50音ショートショート

50音分のタイトルで短編を書き終えれたら、関係ないけどとりあえず仕事やめようと思う(-A-)

(と)時の友

iPodが壊れた。
中学三年生の誕生日に買ってもらったものだから、10年と7ヶ月ほぼ毎日使っていたことになる。
皆が持っているものより、かなり大きめのiPodだった。
古いモデルで、ビジュアルも良くはなかった。でも、容量が大きくて、その中にいくら音楽を入れてもいっぱいにはならなかった。
社会人になって、「今時ケータイで音楽は聴けるじゃない」と同僚に笑われることもあったが、私はそれを手放す気がおこらなかった。

いつからかは覚えていないけれど、よくフリーズするiPodだった。
曲をシャッフルするといつも偏った選曲をした。
だけど、落ち込んでいたり、センチメンタルな時に限って、妙に気の利いた曲を流してくるiPodだった。

つまるところ、私はとてもこのiPodを気に入っていた。

片方のイヤホンが聴こえなくなったのは2ヶ月前だった。
ジョンレノンの声がやけに薄っぺらく聴こえて、おや?と思った。
何曲か再生してみたが、右側が聴こえない。
イヤホンの不調かと思って、家に転がっていたヘッドホンを繋いでみた。
だけど、変わらなかった。
念のため新品のイヤホンも買って試したが駄目だった。

調子が悪いだけだと思うことにした。
今まで何度も「壊れた」と思うことはあった。
だけど、なんだかんだで10年7ヶ月も頑張ってきてくれたんじゃないか。
またすぐケロッと元に戻るはずだ。

私は半分事切れた音楽をしばらく聴き続けた。
ベース音は薄まり、左右で掛け合うような歌は完全に意味のわからない歌詞となった。
だけど、使い続けた。それは、大袈裟に言うと、祈りにも似ていたように思う。


2ヶ月経った頃、もう片方も聴こえなくなった。
Googleヤフー知恵袋を駆使して、素人なりに復旧作業を試みてはみたが、駄目だった。
一応電気屋にも行ったが、「もう部品がないから修理はできない」と、少し迷惑そうにあしらわれた。

私は途方にくれた。
「音楽聴けるアプリ教えてあげるよ」と、友達は私のケータイにミュージックアプリをダウンロードしてくれた。
「新しいのを買ってあげようか」と恋人は言ってくれた。
だけど、私はどちらの好意にも、苦い顔で首を横に振るだけだった。
ただ音楽が聴きたいわけじゃない。
ましてや、新しいのが欲しいわけでもない。
私は、あの10年と7ヶ月を共にしたボロいiPodを元に戻して欲しいのだ。

中学3年生の頃、受験勉強に疲れた時、いつもあのiPodBUMP OF CHICKENを聴いた。
上手くいかなかったり、どうしようもなく不安になったら、布団に包まって何度も何度も聴いた。

高校2年生の頃、あのiPodのイヤホンを分け合って、チャットモンチーやRADWINPSを友人と聴いた。
大好きな人と一緒に聴いて、一緒に歌って、ケンカした時ですら繰り返し聴いた。

大学2年生の時、あのiPodでback numberやクリープハイプを聴きながら歩いた。
どんなに長い距離でも、音楽がある限り、ありきたりな風景はカラフルに見えて飽きなかった。

別に、私のあのiPodが壊れたって、音楽はなくならない。
BUMP OF CHICKENも、チャットモンチーも、RADWINPSも、back numberもクリープハイプも、今だってTSUTAYAに行けばあるし、ケータイでも聴ける。
でも、違うのだ。
あの、大きくて、重くて、すぐフリーズして、ダサいiPodと、私は一緒に年をとってきたのだ。
ただ音楽が聴ければいいんじゃない。
私はただ、これからも、こいつと一緒に色褪せていく音楽を聴き続けたかったのだ。

だけど、上手く伝えられない私は、ただ、力なくヘラヘラ笑う。
新しいiPodも、アプリもいらない。
ただ、ヘラヘラ笑って、このiPodを、鞄のポケットに忍ばせ続けるのだ。

(た)たて、たて、よこ

「僕はね、かっこいい大人になりたかっただけなんですけどね」

男は、まるで「とほほ」とでも言わんばかりの間の抜けた笑みを虚しく浮かべながら、そっと呟いた。
かれこれ30分ほど前から男が書き始めている遺書は、既に3ページ目に突入している。

「それが、まさかこんな情けない死に方するはめになるなんて。子供の頃の僕に教えてやりたいですよ。そしたら、もっと別の道を選べたのに」

私は、ただ無言で、机に向かう男の姿を眺めていた。
この男は、一体何ページ遺書を書く気だろう。
遺書が長い人間ほど、未練が多く、最後の最後に死ぬのを躊躇してしまうことが多い。
躊躇しようがしまいが、男が死んでしまう結論に変わりはないのだが、早くしないと夜が更けてしまう。

「それにしても、あなたの仕事には驚いた。どんなに偉くなった気でいても、人間、知らないことだらけなんですね。まだお若いようですけど、この仕事は長いんですか?」
男が、便箋から顔をあげ、こちらを振り返る。
無駄口を叩かず、早く書き終えてくれないものか、と、内心ため息をつきながら、「5年です」と、私は静かに答えた。
この男に気持ちよく死んでいただくことも、私の仕事のうちなのだ。

