彩香は起き上がるだろうか、それともドキドキしながらも眠ったふりを続けるだろうか。
自然と頬が緩んだ。

そんな僕の平和で安らかな妄想を打ち砕いたのは、キィーっというけたたましいブレーキ音だった。
僕は思わず窓の外を見る。
電車は大きな川に架かる橋の丁度真ん中あたりを走っていて、窓の外には殆ど灯りが見えない。勿論外が明るくてもここからでは電車がブレーキをかける原因等わかるわけもないのだが。
窓からは辛うじて雪がちらつき始めていることが確認できた。
ブレーキ音を合図に電車はみるみる減速し、数秒後には完全に停止してしまった。
車内が静まり返ると同時にアナウンスが入る。緊急事態に慌てているのか、それとも普段からそんな感じなのか、やけに早口の女性が、緊急停車を無感情に詫びた。車体に何らかの異変が確認されたが、それが何なのかはわからないという旨も同時に伝えられた。
アナウンスに周りはざわめき、後ろの座席からは舌打ちが聞こえた。

僕は何も見えない窓の外を見つめたままため息をつく。 早く帰りたい日に限って残業は発生するし、おまけに電車が遅延したりするものだ。
電車に乗り込んだ時点で、もうとっくに晩御飯を家族と共に食べられる時間は過ぎていたが、クリスマスケーキは一緒に食べられるはずだった。
しかし、22時を過ぎればさすがにまだ幼い娘は待っていられないだろう。
一刻も早く電車を動かせてもらえないだろうか。
「只今原因を調査中」と早口に繰り返すアナウンスに、僕はただただ懇願するばかりだった。

「あなたもサンタクロースですかな?」
この小さな不幸せに絶望し、頭を抱えていた僕は、最初その言葉が自分に向けて発せられているものだとは思わなかった。
視界の隅に入っていた隣の席の男が、こちらに顔を向けていることに数秒遅れで気づき、僕は慌てて男に目を向ける。
その男は真面目なサラリーマンにも、イタズラ好きな老人にも見えた。
白髪が混じる髪は丁寧に整えられており、顔には皺が多いが老けている印象は一切受けない。50代と言われても不思議ではないし、70代と言われて納得できる。不思議な雰囲気のある男だった。
僕は幼い頃から比較的記憶力に自信があり、人の顔に関しては一度会えばよっぽど個性のない顔でない限り概ね忘れはしない。
しかし、その男の顔を見たことがある気はするものの、どうしても記憶の中に該当する人物がいなかった。恐らくこんなに至近距離で見たことはないのかもしれない。
「どこかで見たことある男」に、「突然わけのわからない質問をされた」という事態に、僕は男に顔を向けたままただ目をぱちくりさせていた。
すると、彼は「それ」と、僕の足元を指差して微笑んだ。
僕は、その指が指す紙袋に視線を落としてから、漸く質問の意味を捉えた。
「あ、あぁ、そうです。今晩はサンタです。娘がサンタの存在を疑いだして」
僕は男に向き直って微笑んだ。
そして、「あなたも」と言った男の言葉を思い出し、「おたくもですか?」と加えた。
男は「ええ」と微笑んで、膝の上に置いてあったトートバックを傾け、中身を僕に見せてくれた。そこには綺麗な赤色の衣装が入っていた。それは一目見るだけで、僕のペラペラの衣装とは異なり、上質な生地でできていることがわかった。
「娘さんはおいくつなんですか?」
トートバックを再び膝の上に真っ直ぐ立たせながら男は尋ねた。
「小学二年生です」
「あぁ、確かにサンタクロースを疑い始める年ですね。もっと早くに疑う子供も少なくはないでしょうが」
「おたくのお子さんはまだ信じてますか?」
そう聞いてから、「お孫さん」ではなく「お子さん」だったかな、と少し後悔したが、彼は「わかりませんが、まぁ信じていてほしいという大人のエゴですな」と上品に笑った。
男が言い終わると同時に、再び車内アナウンスが流れた。
当初から情報が更新されることも、女性の早口がなおることもなく、「原因を調査中」という内容を2回繰り返し、アナウンスは切れた。
「これは思わぬ足止めですな」
僕は彼の言葉に大きく頷いて同意を示す。
「そういえば、サンタのモデルが何かはご存知ですか?」
男は徐に僕に尋ねた。
電車が動かないことへの苛立ちや退屈さを、僕との会話で埋めようとしているのだろう。僕自身も暇を持て余していたので、彼の話にのることにした。
「あぁ、聞いたことがあります。確か聖人とかなんですよね」
「よくご存知ですね、聖ニコラスという人物です。ある晩、貧しさゆえに娘を嫁に出せず苦しんでいた家に、彼がこっそり金貨を窓から投げ入れたのがモデルなんですって」
「テレビで見たことある気がします」
僕は昔みたそのテレビ番組の内容をぼんやり思い出しながら続ける。
「でもニコラスさんは12月24日に金貨を送ったわけでも、真っ赤な服と帽子を身につけていたわけでもないんですよね」
「ええ、そもそもクリスマスはイエスキリストの誕生日ですしね、ニコラスは関係ありません。今のサンタイメージは後にコカコーラ社が作ったものらしいですしね」
僕は「へぇ」と漏らす。
皆が皆「サンタクロース」だと思っているあの陽気な老人は、大企業により緻密に設計されたデザインにすぎなかったわけだ。
そう思うと、途端に安っぽい真っ赤な衣装に今夜身を包もうとする自分がやけにマヌケに思えてくる。
「サンタクロースの成り立ちは何にせよ、大人は子供にサンタクロースを信じていてもらいたいし、子供はサンタクロースに実在してもらいたい」
なんとなく足元に置いた紙袋を隅においやる僕を尻目に、男は独り言のように呟いた。
そして、照れたように笑いながら続ける。
「ここまでその存在が否定されているのに、どうしてサンタクロースにはこうも魅力を感じてしまうんでしょうね」
「そうですねぇ」僕は男の言葉について考える。
普段ならこんな話、てきとうに流して「まぁいいじゃないですか、どうでも」と笑い飛ばしてしまうだろう。
しかし、今は完全にすることもなく、いつ解放されるかもわからない密閉空間に知らない人間同士が閉じ込められている。そんなプラスの要素が何一つ見つけられない中、呑気な会話に集中することは精神の健康のために最適であると僕は考えていた。
「まず設定に夢がありますもんね。貧乏でも欲しいものがもらえる、とか、良い子にしてればサンタさんが来る、とか。実在することにメリットしかないわけだ」
僕の返答に男は嬉しそうに笑う。
こんなぐったりした空間で、いい大人が二人してサンタクロースというテーマに花を咲かせる光景はさぞ異常なものだろう。
しかし、僕たちはその後もサンタクロースに纏わる歴史やその存在価値についての意見を交わし合い、自分でも驚くほどあっという間に時は過ぎていった。
そして、彼がサンタクロースのもう一つのモデルであるアイスランドの妖精の話を終えた頃、とうとう車内アナウンスが運転再会を告げた。
車内から小さな歓声が湧いた。
アナウンスは緊急停車の原因となった電気系統のトラブルについて説明をしていたが、早口過ぎて殆どわからなかった。時刻はまもなく22時だった。

電車がゆっくりと動き出した頃、僕は昨年おこったある事件を思い出した。
はっきり思い出すより先に、「そういえば」と話し始める。
電車が動き出したことへの安堵と、聞き上手なこの男との会話の心地よさから、口が軽くなっていたのかもしれない。
「僕、実は警察官なんですけどね、昨年のクリスマスに一件相談を受けましてね」
男は「警察官」というワードに、「ご立派なお仕事を」と反応し、話の続きを促した。僕はさらに気分が良くなる。
「その相談というのは、クリスマスイブの夜に何者かが不法侵入しているかもしれない、という女性からのものだったんです」