「5年か…。あなたは、業界内でトップクラスの幇助人だと聞いています。5年でそこまで登りつめるとは、きっと、よほど優秀なお方なんですね」
肯定も否定もせず、私は無表情を貫く。
その愛想のない反応に、男は曖昧に笑ってから、また遺書に取り掛かった。

実際、5年どころか、3年以上幇助人を続けられる人間は、殆どいない。
人が自ら死んでいく瞬間を見とどける仕事だ。
普通の精神の持ち主であれば、すぐに参ってしまう。
たとえ精神を保てる人間であっても、運が悪ければ、自分の痕跡を警察に辿られ、自殺幇助罪、下手すれば殺人罪で逮捕されてしまう。
その代わりと言ってはなんだが、報酬はかなり良く、まさにハイリスク・ハイリターンを地でいく仕事だ。

便箋を走るペンの不規則な音がぴたりと止まった。
「よし。お待たせしました。書きあがりました」
男は遺書を私に差し出した。
私は、手袋をはめた手でそれを受け取る。
結局、「美由紀へ」で始まるその手紙は、合計4枚にまで及んでいた。

中身をろくに見ることもなく、それら便箋1枚1枚を、私は機械のようにタブレットで撮影した。

4枚全ての撮影が終わり、顔をあげ、男の方に向き直る。

「お疲れ様でした。石川様の遺書は、確かにデータとして保存させていただきました。石川様の死後、万一、第三者によってこの遺書が破棄されることがあっても、我々がこのデータをご家族にお届けいたします。と、言いましても、今回は依頼人が石川様ではなく、吉住様でいらっしゃいますので、一度内容を吉住様にご確認いただきますが、よろしいでしょうか」
たとえ、この男が「よろしくない」と答えたところで意味はないのだが、一応彼の返事を待つ。
「ええ。吉住大臣のシナリオ通り、事件の顛末についてはきちんと書いてますよ」
男は、渇いた笑顔を少し引きつらせて言った。

私は小さく頷いて、撮影したばかりの遺書のデータを依頼者に送信する。
「では、確認が取れるまでしばらくお待ちください」

ホテルの室内に沈黙が訪れた。
この時間が一番苦手だ。
自殺予定者が、そのまま沈黙して待っていてくれればよっぽど有難いのだが、大抵の人間はこのタイミングで、ここぞとばかりに話し始める。

何しろ数十分後に、自分は死んでしまうのだ。
最後に、自分の人生について語って聞かせたがる者、自らの不運を嘆きだす者、あれこれ質問してくる者…。
すぐあとに待っている「死」の恐怖に飲み込まれぬよう、彼らはそれぞれ必死に口を開き続けるしかないのだ。

この男も例外ではなく、口を開いた。

「あなたは何故、この仕事に就いたんですか?」
突然の質問に、私は沈黙する。

「いえ、すみません。きっと、よっぽど深い事情があるんですよね、軽率でした。あなたのような若くて綺麗な女性が、こんな日陰の仕事をしていることが、なんだか気の毒で」

思わず苦笑いを浮かべそうになってしまう。
自殺に追い込まれている人間に、同情されるとは、なんて滑稽な話なのだろう。

「これがあなたの本当に最後の時間となります。せっかくですので、私の話よりは、あなたのお話をしてくださった方が有意義かと」
質問攻め程面倒なことはない。
それならば、まだ男に話させたほうが楽だ。 

しかし、男はゆっくりと首を横にふる。
「いえ、もういいんですよ。私の人生なんて本当にくだらなかった。親の言うまま必死に勉強して、政治家になって、生半可に正義感を振りかざそうとしたら嵌められて、罪を着せられて死ぬだけなんですから」

通常、幇助人には、自殺予定者の情報は一切知らされていない。
しかし、この男は最近何度かテレビで見たことがあった。
つまりは、多額の賄賂だか不正金だか、政治界にはありふれた汚い話に巻き込まれ、責任をなすりつけられて、結局死に追いやられている。
ありきたりな話だ。
そんなありきたりな、くだらない理由で、税金を原資に我々を雇い、誰か適当な犠牲者を自殺させて解決を図るのが、この国のやりかたなのだ。


そして、私たちは主に、その狂ったシステムを喰いものにして生きている。

「そういえば、あなたのお名前は?」
「吉村です」
いつものように、適当に思いついた偽名で返す。
「吉村さん。吉村さんがこの仕事をしてきたなかで、結局自殺しなかった人っているんですか?」
「いるにはいます」

男の顔が少し明るくなった。
「しかし、それは自ら依頼されてきた方ばかりですね。依頼者が自殺予定者と別にいる場合は、石川様もご存知の通り、その2者の間で既に契約を結んでおりますから。それを破棄した場合、普通に働くだけでは返しきれないほどの違約金が課せられます。逃げ出すのであれば、その契約を結ぶタイミングがほぼ最後ですね」
男の顔がまた曇り、渇いた笑顔がまた張り付いた。
「ですよね。まぁ、違約金なんてなくても、結局家族を人質にとられてるようなものですから。僕はもう死ぬしかない」
彼は、自分の左薬指に嵌められた指輪に視線を落として呟いた。
まだ新しく見えるそれは、室内を照らす照明の光を受け、無邪気にピカピカ光っている。