その女性は、交番のすぐ傍のアパートに住むシングルマザーだった。
まだ若いはずなのに、すっかり窶れた顔からは一人で子供を育てることの苦労や辛さが滲み出ていた。
彼女は少し戸惑ったように何度も言葉を選びなおしながら、事の経緯を話した。

彼女は小学一年生になる一人息子を養うため、前日の夜、つまりクリスマスイブに飲食店で夜勤をしていた。クリスマスを祝うどころか、息子にプレゼントを買ってやる余裕は金銭的にも精神的にも彼女にはなかった。
クリスマスの朝、夜勤を終えて帰宅すると、息子は何やらはしゃいで見覚えのないオモチャで遊んでいた。
それは小学生の間で流行っているロボットのオモチャだった。
彼女は、寝不足でぼーっとする頭を動かしながら、「それはどうしたのか」と息子に尋ねる。
「サンタさんだよ!」と弾けたように笑顔を見せた息子が説明するには、朝起きると玄関マットの上に、綺麗にラッピングされたそのオモチャが置かれていたらしい。
「盗られたものとかはなくて、なんか気味悪くて」
彼女は困ったようにそこで言葉を切った。
僕は、彼女のアパート周辺の警備の強化を約束してから、周辺に設置されている監視カメラのデータを集め、念のため確認を開始した。
別に被害届がでているわけでもないので、聞き流してしまっても良かったが、その日はとてつもなく暇だったのだと思う。
そうして、監視カメラが記録していた見慣れた風景をぼんやり見ていた時、それが映ったのだ。

「何が映ってたんですか?」
トートバックを抱え、興味津々で尋ねる男の反応に、僕は得意げに笑う。
そして、「それがね」もったいぶるように一拍置いてから「サンタクロースだったんですよ」と、続けた。

その映像には確かにサンタクロースが映っていた。
あの、コカコーラ社がプロデュースしたお馴染みの衣装と髭を装着し、何かがぎっしり詰まった白い袋を肩に担いでるサンタクロースが、だ。
監視カメラの映像は白黒だったため、その衣装が赤かどうかはわからなかったが、一目でサンタクロースの格好をしている「誰か」だということがわかった。
僕は一応そこに映ったサンタクロースの顔を拡大するなり、鮮明化するなり工夫を凝らして、シングルマザーの女性に確認してもらったが、彼女は「見覚えはない」と答えただけだった。

「あれはなんだったんでしょうか」
僕は興味深そうに頷いている男に問いかけるように言葉を続ける。
「交番内では、彼女の元旦那のサプライズじゃないか、とか、戸締りを忘れていて誰かが部屋を間違えたんじゃないか、とかで片付けられたんですけど」
電車は大きな川を渡ってしばらく走った後、僕の最寄駅から3つ前の駅に到着した。
車内の何人かが、やれやれといった感じで降りていく。
「本物のサンタクロースだったりして」
入れ替わる人たちを横目に見ながら、男は優しく微笑む。
僕もつられて微笑む。
「あなたは、そのサンタクロースをどう思いますか?」
男は微笑みながら僕に尋ねる。その表情は優しくも厳しい校長先生のようだった。
「人様の家の扉を勝手に開けるのは犯罪だ、たとえ足を踏み入れず、プレゼントを置いていってるだけだったとしてもね。警察官のあなたとしては、そんな人間をどう思いますか?やはり、逮捕すべき犯罪者ですか?」
僕は彼の言葉を脳内で反芻する。
あの女性は気味悪がっていたが、子供にとっては幸福な思い出となるはずだ。
しかし、法に触れる行為は褒められたものではない。
「そうですね、警察官という立場からは何とも言えませんが」
僕はふと、監視カメラの映像を見た時の女性の顔を思い出す。
サンタクロースの格好をしたその謎の人物を見た途端、小さく吹き出して、柔らかく笑ったその女性の顔を。
「もしもサンタクロースがいるのだとしたら、決して捕まらないようにやっていただきたいですね」
僕の答えを聞くと、男性は軽快に笑った。
電車はまた走りだし、間も無く次の駅へ到着することをアナウンスが告げる。

「さて、私は次の駅だ。漸く我々もサンタクロースになれますね」
「ええ、でも僕が帰る頃には娘は熟睡してそうですけどね」
苦笑いする僕に、男性は優しく笑って言う。
「現実世界と夢の世界は意外と繋がっているものですよ。どうか娘さんが眠っていてもその衣装を着て、プレゼントを置いてあげてください」
電車はだんだん速度を下げていく。
乗客の何人かは、脱いでいたコートを着たり、荷物を網棚から降ろすために立ち上がり始める。

男はトートバックから赤いマフラーを引っ張りだし、首に丁寧に巻きながら、「そういえば」と、僕を見た。
「サンタクロース協会というのはご存知ですか?」
僕は首を振る。
「元気と暇とお節介を持て余している老いぼれたちが結成しているお遊びの会です」
「何をする会なんですか?」
僕が言い終わると同時に、電車がホームに滑り込んだ。男性は立ち上がる。
そして、トートバックとは別に、網棚から大きな荷物を取り出して両手で抱えた。
僕は「あ」と声を漏らす。
男は、なにやら物が沢山詰まった大きな白い袋を肩に担ぐと、にこっと笑って答えた。
「サンタクロースの真似事なんですって」
電車の扉が開く。乗客は通路に小さな列を作り、ゆっくり下車してゆく。
「こんな夜にあなたとお会いできてよかった。メリークリスマス」
「あ」の形で口を開けたままにしている僕に手を振り、男は車内から姿を消した。
少し遅れて、僕の頭の奥で「ピン」という音が間抜けに鳴った。

(こ)これからの話を

「佳菜子ってさ、友達全然いないよな」

それまで聞き流していた話の中に突然組み込まれた自分の名前にはっとし、私は思わず「え?」と声の主、雄一を振り返った。

「聞いてなかっただろ。お前最近ずっとぼーっとしてるよ」

彼は短くなった煙草を灰皿に擦り付けながら、呆れたように言った。

私は「ごめん。何の話だっけ」と、取り繕うように笑いながら鏡に向かいなおす。

どこかの国のお城にあるかのような、メルヘンチックなデザインの大きな鏡には、何とも平凡な顔立ちの女が崩れたメイクのまま映っている。

「来週のジャズコンサートのチケットが2枚余ってるから、お前にやるよって話。ニューヨークで超人気なやつだぜ」

そういって雄一は、灰皿の横に置いてある彼の勤める会社のロゴが入った薄い封筒を、トントンと指で叩いてみせた。

「でも、お前にペアチケットあげても、いっつも一人で来るんだけどな」くくく、と冗談めかして笑う彼を横目に、私は崩れたメイクを無心でなおし続ける。

雄一はイベント企画会社に勤めていて、彼と同じ歳の妻と、小学生の娘を持っている。自分が企画に携わる大きなイベントのチケットを、彼はいつも妻と娘の二人分用意する。そして、コンサートが彼女らの趣味や予定に合わなかった時、彼は時々私にチケットを譲ってくれていた。

「友達ぐらいいるよ。予定が合わないだけ」

「へぇ。見てみたいもんだねぇ、佳菜子のお友達」雄一は「お友達」をやけに強調しながら言うと、ベッドの上に脱ぎ捨てられていたワイシャツの袖に腕を通す。そして、外していた指輪を左手の薬指にしっかり嵌めてから、ベッドに組み込まれているデジタル時計が午後3時を指すのを確認すると「じゃ、仕事戻るわ」と、部屋の扉に手をかけた。

「また連絡する。」いつもの台詞を何の感情もなく私に投げかけると、彼は振り返ることもなく出ていった。

私は最低限メイクを整えた顔を鏡で確認し、化粧ポーチを鞄にしまう。

部屋を出るとき、虫の死骸のような煙草の吸殻が何本も入った灰皿の横の封筒に目がいった。私はそっとそれを手に取り、ため息をもらす。

彼の言うとおり、私には「友達」と呼べる人間なんて、一人もいなかった。

やけに重く感じられる僅か数gの封筒を自分の鞄に押し込めて、私はホテルを後にした。

 

異変に気付いたのは、自宅の扉を開ける時だった。

用心深い母は、上下2ヶ所についたドアの鍵をいつもきっちり閉めてから出かけるのだが、今日は下部の鍵が開いていた。

いつものように2つとも鍵を開けたはずなのに開かないドアに私は一瞬困惑し、何パターンか上下の鍵穴をガチャガチャと開けたり閉めたり繰り返し、漸く玄関に入ることができた。

ケータイを確認すると、5分ほど前に「友達と買い物にでかける」と、母から連絡がきていた。

うっかりしていたのだろうか、それとももう年なのだろうか。ぼんやりと今年還暦を迎える母を心配しながら、家にあがり、居間へのドアを開いた。

「あ…。」

空気が漏れたような、乾いた声がした。それは、少女のもののようにも、老爺のもののようにも聞こえた。

その声に少し遅れるようにして、「え?」という自分の声が、25年間暮らしてきた馴染みある空間に吸い込まれていった。

すっかり見慣れた居間にある、全く見慣れない存在に、私の思考は止まる。

そこには、真っ黒なジャージを纏い、ドラマの中の銀行強盗が被っている「私は強盗です」と名乗るかのような目出し帽で顔を隠した「誰か」が、こちらに身体を向けたまま停止していた。

私と、その黒ずくめの「誰か」は、随分長いことお互いを見つめ合ったまま硬直していた。「長いように感じた」というよりは、実際に長い時間そうしていたのだろう、床の冷たさが足に伝わり、じんじん痛み出していた。その冷たさと、経過した時間により幾分か冷静になった頭で、私は黒ずくめの存在を、「強盗」だと判断した。そして、目だけをそっと動かし、周辺の様子を伺う。居間が荒らされた形跡はなく、強盗自身も何も手にしていないようだった。

私と強盗は、炬燵を挟んで立っていた。強盗の後ろには庭に出られる引き戸がある。

何も盗っていないのなら、早くそこから逃げてくれないか。そう願わずにはいられない。

しかし、強盗は逃げるどころか、マネキンのように微動だにせず、その場で固まり続けている。

いっそ捕まえにかかってやろうか、そんな短絡的な考えが浮かび始めた時、ぐぅーっという小さな獣のうなり声のような音が、静まり返った居間に響き渡った。

私は何が起こったかわからず、ビクッと身体を強張らせる。そして、恐らく音の主だと考えられる強盗を窺うように見た。

今まで全く動かなかった強盗は、私の視線から守るかのように両手を自分のお腹にあて、へなへなとその場に座り込んでしまった。

「あの…」私は、お腹を抱いたままがっくりと項垂れる強盗に恐る恐る声をかける。

「大丈夫ですか…」強盗の腹は、堰を切ったかのように鳴り続けている。

「お腹すいた…」微かに聞こえてきた涙声は、まだ若い女の子の声だった。

「えっと、何か食べますか?」あまりにもお人好しな台詞に、我ながら馬鹿だと呆れたが、座り込んだ彼女は目出し帽を脱ぐと、「お願いします」と消えそうな声で頭を下げた。

 

彼女はマナミといった。

それが本名なのか私にはわからなかったが、別に構わなかった。

お金に困り、どこかの家に盗みに入ろうとこの辺りをうろついていた時、年老いた女性が家の前で鍵を落とすのを偶然目にした。

こんな幸運はない、と鍵を拾い侵入したのが、まさに我が家だったというわけだ。

マナミは昨晩の残り物であるカレーライスを頬張りながら、何度も何度も泣きながら謝っていた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔は、とんでもなく無垢に見えて、私は怒る気もわかなかった。

「マナミちゃんは大学生?ご両親はいないの?」

カレーを2皿完食し、洟をすすりながら出された熱いお茶をちょびちょびと飲む彼女に私は尋ねた。マナミは警戒の色を露わにしたが、「別に捕まえる気はないし、話したくなかったら話さなくてもいいよ」と付け加えると、肩の力がすっと抜け、口を開いた。

「二十歳。水商売してる。父はいなくて、母は、います。」

「お金が必要なの?」私は質問を続ける。マナミは満腹になったお腹にそっと片手をあてて俯いた。

自分はこの子にとって野次馬でしかないのだろうな、と、静かに流れる彼女の涙を見ながら思った。

普段自分以外の誰のことにも興味を持てない私がこの子を気にかけるのは、華奢で弱々しい女の子が強盗に手を出さなくてはいけないその境遇に同情しているからだ。不幸で、可哀そうな女の子の話を根掘り葉掘り聞いて、自分はまだマシなのだと思いたいのだ。

私は罪悪感から「ごめんね」と囁いて、彼女の湯飲みにお茶を注ぎ足した。

「そうだ、どら焼き、食べる?」私は母が隠し置いているどら焼きを台所から2つ取り出して皿にのせると、テーブルに置いてやった。

うちに入った強盗と、西陽の差す居間で炬燵に入りながらお茶をしている光景は奇妙なものだったが、心は不思議なほど落ち着いていた。

マナミは礼を言いながらどら焼きを頬張って、「美味しい」と小さく微笑んだ。

居間の空気がふわりと柔らかくなったように感じた。マナミがどら焼きを食べる咀嚼音と、古い掛け時計の秒針の音だけが聞こえる静けさがしばらく続く。それを破ったのは、私の声だった。

「私さ、不倫してるんだ」

どうして見ず知らずの強盗にそんな告白をしたのか、自分でもわからなかった。

彼女を好奇の目で見てしまったことへのお詫びの気持ちからきた打ち明け話だったのかもしれないし、「私だってわりと不幸なのだよ」という張り合いだったのかもしれない。

何故なのかは自分でもよくわからないけれど、私の口は淡々と言葉を紡ぎ続ける。

「2年前、派遣の仕事で手伝ったイベントの取りまとめが彼でね。頼りがいがあって、優しくて、本当にかっこよく見えた。既婚者なのは知ってた。でも、初めてキスされた時、そんなことどうでもいいやって思っちゃったの」

「好きだったから?」

マナミは齧りかけたどら焼きを皿に置き、優しい目で私に問いかける。

私は自嘲気味に笑いながら頷いた。

「あの頃は、愛し合えてるんだって思ってた」

体だけの関係がずるずる続き、出会った頃のように雄一に優しくされることはもうなくなってしまった。自分が「愛」だと思っていた繋がりが、あまりにも薄汚れた関係であることはすぐにわかった。だけど、それを認めてしまうのは怖かった。

「別に彼は最初から私を愛してなんかいないし、都合よく利用されてるだけなのは頭でわかってるんだけど、どうしてもね、」

心がついていけないのだ、と続けようとしたが、それ以上声が出なかった。

頬を伝う生ぬるさがこそばゆくて、初めて自分が涙を流していることに気付いた。

「もともと一人ぼっちだったんだけどさ、誰かの温かみに触れちゃったら、また一人ぼっちに戻るの、あまりにも怖くてね」私は慌てて涙を手で拭いながら、わざとおどけたように言って笑った。2年もの間しっかり閉じ込めていたはずの感情が、何故急にこんな溢れ出すのか、もうわけがわからなかった。