それから、気を取り直したように視線を上げ、「自分で自殺幇助を依頼した人は、ギリギリになって取りやめてもいいんですか?」と尋ねる。
「構いません。ただ、我々幇助人と顔を合わせた時点で、ご利用料金は全額お支払いいただく必要があります。大抵、お支払いはご自身に賭けた保険金からなさいますので、直前キャンセルはお客様の懐的に苦しいものかと」
「なるほど。そこまで自分を追い詰めて、自殺を幇助してもらいたい人もこの世にはいるんですね」
男はうんうんと頷きながら、また口を閉じた。

私は、遺書の確認完了メールがまだこないかとタブレットを見つめるが、音沙汰はない。

「それでも、僕みたいに依頼者が別にいる場合、要は、無理矢理自殺させられようとしてる人の場合、逃げようとする人はいませんでした?吉村さんに危害を加えようとしたり」
「我々のサービス利用者様は、紳士な方が多いので」


嘘だった。
実際、自殺に追いやられた人間が、一か八か逃げようとしたり、幇助人に暴力を振るうケースもよくある。
ましてや、幇助人が女であれば、最後の思い出に、とでもいうのか、暴行を加えようとすることも珍しくはない。
その時のために、私たちは日頃から最低限対応できるだけのトレーニングをしているし、今も仲間が私たちの様子を逐一モニタリングしている。


だから、今まで怖いと思ったことはないし、仮に不意打ちで殺されてしまったとしても、それはこんな世界に長く浸ってしまった自分への罰だと、諦めがついている。
むしろ、いつもどこかでそれを願っているのかもしれない。

「それは良かった」
男は微笑む。
心底「良かった」と思っているかのような言い方だった。
なるほど、このお人好しは、政治界では格好の餌食だ。

タブレットが振動した。
依頼者からの返信だ。
画面には、「問題なし」との短い文が浮かび上がっている。

「吉住様の確認がとれました」
男の肩がビクッと震える。

「では、改めてご依頼内容をご確認させていただきます」


私は背筋を伸ばし、今から死なざるを得ない男の目を真っ直ぐ見つめる。

既にその目に生気は感じられない。


「今回のプランは、首吊りによる窒息死となっております。このあと、石川様には、あちらにご用意しておりますロープに首をかけていただきます」


私が手で示した方向に、男がゆっくり顔を向ける。
そこには、洋服をかけておくために設置された背の高い竿があり、そこから、輪を作った白いロープが垂れ下がっていた。
そのロープの真下には、椅子が設置してある。

「足場の椅子については、ご自身で蹴っていただいても、私がはずさせていただいても構いませんが」
「自分でできると思います」
「かしこまりました。石川様の死亡が確認でき次第、なるべく早くご遺体が発見されるよう、ホテルの従業員をこの部屋に手配いたします。ですので、ご心配なく」
「ありがとう」
男が力なく笑う。

「最後に、何かご要望はございますか?と言いましても、お聞きできることは限られており、大変恐縮ですが」
「いくつか聞いてもいいですか」

男は、ロープの下でじっと自分を待っている椅子にのろのろ近づきながら呟く。


「なんでしょうか」

男が椅子の前で靴を脱ぐ。
「よいしょ」と、場違いな声を漏らしながら、そのまま椅子の上に立ち、私の目をじっと見つめた。

「僕が死ぬことで、この世界は良くなりますかね?」
「私にはわかりかねます」

「僕が死ぬことに意味はあると思いますか?」
「そちらについても、わかりかねます」

男に張り付いていた笑顔が、頬を伝う涙で溶けていく。

涙のせいなのか、瞳からは異様な光が放たれる。


「僕はただ、かっこいい大人になりたかっただけなんだ。今まで汚いことを山ほどしてきたんだから、少しぐらい正義の味方の真似事をしてみたかった。その代償が、命だなんて、そんな馬鹿な話、ありますかね」


「…申し訳ありません、わかりかねます」

ぽたぽたと、男の涙が床に落ちていく。
私は、ただその水滴を眺めながら、氷が溶けてくみたいだ、とぼんやり思った。

「じゃぁ、もう一つだけ」
「なんでしょう」
「僕が死ぬことで、吉村さんの役には立てるんですよね」

私は沈黙する。

そして、笑ってみせることを選択した。

「勿論でございます」

男は涙と鼻水で顔をべたべたにしながら、「なら良かった」と笑った。

瞳からは光が消え、また生気を持たない石に戻る。

「こんな惨めな死を迎えるときに、一人じゃなくて本当に良かった。吉村さん、ありがとう」
「この仕事をしてきて、お礼を言われたのは初めてです」

私は、男にハンカチを差し出す。
男は、微笑んでハンカチを受け取り、ごしごしと涙を拭った。

「では、準備はよろしいですか」
男は、頷いてから私にハンカチを手渡し、そのままそっと、自分の首に白いロープをかけた。

私は、頭を下げてから、彼に背を向け、数歩下がった。
ある程度の距離を取ってから、彼の死を見とどけるために振り返ろうとしたとき、ガタンという乾いた音がした。

振り返ると、男は宙に浮いていた。

キィーという、竿の音が、悲鳴のように響き、たちまち部屋に吸収されていく。


男に息はまだあり、首に巻き付いたロープを両手で握りしめ、苦しそうに踠いている。
せっかく拭ったばかりの顔は、また涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。