「わかるよ」誤魔化すようにお茶を啜る私に、マナミはぽつりと呟く。

「愛情とか、温もりとか、いつかなくなっちゃうなら、最初から知らない方がよっぽど幸せだよね」そう続けると、また彼女はお腹に手を当て、優しくそっと撫でた。

何かを慈しむようなその仕草に、私は「まさか」と呟く。

「私にも好きな人、いたの。大好きだった。でも、赤ちゃんできたら逃げちゃった。お母さんに言ったら、おろしなさいって。育てるお金が家にはないから。でも、中絶するお金もないから、お母さん、借金しようとしてる」お腹を撫でていたマナミの手は、意志を失った生き物のようにぽとりと彼女の膝の上に落ちる。

「生みたいけど、今の私じゃ、どうやったってこの子は育てられない。だから、お金を盗ろうとしたの。成功したら、そのお金で中絶するつもりだった。でも、」マナミは視線をあげ、私の目をじっと見つめる。涙で潤み、赤く腫れた少女の目には、私では想像もつかない程の葛藤の末固められたのであろう覚悟が滲み出ていた。

マナミは両手をそっと私に向け、テーブルの上に重ねた。

「私を、警察に引き渡してください」その手は小刻みに震えている。

「調べたの。刑務所に入ったら中絶にかかるお金は国から出してもらえるんだって。お母さんは悲しむだろうけど、お金で心配させることは、とりあえずない」

「マナミちゃん」私は震え続ける彼女の手をそっと握る。やけに彼女の震えが伝わってくるなと思ったら、自分の手も振るえていた。

「良かったら、今度の日曜日、コンサートにいかない?」

口をついて出てきたのは、そんな突拍子もない言葉だった。

「私、友達いないから、一緒に行ってくれない?」

「え?」マナミはキョトンとして間抜けな声を漏らす。

思わず口にした言葉だったが、マナミの手の震えが止まったのを感じて、私は自分の提案に確信を持ち始めた。

「そうよ、そうしよう。ニューヨークで人気なジャズのコンサートなんだって。ジャズとか私よくわからないけど、なんだか疲弊した心身に良さそうじゃない?」

「お姉さん…。私の話きいてた?」彼女は綺麗な眉毛をハの字にして、見るからに困ったように漏らす。

「聞いてた聞いてた。勿論身体に障ったら駄目だから今から一緒に病院行こう。それで、問題なかったらとりあえず今週は私とコンサートに行こう。それから、その後のことを一緒に考えない?」

私は頭の中で勘定を始める。自分の貯金はいくらあったか。昨年亡くなった祖父の保険金はあとどれぐらい残っていたか。中絶費っていくらなのだろう。もし生んで育てるとなったらいくら必要なのだろう。

「…同情、してくれてるの?」マナミは複雑な表情のまま俯く。私は頭の中の勘定を止め、自分に対し、マナミと同じ問いかけをする。

私は今、この子に同情をしているのだろうか。いや、同情とは少し違うのではないか。

「今の私とあなたには、男じゃなくて友達が必要だと思うの」そう答えた自分の声は、思っている以上にはっきりとした、明るい声だった。

「あなたとなら友達になれる気がするの」

マナミと2人でコンサートに行く自分を思い浮かべる。驚く雄一に、「あなたなんてもういらない」と別れを告げる。そして、素晴らしい音楽に二人で身を委ねてから、ゆっくりとこれからのことを話す。

ただの同情なのかもしれない。私の都合に彼女を利用しているだけなのかもしれない。彼女の力になんてなれないかもしれない。

だけど、マナミと一緒に笑っている未来が、彼女の飛びっきりの笑顔が、何故か妙にリアルに私の頭には浮かび上がっていた。

「一緒に、やりなおそうよ」彼女の両手を握る手に、ぐっと力をいれる。

マナミの目から静かに落ちた涙の粒が、私の手を力強く握り返した小さな手にぽとりと落ちる。

 「私も、ジャズ、初めて」彼女がその日初めて見せた満面の笑顔は、私がイメージしていた笑顔そのものだった。

【クレしん】15年後の春我部防衛隊3

枯葉が風に舞う公園の少し開けたスペースで、僕としんのすけは焚き木の後始末を始めた。
しんのすけに後片付けを命じた彼の妹、ひまわりちゃんの姿は、もう既に公園にはなかった。
落ちていた空き缶やペットボトルに水を汲み、焚き木に撒く。そんな地味な作業を何度か繰り返すうちに火は完全に消え、公園の温度が何度か下がってしまったかのように感じられるほど寒さが身を刺し始めた。
水をかけられてしんなりとした落ち葉や木の枝を、しんのすけは軍手をはめた手で要領よくゴミ袋に移していく。
すっかり冷たくなった両手を擦り合わせながら、僕はテキパキ働く彼の姿を眺めていた。
「はい、これで片付け終了。」
しんのすけはゴミ袋の口を縛り、ふぅーっと大袈裟に額の汗を拭うふりをした。
「お前、なんか立派になったのな。」
僕は思わず率直な感想を口にする。子供の頃のしんのすけは散らかすばかりで、後片付けをしているところなんて見たこともなかった。
しんのすけですら成長してるんだな。」
「ですらって何。オラはもう立派な大人だからね。さ、もう帰ろ。」
しんのすけはゴミ袋をサンタが持つプレゼントのように肩に担ぐと、すたすたと歩き出す。
高くなった背と、大きな背中は本当に見覚えのない男のもので、とてつもない淋しさが僕を襲った。
「行かないでくれよ。」「もっと遊ぼう。」そんな子供みたいな台詞が口をついて出そうになるのを必死で堪えた。
もうしんのすけにとって僕は過去の〝親友″なのだ。僕がこの街を〝過去″として捨てたように。
「焼き芋、ありがとな。美味しかったよ。ひまわりちゃんにもよろしく言っといてよ。お前も良かったらまた東京遊びに来いよ。」
僕はしんのすけの背中に早口で声をかける。そして、じっと彼が振り返るのを待った。
しんのすけはすぐにくるっと体をこちらに向け、拗ねたように口を開く。
「何言ってんの風間くん。まだ5時だぞ。幼稚園児じゃないんだから、そんな早く帰るなんてナンセンスだぞ。」
胸がぽっと温かくなる。そして、同時に恥ずかしさがこみ上げた。
結局僕は子供の頃から、しんのすけから楽しいことに誘ってもらうのをずっと待っているだけだった。待っていさえすれば、こいつは必ずワクワクするところに引っ張っていってくれたから。
俯いて動かない僕に、しんのすけはのしのしと近付いてくると、ゴミ袋を背負ったのとは逆の手で僕の腕を掴んだ。
「こんな寒いとこ、オラはもう嫌だぞ。一緒に帰るよ。」
「い、いいのかよ。」
「いいも何も、もう寒いんだってば。早く行くぞ!」
しんのすけは頬を膨らましながら大袈裟に声をあげて歩き出す。僕の腕を掴んだまま。
しんのすけに引っ張られるまま一歩を踏み出す。なんだか自分のものじゃないみたいな、ふわふわとした感覚が足を伝う。
「ありがとう、しんのすけ。」
どうにかそれだけ呟いてみる。その声は自分でも呆れるほど小さくて、渇いた風が木の葉を揺らす僅かな音に掻き消された。
僕はなんだかまた恥ずかしくなって、俯きながら歩く。
だけど、嫌な気分ではなかった。

「あ、そういえば今日はもう一人ゲストがいるからお楽しみに。」
しんのすけが、楽しいことを思い出したようにニヤニヤと笑う。
「もう一人?」
突然の知らせに僕は間の抜けた声で聞き返す。
「もう一人って誰だよ。」
懐かしい赤い屋根の家が見えてきた。
「お馬鹿だな、風間くん。電車に乗ってるって、さっき教えてあげたでしょ。まぁ多分今頃は電車は降りて、オラん家に向かってる頃だと思うけど。」
「え、なんの話だよ。」
しんのすけとの会話を思い返すが心当たりがない。
あれこれと頭の中の記憶を探っていると、しんのすけの家まであと数メートルというところで反対側の道から歩いてくる人影が目に入った。
「お、ナイスタイミングだぞ。」
しんのすけが明るい声をあげて、僕の腕を掴んだまま駆け出した。
あちらから向かってくる人影も手を振りながら駆けてくる。
そうして、僕たちは測ったかのように、ちょうど野原家の前で顔を合わせた。
お久しぶり!」
しんのすけは漸く僕の腕から手を離し、そのまま正面に立つ男に向かって掲げた。
大きめのリュックを背負った男は、優しい微笑みを浮かべて、しんのすけの手にそっとハイタッチをした。
「しんちゃん、久しぶり。」
そして、ゆっくりと、何もかもを受け入れてくれるかのような優しい笑顔を僕にも向けた。
昔から何も変わっていないような彼の温かさに、僕は思わず涙がでそうになった。
「久しぶり、風間くん。」
彼はしんのすけとハイタッチしていない方の手を、僕に向かってゆっくりと掲げた。
「久しぶり…ぼーちゃん!」
僕は二人目の〝親友″との再会を噛み締めながら、ぼーちゃんとハイタッチをした。

【クレしん】15年後の春我部防衛隊2

しんのすけ、なのか?」
僕は、焼き芋を差し出す背の高い男を見上げながら、息を漏らすように尋ねる。
その男の顔は、僕の記憶にある5歳の頃のしんのすけとは全く別人のようにも見えたが、太めの眉やぱっちりした目にはどことなく昔の面影を感じさせた。
「し、しんのすけだよな!僕、覚えてるか?風間だよ、幼稚園同じだった風間トオル!」
思わず立ち上がる。久々に自分の大きな声を聞き、僕は自分が興奮していることに気付く。
男は一瞬キョトンとした表情をしてから、何かを思い出したように「おぉ」と漏らし、満面の笑みを浮かべる。
「誰かと思ったら大親友の風間くんじゃないか!」
その笑顔だけは15年前から何も変わっていない。僕は懐かしさや嬉しさ、切なさで胸がいっぱいになる。
「何してんの風間くん。もう春我部を捨てたのかと思ってたよ!」
しんのすけがふざけたように笑いながらベンチに腰掛け、焼き芋の皮を剥き始める。
「僕にくれるんじゃないのかよ。」と、独り言のように突っ込みながら、僕もまた彼の隣に腰をおろす。
「たまたまね、気が向いたから帰ってきたんだ。春休みだしね。」
「へぇー。そんで気が向いたから懐かしい公園のベンチで一人泣いてたの?」
しんのすけは半分皮を剥いた焼き芋をほくほくと大きく齧ってから「ほい」と、残りを丸ごと僕にくれた。
「み、見てたのかよ。」僕は焼き芋を受け取る。恥ずかしいのと焼き芋の湯気で顔が一気に熱くなる。
「なんかあったから帰ってきたんじゃないの。」
僕は思わずしんのすけの横顔に目をやる。しんのすけは僕の視線などお構い無しに曇った空を見上げながら、まだ口の中の芋をもぐもぐとしていた。
こいつはそういう奴だった。何も考えてないみたいにへらへらしてるくせに、たまに人の心を見透かしたようなことを言ってくる。
「別に、なんにもないよ…。」
そして、僕はいつも素直になれずにその言葉を誤魔化してきた。
「ふぅん。」
空を眺め続けるしんのすけにつられ、僕も見上げる。3月の空はまだ寒々しく、薄暗く、どんよりとしていたが、所々青空が見え始めていた。
しんのすけは今何してるんだよ。」
僕は明るいトーンを意識して空を見上げたまま尋ねる。
「焼き芋を味わいながら空を見ている。」
「そういうことじゃなくてさ…。」
15年前のようなやりとりに僕は苦笑いをする。
「みんなは、元気?」
「みんなって?」
「ほら、ねねちゃんとか、ぼーちゃんとか、まさおくんとか…」
春我部の〝みんな″の顔と名前を思い浮かべながら、誰一人としてその現状も知らない自分が嫌になる。彼らは今もまだこの町で共に生きているのだろうか。
「んーっとねー、ねねちゃんは毎日歌とか歌っててー、まさおくんは毎日徹夜ばっかしててー、ぼーちゃんは電車乗ってるかな。」
「何だよそれ、さっぱりわかんないよ。」
「風間くんが帰ってこないからでしょー。」
容赦ない言葉に僕は何も返せない。
仕方なく無言で焼き芋をもぐもぐと食べる。少し冷めてパサパサする焼き芋は懐かしい味がして、また鼻の奥がつんとなった。

しんのすけは空を眺め、僕は焼き芋を食べ続ける。

遠くでさっきの子供達がきゃっきゃと騒ぐ声がする。

無言が心地良く感じる不思議な安堵感。こんな感覚、もう何年も持たなかった気がする。


「なんかオラ、忘れてる気がするんだよなー。」
空を眺めたまましんのすけが呟く。
「お前、まだそんな奇抜な一人称なのかよ。」
「オラはオラだぞ。人目ばっか気にするちっさな風間くんと一緒にしないでほしいぞ。」
「すっかり僕を小物扱いだな、お前。」
僕は否定することもできず自嘲気味に笑う。
「それで、何を忘れてるんだよ。」
「なんだったっけかなー。」
「まさか、その忘れてることって、私のことじゃないよね?」
ベンチの後ろからの突然の声に、僕はひゃーっと間抜けな声をだしてしまう。
自分の恥ずかしい反応を打ち消そうと、必死に平静を装いながら振り返ると、そこにはマフラーをぐるぐると巻いた栗色の髪の女の子が眉をひそめて立っていた。
目が大きくて、肌が透き通るように白い、ふわっとした雰囲気の女の子。
僕は思わず見惚れてしまう。
綺麗だ、純粋にそう思った。
「おぉ、まさにそれだ!すっきりすっきり。」
しんのすけは彼女を振り返りながら、納得したように小さく手を叩く。
「えっと、」僕は彼女としんのすけを交互に見ながら少し戸惑う。
「まさか、お前の彼女?」

「風間くん、軽はずみな発言は困るぞ。」
しんのすけは苦いものを噛んだような表情を僕に向ける。その直後、彼の頭に鋭いチョップが振り落とされた。しんのすけは小さく悲鳴をあげて頭を抑える。
「もう片付けるんだから手伝って。」
女の子はチョップを放った手をさっとパーカーのポケットに突っ込みながら冷たくしんのすけに言い放つと、僕らのもとから離れていった。
「し、しんのすけ、大丈夫かよ。なんでお前チョップされたんだ?」
「か、風間くんのせいでしょー!」

しんのすけは涙目で僕を睨みつつ立ち上がる。

「ひまがオラの彼女とか言うから機嫌損ねちゃったんでしょ!もう最近反抗期なんだからほんとやめてほしいぞ。」
「ひまって…まさかさっきの女の子、ひまわりちゃん?」
「まさかも何も、どう見てもそうでしょうが!」
しんのすけは子供のように頬を膨らませながら女の子が去って行った方向へ歩き始める。
「ほら、風間くんのせいで怒られたんだから、風間くんも手伝ってよね。」
そう言ってしんのすけはさらに歩いていく。
僕は少し迷って、結局ベンチから立ち上がり、彼を小走りで追いかけた。

この日、この場所で15年ぶりに奴と再会し、この時奴の後を追った瞬間から、またこの男によって振り回されることになることを、この時僕はまだ知らない。

【クレしん】15年後の春我部防衛隊1

幼い頃の僕は、自分がカッコいい大人になれると信じていた。

努力を怠らず、常に最善の選択をし続けられれば、欲しいものは全て手に入ると信じていた。 〝正しい道″を歩くために、価値あるものだけを選び抜き、それ以外のものは捨ててきた。