私は彼に向かって、ゆっくり頭を下げる。
彼の喉から漏れるような呻き声が、だんだん消えていく。


私は長い長いその時間を、ただ頭を下げて、待っている。

(す)澄んだ、空気と、淡い、夜更けに

子供の頃、「深夜」と呼ばれる時間帯は、恐ろしく長く、孤独なものだった。
家族が寝静まり、しんとした暗い部屋で、夜中ふと目が覚めてしまった時、進む時間の遅さに恐怖すら感じたものだ。
誰もが眠りにつくはずのこの時間帯に、自分だけが起きてしまっている。
取り残されてしまっている。
早く寝なきゃ、と焦れば焦るほど目は冴える。
ぎゅっと目を閉じても頭は思考をやめてくれず、普段は考えないようなことが、不安が、淋しさが、ぐるぐる頭の中に浮かんでは消える。
そして、気付くと眠りに落ちている。

子供の頃の「深夜」は、そういうものだった。

そんな「深夜」も、成長するごとに捉え方が変わってくる。
それは「大人の時間」として、憧れの対象になり、いずれ「ただの夜」となる。

大人になってしまえば、深夜なんて長くもなんともない。
手当たり次第誰かに連絡をとってみれば、何人かは起きているし、外に出れば24時間営業の店が平然と光を放っている。
深夜であろうと、世界は当たり前に動き続けている。
そんなことも知らない幼い頃の私は、ただ未知なる「深夜」にぶるぶると怯えていたわけだ。


午前4時をまわった。
もはや夜は更け、早朝と呼ばれる時間帯。
8月の空は、既に深いネイビーから淡い白へと変わり始めている。

私はマンションのベランダで一人、旨いとも思わない煙草をだらだらと吸う。
こんな私を、「深夜」に震えていた頃の私が見れば目を丸くするかもしれない。

吐き出す煙は、空の色に優しくとけていく。
空気は、澄んでいる。
空はどんどん明るくなる。
それを「希望」と呼ぶ人がいる。
「絶望」を感じる人もいる。

私は、今の私は、この夜明けに何を感じているのだろう。
子供の頃には想像もつかないその答えを、私は一人心に留め、ただ空に向かってふうっと煙を吐き出した。

(さ)サイエンス・フィクション

【2014年 ラーメン屋にて】

岡山宏が昨日と全く同じ店で、昨日と全く同じ塩ラーメン定食を注文したのを見て、僕は、おや、と思った。
そういえば、今日の岡山は、いつもの色褪せたパーカーとジーンズではなく、彼にあまり似合わない紺色のポロシャツとワイン色のチノパンという、見覚えのないコーディネートをしている。
普段ボサボサな髪も、今日は整えられており、ワックスまでつけている。
岡山の様子をこっそりうかがいながら、「これはわりと手の凝ったイタズラだな」と、僕は心の中でため息をついた。

「それで、なんか俺に質問ないの?」
注文を終え、水を一口飲んだ岡山が言う。
「あぁ、えっと。なんだっけ、何年後から来たんだっけ」
僕もつられるようにして水を飲む。
昨日同様、この店の水はいつも生ぬるい。
「四年後だよ、四年後!真面目に聞いとけよ。俺は四年後から来た岡山宏!」

そう。今、僕の目の前にいる岡山宏は、四年後の未来から来た岡山宏、という設定らしい。

「四年後もお前はハイテンションなんだな」
「四年前もお前は冷めてるな」

僕と岡山は、大学1年生からの付き合いだ。
岡山は物理学部、僕は生命医学部と、学部こそ違うものの、下宿先の部屋が隣同士ということで自然と仲良くなった。そして、毎日何をするでもはく2人でだらだらつるみ続け、大学生活も残すところあと半年弱となっていた。

「未来から来たという俺に、お前は聞きたいことが沢山あるはずだ」
岡山はテーブルをばんばん叩きながら僕に質問を強要する。
「じゃぁ、四年後僕は何してんのさ」
「お前は、隅田製薬に勤めている」
「だろうな」
僕は既に隅田製薬に内定をもらっており、内定式も先週終わっていた。

「お前の質問つまんないんだよ。もっと聞くべきことが他にあるだろ。未来から親友が来る理由とかちゃんと考えながら会話してくれよ、まじで」
岡山が大きな声で喚く。
周りに迷惑になるのではと、僕はあたりを見渡したが、店内にさほど客はおらず、幸い誰も僕らを気にしていないようだった。

「あれだ、未来におこる僕の死を防ぎにやってきたとか?」
僕は適当に答える。
そもそも岡山は、一度何かをやりだしたら、他人に煙たがれようが迷惑がられようが自分が飽きるまでは決してやめない、傍迷惑で厄介なタイプなのだ。