だけど今、最善の選択をしてきたはずの僕の世界は、音を立てて壊れだしている。

 

「別れたいってどういうことだよ。僕が君にどれだけの時間と金を費やしてきたと思ってるんだ。」

立ち去ろうとする彼女の腕を掴む手に僕は力を込める。彼女は「痛い」と漏らしながら僕の手を振り払おうとする。

「もう風間先輩の見栄やプライドに付き合うのはウンザリなんです。私のことだって、見た目とか家柄だけで選んでるの丸わかり。私は先輩のアクセサリーじゃない。」

いつもは無口な彼女が発するはっきりとした拒絶の言葉に、僕は思わず動揺し、手の力をゆるめた。その隙を逃さず、彼女の細い腕がするりと僕の手から抜ける。

「風間先輩って、恋人も友達も、所詮〝自分の役に立つかどうか″で決めてますよね。」

少し僕から距離をとった彼女が、静かに僕を睨みつける。

さっきまで僕のものだったはずの彼女が、もうずっと遠い存在のように感じた。

「でもそれ、先輩だけじゃないですから。私も、先輩のお友達も、皆〝風間トオルが自分の役に立つ″って判断して一緒にいただけです。あなたのちっぽけな器や、空っぽな人間性で人は惹きつけられない。」

頭に血が上る。湧き出す感情が怒りなのか悲しみなのか判断もつかない。

今にも耳を塞いで逃げ出してしまいたいのに、身体はピクリとも動かない。

「お父様の事業も失敗しちゃって、もう及川教授にも見捨てられちゃったんでしょう?コネもなくなっちゃって、これじゃ卒業しても政界なんていけませんよね。」

周りの音が聞こえなくなる。深い深い水に沈むような感覚。

なのに、彼女の言葉だけは残酷なほど鮮明に僕の脳裏に届いてしまう。

「そんな先輩に、もう価値、ありませんから。」

 

結局なんの言葉も返せないまま、次に顔を上げた時には彼女の姿は既になかった。

「価値がない」その言葉だけが何度も何度も頭のなかで響き続ける。


僕は彼女を愛していたのだろうか?漸く歩き始めながらぼんやりと考えた。

笑顔だった頃の彼女の表情を思い出そうとしたものの、どれだけ頑張っても浮かんでくるのは冷めた目で僕を見下す冷たい女の顔だけで、思わず苦笑いをした。

あの子の言う通り、僕は彼女の中身なんて一切見ていなかった。


同じゼミで人気の高い後輩。可愛くて、品が良くて、お父さんは大物政治家の右腕だった。

そんな、一行程度で説明のつく理由だけで僕は彼女を選んだのだ。

そして、彼女が僕を受け入れた理由も、きっと一行程度で片付くものだったのだろう。

 

母がいる東京のマンションに帰る気にはなれず、なんとなく駅に向かう。

少し開き直って、ゼミの友人に「失恋したから誰か飲みに行かないか」と呼びかけたが、誰からも返信はこなかった。そういえば、春休みに入ってから大学の友人から連絡はきていない。

僕は、あっけなく独りになった。

今まで僕を歓迎していた世界は、いとも簡単に手のひらを返し、僕に背を向ける。

恋人も、友達も、将来も、もう僕には何もない。 僕は東京から逃げるように、埼玉行きの電車に乗った。

 

春我部に帰ってきたのは、10歳以来10年ぶりだった。すっかり変わった街並みはもう僕の知る春我部ではなかったけれど、それでもたまに見覚えのある建物や道を目にすると胸が踊った。

ぶらぶらと足を進めていると、見覚えのある公園に辿り着いた。

懐かしい匂いがした。

僕は足を止めて、記憶より随分古くなっているベンチに腰掛ける。

広場では幼稚園児ぐらいの子供たちが5人程でわいわいと遊んでいた。

何故か目の奥がツンとした。

僕にも、あんなに無邪気で幸せな日々があったはずだ。

 

いつも5人でいた。

5人なら何でもできた。何も怖くなかった。

一緒にいてメリットがあるとか、友人としてふさわしいとか、そんな基準なんて一切関係のない、そんな友達が、僕にも確かにいたのだけれど。

僕は、随分昔に僕が切り捨てた友人たちの名前をゆっくりと思い返す。

 

桜田ネネ。

気の強い女の子だった。自己中心的でワガママな子だったけれど、いつも真っ直ぐで、誰よりも芯が強かった。

僕が私立の小学校に入学してからよく手紙を書いてくれていた。その頃は勉強に必死で殆ど返事は書けず、小学2年生になる頃には手紙もこなくなっていた。

 

佐藤マサオ。

お世辞にも賢いとか、頼り甲斐があるとは言えない男の子だった。思い出せる彼の記憶といえば泣き顔ばかりだけど、素直でとても優しい子だった。

彼とは僕が10歳で東京に転校する前に一度だけ再会したことがあった。再会といっても、この公園で上級生にいじめられている彼を僕が一方的に見かけただけだった。

「まだいじめられっ子のままなのか」と呆れる気持ちと、「助けてあげたい」という正義感が幼い僕の中を駆け巡ったのを覚えている。その後どうしたのかは全く思い出せないが、彼と話した記憶は一切ないから、僕は十中八九彼を見捨てて通り過ぎたのだろう。

 

ぼーちゃん。

卒園まで名字も住んでいるところもわからない、不思議な男の子だった。ぼんやりしているのに頭はキレて、独特の世界観を持っていた。そして、彼には誰をも受け入れる包容力があり、誰からも愛される子だった。

中学にあがってから、そこそこの難関私立中学校の制服を着ているぼーちゃんを東京で見かけた。彼も〝こちら側″にきたのかと嬉しくなって声をかけたことがある。

だけど、結局石の話だとか化学だとか、将来役に立つとは思えないようなものにしか彼は興味を持っておらず、再度関わることはなかった。

 

あと一人。


冷たい風が僕の頬を撫でるように吹いてゆく。どこかで焚き木でもやっているのか、煙が目に染みて涙が滲んだ。ぎゅっと目を閉じてそれをこらえる。


昔、僕もここで焚き木をして、焼き芋を食べた。

ここで隠れんぼをした。ここでおままごとをした。サッカーをして、ボールを怖いおじさんに当ててしまって沢山叱られもした。塾をさぼって夜まで全力で駆け回っていたこともあった。

そんな賑やかな日々の中には、いつもあいつがいた。

もう、戻れない日々なのだけれど。

 

焼き芋の良い匂いがする。

嗅覚が過去の幸せな記憶をより強烈に呼び覚まし、堪えきれず涙が一筋溢れた。

僕はゆっくりと目を開ける。

目の前には何故か本当に焼き芋が差し出されていた。

「何してんの?食べれば?」

 

温かい風に全身を包まれた気がした。

 

「…しん…のすけ?」

 

それが、野原しんのすけとの15年ぶりの再会だった。

(け)決別の賛歌

彼女は天才を愛していた。何故なら、彼女自身が天才ではなかったからだ。

彼女のピアノの技術はとても高かった。しかし、彼女が奏でる音は、輪郭も、表情も持たなかった。どれほど血が滲むような練習を繰り返しても、彼女の指からはのっぺりとした、無機質な音がただただ零れ落ちるだけだった。

そんな彼女のピアノに最も絶望していたのは他の誰でもない、彼女自身だった。

彼女に出会った時、大音量で発し続けられる彼女の悲鳴を僕は感じ取った。そして、底のない絶望を小さな身体に抱える彼女を、とても美しいと感じた。

僕は彼女を愛していた。誰よりも、愛していた。

しかし、結局のところ、彩子が愛していたのは僕の才能だけだった。

 

宮下翔という男のピアノを初めて耳にしたのは、僕と彩子が交際を初めて2年たった春のことだった。

 

その日は、かつての世界的ピアニスト、凍江琴美先生の45歳の誕生日だった。

凍江先生は5年前にピアニストを引退し、若い音楽家の育成に力を入れていた。

1年程前、凍江先生が審査員を務める国内のコンクールで準優勝したのをきっかけに、僕は時折、凍江先生にレッスンをつけてもらうようになっていた。

何度か、正式に自分に師事しないか、という誘いも凍江先生から受けていたが、丁重に断っていた。

ピアノは大好きだった。他の人にはないピアノの才能が自分にあることも知っていた。

だけど、僕はコンクールで優勝したいわけでも、プロとして活躍したいわけでもなかった。ただ楽しく、自分の好きな音を奏で続けられるだけで良かった。

そして、どこかで、彩子を置き去りにしてピアノに没頭してしまうことへの後ろめたさがあったのも事実だった。

 

凍江先生の誕生日パーティで、僕は凍江先生に師事する他の若手ピアニストに混ざり、順に1曲ずつ演奏することになっていた。

凍江先生の教え子の演奏は、どれも若い力溢れる素晴らしいものだった。

僕は彩子と共にパーティに出席し、彼らの演奏に聴き入った。

どの奏者の演奏も雰囲気は異なり、それぞれの音を主張していたが、ピアノの鳴らし方や曲の解釈の仕方にどことなく似通ったところがあり、そこに凍江先生の偉大な影が見え隠れしていた。

彼らの才能を発掘し、個性を伸ばしながらここまで適確に美しく育てたのだとしたら、本当に凍江先生は素晴らしい師であると感じた。

だが、自分の演奏が彼らの中の誰にも劣らないことを、僕は自覚していた。

「さて、次は特別ゲスト。凍江先生がスカウトし続けている広瀬慧さんです」

司会の女性がいたずらに微笑みながら僕の名を呼ぶ。周りが少しざわめく。

僕は彩子に「いってくるね」と笑いかけ、意気揚々と、客席より1段程高いだけの小さなステージに上がってお辞儀をする。顔をあげる頃にはざわめきが消え去り、小さな会場はしんと静まり返っていた。

あらゆる視線が僕に向けられている。

好奇の目。期待の目。嫉妬の目。緊張の目。

無数の感情を抱いた別々の個体全てが、今、僕の音に神経を集中させようと沈黙している。昔からこの瞬間が、たまらなく好きだった。

僕はそっと息を吸い込んでから、撫でるようにやさしく鍵盤に触れた。

そうしてしまえば、あとは指が勝手に動き出し、ピアノが歌いだしてくれる。

ドビュッシーの喜びの島。

幸せと儚さを連想させる、僕のお気に入りの曲。そして、彩子が一番好きな曲。

キラキラした音が澱みなく、真っすぐに会場にいる全ての人の耳に吸い込まれていく。そんな幸福な感覚に溺れそうになる。

僕は、思う存分ピアノの歌声を楽しみ、そして、勢いを殺さぬまま最後の音を送り出した。盛大な拍手が聞こえる。ピアノの椅子から降り、正面を向くと、一番に彩子の笑顔が視界に入る。

僕は充たされた気分のまま微笑んで一礼し、低いステージからぴょんと飛び下り、演奏前と同じように彩子の隣に戻った。

 

幸せだった。僕は今のままでいい。

このままずっと大好きなピアノを大好きな人の隣で弾いていたい、と、強く思った。

しかし、そんな充たされた瞬間はあっけなく終わってしまったのだ。

 

「最高だった」と、口々に声をかけてくれる周りの人たちにお礼をしていると、司会の女性の声が再び聞こえた。

「さて、予定では奏者は広瀬さんで最後だったんですが、凍江先生のお誕生日ということで、急遽留学中のパリから駆けつけてくださった方がいます。凍江先生の甥っ子さんで、サックス奏者の宮本翔さんです」

僕は首を傾げる。サックス奏者?ピアノのステージでサックスを吹くのだろうか。

疑問を抱いたのは僕だけではなかったらしく、周りは一層低くざわめいた。

興味津々で目を向けたステージには、背の高い、僕より若いであろう青年がすっと立っていた。

凍江先生に甥がいたことも、宮本翔というサックス奏者の名前も聞いたことはなかったが、その姿を見ただけで、何故か背筋がぴんと伸びた。

陳腐な言葉を使うのなら、「オーラ」を感じたのかもしれない。

彼は行儀良くお辞儀をしてから、当たり前のようにピアノの前に座った。

周りから、「ピアノを弾くのか?」という、僕の頭に浮かんだものと全く同じ疑問の声がぼそぼそとあがった。しかし、そんなざわめきは、彼のファーストタッチで跡形もなく消え去る。

隣で彩子が息を飲むのがわかった。

彩子だけじゃない、周りの誰もが思考を止めた。

一瞬にして鳥肌が立つ。

モーツァルトの「ピアノ・ソナタ第十二番ヘ長調」。

優しい歌声。きらびやかな光。止めどなく与えられる幸福。そして、それらは決して永遠ではないのだと感じさせる途方もない無力感。

彼の指が動くごとに、僕の中で、言葉にしようがない感情が沸いては消える。

今まで「天才」のピアノは数えきれないほど聴いてきた。中には僕と同年代や、うんと年下の「天才」もいた。僕が敵わないと思う人も沢山いた。

だけど、ここまで感情を揺さぶられたピアノは初めてだった。

彼のピアノは僕と似ている。自由で、音楽への喜びが溢れている。

だけど、彼は僕にないものを確実に持っていた。たったそれだけのことが、僕をここまで震え上がらせているのか。

身震いした。理由のわからない焦りが、身体の内から胸をがんがん殴りつけてくる。

そして、突然焦りは不安に姿を変えた。

彩子。彩子はどう感じているのだろう。僕は我慢できずに彼女の表情を盗み見た。

冷たい空気が喉を通った気がした。

続いているはずの演奏が途端に途切れる。

彩子は涙を流していた。

彼女の心は、完全にもう僕から離れてしまっている。

見たことのない彼女の表情と、溢れ続ける涙に、僕は一瞬でそれを理解した。

彼女は美しい音楽を愛していた。そして、きっとそれを生み出せる才能を愛している。

彩子の心は、もう僕のものではなくなってしまった。

 

宮本は、最後まで一瞬たりとも揺らぐことなく演奏を終えた。

滝のような音を立てて拍手が鳴り響き、アンコールが口々に叫ばれる。もう誰も、その前にステージに立っていた僕の演奏等覚えてはいない。

 

狂ったように手を叩き続ける集団から逃れるように、僕はふらふらと会場の出口に向かう。彩子がちらりと僕を窺うのがわかった。

しかし、彼女は僕の後を追いかけてはこなかった。

 

全身に痺れたような感覚を抱きながら、僕は会場を出てすぐの中庭に出た。

花の蜜のような甘い匂いが生ぬるい夜風にのって鼻の奥をそっと撫でるように刺激する。

僕はへなへなとしゃがみこんだ。今まで味わったことのない感情がマグマのようにぐつぐつと湧き上がる。

喪失感。

僕は失ったのだ。何を?