「お前はシリアスなタイムトラベル小説の読みすぎだ。もっとポップでキュートな想定をしてくれ」
「岡山はポップでキュートなアニメばっか見てるから、そんなに頭の中お花畑になんだよ」
「お前は全世界のポップでキュートなアニメファンをたった今敵にまわしたぞ」

中身のない会話をしているうちに注文した定食がやってくる。
僕はさすがに昨日食べたばかりのラーメンを頼む気にもなれず、餃子定食を注文していた。
岡山は、「なつかしーなぁ!」という小芝居も忘れずに、早速ラーメンをすすりはじめた。
「ってかお前、昔はいっつも味噌ラーメン頼んでなかったっけ?なんで今日は餃子なの?」
麺を口に入れながら、未来から来た設定の彼は白々しく尋ねる。
「昨日もお前と行ったんだって」
僕は餃子を一口食べ、あまり腹が減っていないことに気づき、すぐに箸を置いた。

「で、結局岡山の目的はなんだよ。大事な話っていうから来たんだけど、いつもの悪ふざけなら卒論書きに帰りたいんだけど」
「悪ふざけじゃないって。俺はお前のためにわざわざ時空を超えて来たんだぞ。なんでだと思う?」
「僕をからかうため」
「お前を運命の相手と結びつけるためだよ」
岡山は、口に詰め込んだ米をラーメンの汁で流し込みながら、堂々と言う。
「いいか、これが決め台詞だぞ!」と主張する彼の心の声がダダ漏れて聞こえるぐらい、やけにはっきりした声に、僕はうんざりした。

「あぁ、そう」
「信じてないな」
「信じてる信じてる」
「まぁ俺の話をとりあえず聞け」
「お前がもったいぶってなかなか本題に入らなかったんじゃないか」
「まぁ聞け」
岡山はコップの水を飲み干すと、咳払いを一つして、芝居掛かったように小声で話し始めた。

「いいか、お前は半年後、運命の相手と出会う。もう、一目見ただけで「この人が運命の人だ!」とわかるぐらい、ビビッとくる。そんな人に出会うんだ」
「楽しみにしとくよ」
「まてまて、聞けって。本題はここからだ。お前は勿論その子に恋をする。好きで好きでたまらなくなる、病的なほどに。だけど、お前はその子と結ばれはしない」
「その子が不幸な死を遂げるとか?」
「その子はお前の友達の彼女だったからだ」
「ほう」
僕は、とりあえずまた餃子を一つ口に入れてみる。だが、やはり腹は空いていない。
岡山は気分がのってきているのか、それとも昨日食べたばかりのラーメンに飽きているのか、箸を置いて話し続ける。

「四年後、その子はお前の友達と結婚する。あ、この友達ってのは俺のことではないから安心しろ」
「安心した」
「おう。で、結婚式に招かれたお前は、美しい彼女のウエディングドレス姿を見て男泣きだ。もう俺にわんわん泣きつく。「あいつより先に僕が出会っていればーっ!」って具合にだ」
「お前に泣きつく未来なんて想像できないよ」
「それは、お前の想像力が乏しいからだ。とにかくお前は俺に泣きつくんだ。そして、心優しい俺は立ち上がる。過去を変えるために、四年前にタイムリープするんだ!」
「泣ける話だ」
「真面目に聞けよ」
「でも岡山、タイムリープってあれだろ。意識だけ過去に飛ばすってやつだろ?じゃぁ服装とか髪型までわざわざ変える小細工しなくても良かったんじゃないか?」
岡山はそのままの表情で数秒停止した。
そして、テーブルに乗り出していた身体を、硬い椅子の背もたれにゆっくり沈めさせた。
「お前って揚げ足取る天才だよな」
「ありがとう。ってことで茶番は終わりでいいか?」

僕は冷めかけたスープを飲み干し、餃子と岡山を残して席を立とうとした。
そんな僕を、岡山は何か策を思い出したかのように呼び止める。
「あ、そうだそうだ。お前は今日、本当は珈琲屋に行くつもりだっただろう?」
その言葉に、僕は動きを止める。
「お前は、大学の近所の珈琲屋カフェサンに行くつもりだった」
「…なんで知ってんだよ」

確かに今朝は、なんだか無性にカフェサンのコーヒーが飲みたかった。
そして、実際に岡山に呼び出されるまでは、そちらに行く気だったのだ。
このことを誰かに言った覚えはないし、その珈琲屋自体にも特段頻繁に通っていたわけではない。

「四年前…つまり今日。お前がカフェサンに行っているまさにその時。お前の運命の人はこのラーメン屋でお前の友達と出会うんだ」
岡山の言葉を真に受けたわけではないが、僕は思わずキョロキョロ周りを見渡す。
客層は先程から変わっておらず、その中に僕の知人も、ビビッとくる女の子もいない。

「お前の友達は俺が既に追い払っておいた。」
あたりを見渡す僕を見て、嬉しそうに岡山が言う。
「そいつが誰か知ってしまったら、お前は罪悪感に苛まれるかもしれないからな。これは俺の優しい配慮だ」
「お気遣いどうもありがとう」
「で、もうじき、あのドアをお前の運命の人が開ける。お前はその瞬間恋に落ちる」
調子を取り戻した彼は、得意げに僕の1メートル程後ろにある木製のドアを指差した。
茶番だとはわかりつつも、すっかり岡山のペースに流され始めた僕は、抵抗する気にもなれず、彼が指差すラーメン屋の入り口を大人しく眺め始めた。

1分とたたないうちに、ドアについている鈴が、チリンと軽快な音を立てた。
ドアがゆっくりと開き、少し冷たくなり始めた外の空気が僕の頬を撫でる。

それと同時に、「いらっしゃいませー」という気の抜けた定員の声が店内に響いた。

その女性は、長く伸ばした黒髪がとても綺麗な人だった。
背が高く、ジーンズが良く似合う。
彼女はゆっくりと視線を僕に向けた。
2人の目があった。
吊り目気味で真っ黒な瞳が、芯の強さを感じさせる。
綺麗だ、と思った。が、岡山が言うように「ビビッ」とは勿論こなかった。

「麻子ちゃん!奇遇!」
岡山が手をあげる。
「あれ、岡山先輩」
ヒールをコツコツ鳴らしながら、彼女が僕らのテーブルに近づいてきた。

「岡山、どういうこと」
僕は岡山をじっと睨む。
「彼女は俺の研究室の後輩の、三浦麻子さんです。いやぁ、奇遇だね。麻子ちゃん、良かったらここ座りなよ」
岡山が棒読みに言う。
三浦麻子は照れたように笑いながら、あっさり岡山の隣に腰をおろした。

あぁ、なるほど。そういうことか。
僕は岡山をまた睨んでから、彼女に「はじめまして」と挨拶をする。
岡山のシナリオにのるのは癪だったが、三浦麻子の感じの良い笑顔を見て、「まぁ、少しぐらいのせられてやってもいいかな」なんて、少しだけ思い始めていた。


【2018年 結婚式披露宴会場】

「いやぁ、ほんとおめでたいよな。全部俺のおかげだよなぁ」
既に酔いがまわっているのか、岡山が愉快そうに僕の肩を叩く。
「まさか麻子ちゃんと本当に結婚することになるなんてな。お前、一生俺に頭あがんないぞ」
岡山は四年前となんら変わらないテンションで声をあげて笑った。
永遠に続くかと思われた僕と岡山の縁は、就職を機にあっさり切れ、彼とこうやって話すのも四年ぶりだった。

「っていうか何で付き合ったって報告俺になかったわけ、俺が恋のキューピッドなのにさ」
「付き合ったのは卒業後だったし、そんなふうに恩着せがましくされるのが目に見えてたからだよ」
「ほんと、いつの時代もお前は冷たいよ」

結局四年前の茶番は、当時僕に好意を持っていた三浦麻子と、それを面白がった岡山の画策だった。
三浦麻子に僕を紹介する相談をしながら2人で飲んでいるうち盛り上がり、何故かあのような運命の人設定に落ち着いたのだという。
「でも、それぐらい印象強い出会いじゃないと、付き合えないと思ったの」
僕と付き合い始めてしばらく経った頃、三浦麻子はそう言って恥ずかしそうに笑った。

「あ、そうだ、岡山」
そろそろ会場の前方に設けられている新郎新婦の席に戻ろうかと思った時、僕はふと四年前のことを思い出した。
「馬鹿らしすぎて今までずっと聞けてなかったんだけどさ」
ワインを口に運ぶ岡山は、「あ?」と間抜けな顔をして僕の言葉を待つ。
「お前さ、なんであの時、俺が珈琲屋に行くつもりだったって知ってたの?」

僕の問いかけに、岡山はぽかんとしている。酔いがまわっているうえに、四年も前のことを思い出せるわけないか、と僕は取り繕うように笑った。
「覚えてなきゃいいよ。どうせテキトーだったんだろうし。じゃぁ、戻るな」
「あ、まてまて」
岡山が眉間に人差し指を当て、何かを思い出す素ぶりをしながら僕を呼び止める。
「覚えてる覚えてる、カフェサンのことだろ?俺、記憶力だけはいいからさ。あれ、テキトーじゃないぞ」
「じゃぁ、なんで?」
「麻子ちゃんに教えてもらってたんだよ」
「え?」

身体の中の何かがざわめいた。
これ以上彼の言葉を聞いてはいけない気がした。
しかし、動くことはできず、ただ岡山の次の言葉を待つ。

「あの日、お前と会う直前に麻子ちゃんから連絡きてさ。お前、ツイッターやってただろ?俺はやってなかったけど」
「あ、あぁ、やってたかも」
「麻子ちゃん、こっそりお前のツイッター見てたんだって。それでお前があの日、カフェサン行こうとしてる呟きを見て、俺に情報共有したってわけ」
「麻子が?僕のツイッターを?」
「あ、ちなみに四年前はこれ口止めされてたんだけど、もう時効だよな?別に好きな人のツイッターこっそり見るぐらい可愛いもんだよ」
秘密の話を楽しむように笑う岡山に曖昧な返事をし、僕はその場を後にした。

確かに当時、僕はツイッターをしていた。
だけど、自分でツイートすることなんて殆どなかったはずだ。
そもそも就活前にケータイの機種変をして以来、ログインもしていない。
そんな僕のツイッターを、彼女が見ていた?
更新なんてされていないはずの、そして全く僕の身に覚えのない呟きを、四年前彼女は発見した?
しかもそれは的中していた。