自信を。ピアノを。そして、彩子を。

たった一人の演奏で。

 

「こんなところでいじけているのね」

しゃがみこんだ僕の上から透き通る声が降ってきた。ぼーっとした頭で声の主を思い浮かべながらゆっくり顔をあげる。

「凍江先生…」

トレードマークである真っ黒のドレスを身に纏い、凍江先生がそっと微笑む。

「翔の演奏、すごかったでしょう。あの子は本物の天才よ。サックスはもっとすごい」

惜しみなく宮本を褒め称える凍江先生の言葉に、僕は思わず目を伏せた。

「すごかったです。なんかびっくりしちゃって」

自分が抱いた感情を1ミリも表現できないまま、僕は曖昧に笑った。

「もうピアノやめちゃおっかなぁ」

無意識に口をついて出た言葉にはっとする。凍江先生の前で、僕はなんて情けないことを言っているのだろう。

すぐに訂正しようと再び凍江先生の顔を見上げた時、先生の言葉が静けさを突き破り、矢のように僕を突き刺した。

「広瀬くん。私に師事しなさい」

ひどく、堂々とした声だった。まるで、そうすることしか道はないのだと断言するような。冷酷さをも感じさせる声だった。

「絶望と敗北を知りなさい。これまで知らなかった世界を見なさい。一度全てを失いなさい。そして、私のもとでピアノを弾きなさい。そうすれば貴方はもっと高みに登れるわ」

その言葉は光のようにも、永遠の闇のようにも感じられた。

何故か、涙が一筋頬を伝う。

凍江先生がそっと僕に手を差し伸ばす。

『音楽の神様』

月明かりに照らされた凍江先生の姿を見上げながら、そんな言葉が僕の頭に浮かんだ。

これは、音楽の神様との契約なのだ。

僕はすがるように、神様の手を掴んだ。

 

 

私は彼を愛していた。

彼の音はまるで色とりどりの宝石のような、光り輝く色をきらきらと惜しみなく放っていた。

私では到底弾けない音、表現できない色、感じ取れない世界を彼は持っていた。

自分のピアノに絶望していた私は、彼の音に心を救われ、そして、彼に強く魅かれた。

私は彼の音を愛し、そして、その音を生み出すにふさわしい彼の内側を愛した。

その音がずっと、私だけのものであれば、どれほど幸せだっただろうか。

 

「魔女め」

私はスマートフォンに表示させたネットニュースから目をそらし、一人ぼそっと呟く。

記事には廣瀬慧と、その師である凍江琴美が微笑みながら寄り添う写真が載せられており、「天才、新たなる歴史を刻む」という仰々しいタイトルのもと、慧へのインタビューが続いている。

音楽に全てを捧げることを選び、また、音楽にも選ばれた世界中の天才ピアニストたちが集う国際ピアノコンクール。

昨日ドイツで行われたその本選で、慧は日本人で初めて優勝を手にした。

師の凍江への感謝や、コンクールでのエピソード等を語った彼のインタビューの後には、今回のコンクールの審査を担当した有名ピアニストや、日本の音楽評論家たちのコメントがいくつか掲載されていた。

内容は、「広瀬慧は2年前に凍江琴美へ師事してから圧倒的にその才能を伸ばすことに成功した」だの、「凍江琴美の指導のもと、その表現力を着実に進化させている」だの、どれも師である凍江を称賛するものばかりだった。

 

幼い頃、凍江がピアニストとしてピアノを弾いているのを見るたびに、「魔女のようだ」とぼんやり思っていた。

彼女が奏でる音は多くの色を持っていた。彼女のピアノは、私がまだ知らない色や、名前すらないようなものまで、この世の全ての色を持っているかのような音を奏でた。

しかし、それらの色は美しい花畑や虹のように「カラフル」と呼ばれるものとは到底違う。何十色、何百色を全て重ね、混ぜあわせたような妖しい色。

1つ1つがどれほど鮮やかで美しい色でも、全てを混ぜ合わせると深い深い黒となる。

彼女が紡ぎだす音そんな残酷さを感じさせ、幼い私を震えさせた。

真っ黒な長い髪を乱しながら、憑かれた様に鍵盤を叩く凍江の姿は妖艶で、美しく、そして、恐ろしくも感じられた。そんな独特の演奏に加え、彼女のドレスがいつも黒や紺等、ピアニストでは珍しいような暗い色ばかりだったこともあるのだろうが、私は子供の頃から凍江のことを、心の中で『魔女』と呼んでいた。

 

一方で、慧の持つ音は、美しすぎた。

彼が放つ色は、どれも均等に引かれた下書きの線を決してはみ出さず、きっちりと隔てられており、一切混ざることがない。

汚れや濁りを全く知らないピアノ。喜びと幸福だけに満ちた世界。

悲しみや憎悪、孤独や絶望は、彼の音には存在しない。

彼は、幸せすぎたのだ。

彼の傍で彼のピアノを聴き続け、それに気づいたとき、私の中で迷いが生まれた。

彼がこのまま現状に甘んじ、この生ぬるい世界でピアノを弾き続けてしまったら。

小さな世界で甘やかされ、もて囃され、世界を舞台に死に物狂いで戦い続ける本物のピアニストたちと向き合うこともなく、絶望や孤独を感じることなく歳を重ねてしまったら。

彼は、きっと何も成し遂げることなくピアニストとしての人生を終える。

冷たい予感は日を追うごとに私の中で確信に変わっていった。

陰を表現できない彼のピアノは、きっと世界には通用しない。

そして、彼にそのことを気付かせることができるのは、彼が持たない色を教えることができるのは、自分だけではないのか。

しかし、彼がもし本当にあらゆる色を取り入れてしまったら。世界に目を向けてしまったら。きっと私は捨てられる。

私が彼を愛し続け、甘やかし続け、そして守り続けられれば、彼はずっと私の傍にいてくれるかもしれない。彼を私だけのものにできるかもしれない。

私は迷った挙句、何の行動もおこさないことを選んだ。

しかし、私の迷いは見抜かれていたのだ。あの魔女に。

 

凍江琴美と初めて言葉を交わしたのは2年前の春。彼女のあの誕生日パーティの1か月ほど前のことだった。

 

「広瀬くんを愛しているというのなら、貴女は彼を離してあげなくてはね」

私が通う音大のキャンパスで凍江と出くわしたのは、偶然ではなかったはずだ。

彼女は慧に足りないものも、それを充たす条件もわかっていた。

「貴女は彼にない色を、彼に教えてあげられる。そうすることで、彼は素晴らしいピアニストになれるわ。貴女が一番わかっているでしょう」

魔女め。私は心の中で何度も毒づいた。

全てを見抜き、私が一番言われたくない言葉を選んで語り掛けてくる。

「彼を、自由にしてあげて」

 

私は魔女に抗うつもりだった。彼の未来を潰してでも、私は彼の傍にいたかった。

そう強く願ったはずだった。

しかし、宮本翔の演奏を聴いたとき、私の願いが慧にとって酷く惨いものであることを突き付けられた気がした。慧にどこか似ているようで、全く異なるピアノ。

慧を凌駕する音。隣で慧が身震いするのがわかった。

無意識に涙が溢れた。

今の彼では、このピアノを越えられない。そして、きっとそのことがこの先慧を苦しめ続ける。

これから彼を苦しめるのは、きっと私の存在だ。


割れるような拍手の音に圧倒されたように、慧はふらふらと後ずさる。

私のもとから去ってしまう。

しかし、まるで魔法でもかけられたかのうように、私は動くことができなかった。

「彼を、自由にしてあげて」

頭の中で再生され続ける宮本のピアノの音の奥で、魔女の言葉が何度も何度も、呪いのように頭の中で響き続けていた。


私たちは、それを最後に顔を合わせることはなかった。 


私は今、ヘッドフォンを耳にあて、慧のコンクール音源を再生する。

彼のピアノは2年前より明らかに色が増え、陽と陰が複雑に、そして美しく混ざり合っていた。

何故か、涙が一筋頬を伝った。

彼はこれで良かったのだろうか。

私は、これで良かったのだろうか。

曲を最後まで聞かぬまま、ヘッドフォンを外す。

あぁ、今無性に、あの無垢な「喜びの島」が聴きたい。