どういうことだろう。

さっきから身体中の血管を、どろっとした冷たい液体が流れているような違和感がある。
思考すればするほど、その液体は凝結し、大きな塊となっていく。

僕は少し1人になりたくなり、披露宴会場を出てトイレに向かおうとした。
何か忘れている記憶がある気がして、四年前のことを必死に思い出す。
回想に夢中になり、会場を出てすぐ、曲がり角を曲がってくる女性に気付かず、そのままその女性にぶつかってしまう。
「あ、すみません」
僕は謝りながら、ぶつかった衝撃で彼女が落としたハンカチを拾おうとした。
その時、無性に懐かしい匂いが鼻腔をついた。
僕は思わず、ハンカチを拾おうとしゃがんだ体勢のまま彼女の顔を見上げる。

時間が止まった、そんな気がした。
「お前は半年後、運命の相手と出会う。もう、一目見ただけで「この人が運命の人だ!」とわかるぐらい、ビビッとくる。そんな人に出会うんだ」
四年前の岡山の台詞が頭を駆け巡る。
「ビビッ」という古い表現に苦笑いした記憶まで鮮やかに蘇った。

「あ、あの、すみません」
彼女は、自分を見上げたまま立ち上がろうとしない僕に視線を合わせるように、そっとしゃがみこむ。

「あ、えっと」
頭の中が真っ白になった。
心臓の鼓動が煩い。

「ハンカチ、ありがとうございます」
彼女が僕の顔を覗き込みながら、にっこり微笑んだ。
その笑顔を見るだけで、身体中に電気が走ったような感覚に襲われる。
その初めての感覚に内心パニックになりながらも、「あぁ、これがビビッてやつか」と冷静に考えている自分がいた。

「あ、ごめんなさい。はい」
なんとか冷静を装って、僕はその白いハンカチを彼女に手渡す。
その瞬間、頭の中がぐらっと揺れた。
僕はしゃがみこんだまま額を抑える。
記憶の波が押し寄せてくる。
その波はあまりにもぼんやりしているくせに、とても 激しく、はっきりと僕の心を揺さぶった。
耳に音が届かなくなり、目の前が暗くなる。
すると、音のない映像が古びた映画のワンシーンのように頭の中で流れ始めた。

それは秋晴れの午前、珈琲屋カフェサンの店内だ。
僕はコーヒーを飲んでいる。
僕の正面には岡山がいる。
2人は何か話しているが、声は聞こえてこない。
僕らのテーブルの横を、1人の女性が通る。
その女性はハンカチを落とす。
白いハンカチだ。
岡山がそのハンカチを拾って、彼女を呼び止める。
彼女が振り返る。
「あれ、岡山先輩」
きょとんとした顔で僕らを振り返った彼女は、三浦麻子ではない。今、現実の世界で僕がぶつかった女性だ。
岡山が驚いたように彼女に話しかける。
この映像の中では、彼女以外の声は聞こえない。
「いいんですか?じゃぁご一緒させてもらおうかな」
岡山に何やら言われた彼女は、困ったように笑いながら、遠慮気味に岡山の隣に腰をおろす。
そして、正面にいる僕に優しく微笑みかける。
「はじめまして、私の名前は…」

「あの、大丈夫ですか?」
頭の中で再生されていたものと全く同じ声が、不安そうに僕に問いかける。
僕ははっとして立ち上がった。
「ご、ごめん。ちょっと目眩がして」
彼女もホッとしたように立ち上がる。
栗色の明るい髪をふわふわと巻いたタレ目の彼女は、麻子とは対照的な女性に見えた。
特別可愛いというわけでも、僕のタイプというわけでもない。
だけど、身体中が彼女を「好きだ」と叫んでいる。
そして、僕たちはどこかで確実に出会っていた。

「えっと、君は麻子の友達?」
声が震える。
「はい、大学時代の研究室の同期です。岡山さんの後輩です」
彼女はにこりと笑う。
僕は彼女を知っている。


「あの、僕たちどこかで…」
「あ、麻子!」
彼女が僕の後ろに視線を向け、その名前の女を呼ぶように手を挙げた。
永遠の愛を誓ったばかりのその名に、僕は背筋が凍るのを感じる。

「こんなところにいた」
麻子は僕の腕をそっと掴む。その声にはなんの感情も感じられない。
「そろそろ岡山さんのスピーチ始まるよ、2人とも戻ろ」
ハンカチの彼女から僕の視線を引き剥がすよう、麻子は僕の腕をぐいぐい引っ張り、彼女から遠ざけていく。

「あ、麻子」
「うん?なに?」
腕を引かれる僕の視界には、彼女の表情が見えない。
「麻子ってさ」
頭が途端に冷静になる。
突然頭に浮かび上がった鮮明な映像。
初めてなはずなのに、懐かしいと感じる匂い。
ずっと身体の中に疼いていた違和感。
それらが、一つの馬鹿げた可能性へ僕を導く。

「麻子ってさ、タイムリープしたこと、ある?」
麻子がゆっくり振り返る。
純白のウエディングドレスを纏った彼女は、やはり美しく、そして、冷たく微笑んだ。

(そ)その痛み

今朝から歯が痛くて仕方ない。
しかし、今はそんなことに気を取られていては駄目だ。
今は、私の人生において、きっと重要な場面なのだ。
この場面に集中しなければならない。
私はぐっと眉間に皺をよせ、彼の泣き出しそうな横顔を無言で見つめた。

「佳子には本当に申し訳ないと思ってる。でも、もう決めたんだ」

今、私は4年付き合った男に捨てられようとしている。
しかも、彼は浮気相手と子供を作り、そのまま結婚するのだという。
こんな馬鹿げた話があっていいわけがない。

「佳子、本当に申し訳ない」

相手は誰なの?いつからなの?謝って済むと思ってるの?私の4年間どうしてくれるの?私よりその女が好きなの?
私の視線から逃れるように頭を下げる彼に、聞かなきゃいけないことが山ほどあるはずだった。
まさか、こんな形で裏切られるなんて。
いくら攻めても攻め足りないはずだった。

しかし、一言も発することができない。
少し口を開くと、歯に僅かな風があたり、とてつもなく滲みた。
別れ話と歯の痛み。
何故一度に両方やってくるのか。

私は静かに、できるだけ時間をかけて慎重に息を吐き出し、正面のフロントガラスを見つめる。
彼が黙ってしまうと、車内は重い沈黙に支配された。
付き合い始めた頃に彼が買ったこの車。
休みの日はよく出掛けたし、思い出は沢山詰まっていた。
私たちと一緒に生きてきたはずのこの車に、いつから私以外の女が乗るようになっていたのだろう。
いつから見覚えのないカラフルなブランケットが置かれ、いつから馴染みのない香水の匂いがするようになっていたのだろう。
そして、何故今の今まで、私はそれに気付かなかったのだろう。

涙がこぼれそうになった。
それが歯の痛みのせいなのか、失恋の痛みのせいなのかはわからないが、必死でこらえる。
私は失恋で泣くような女じゃない。
ましてや、歯が痛くて泣くような、か弱い女なんかじゃない。

永遠を思わせるような長い沈黙に耐えきれなくなったのか、彼が顔をあげてちらりとこちらを見る。
「佳子…?」
彼が私の名前を呼ぶのは、もうこれが最後なのかもしれない。

これはきっと悲劇だ。
しかし、私はこの悲劇に上手く集中できないでいる。
もう、限界だと思った。
歯の痛みも、心の痛みも。

「はが…」
思っていた以上に声がかすれた。
歯がキンと痛む。
彼は私の発言に首を傾げながら、「はが?」と、呟くように復唱した。
私はどうにか痛みを堪えて、言葉を絞り出す。
「歯が、痛いから、帰るね」

彼は「そう…、お大事に」と言って、去っていった。
これが、私たちの別れだった。


次の日は朝一で歯医者に行った。
会社は、体調不良を理由に休んだ。
夜も眠れないぐらい歯が痛いのだから全く仮病ではない。


「これは、シズイエンですね」
「しずい、えん?」
歯医者にて一通り検査が終わった後、ベテラン感のある医師がやけに溌剌とした声で私にそう告げた。
告げられた病名を漢字変換できないでいると、助手の女性がタブレットで説明資料を表示して見せてくれた。
「歯髄炎…」
なんだか禍々しい漢字の並びに、言いようのない不安が膨れ上がる。
「なんらかの原因で歯が圧迫されちゃって、神経が傷ついちゃってるんですよ。赤坂さんの場合、既にいくらか死んでる神経もあるみたいでね」
医師はそう言いながら、カラーで撮った私の前歯の写真を見せる。
「ほら、これが今痛んでる歯ですね。色が他の歯と比べてうっすら黒っぽいでしょ。これ、神経が死んでる証拠です。で、今は、生きてる残りの神経が傷ついて痛んでるって状態ですね」

私の神経が、死んでいる?

「赤坂さんの場合、親知らずが原因かもしれないですね。親知らずが歯をどんどんおしていって、前歯に皺寄せがきたのかも。それで、神経が死にかけてる」

残りの神経は、死にかけている?

「どうしましょうか。神経を全て抜いて痛みをとってしまうか、様子を見るか」
医師は「神経を抜くこと」が、まるで何でもないことのように軽い口調で尋ねた。
これまで神経を抜いたこともなければ、虫歯を持ったこともない私は、かなり狼狽した。
「このまま放っておいて、酷くなることもあるんでしょうか」
すぐには決断できずに、恐る恐る尋ねる。
「勿論ありますよ。さらに痛んでこのまま神経が死んでしまう可能性もありますし。でも、痛みがあっさり治ることもあります」

悩んだ末、神経を自ら殺すことに怖じけた私は、とりあえず様子を見ることを選んだ。

自宅に帰ると、コートのままベッドに倒れこんだ。
歯医者では、下の歯に当たってダメージを与えないよう、痛む上前歯を少し削った。
削ったのは僅かであったが、鏡を見ると隣の前歯との高さは明らかに違っていて、なんだか一層惨めな気分になった。

寝転びながら、私はふと、今死にかけている前歯の神経を思い浮かべる。
と言っても、神経なんて見たことがないので、代わりに細い細い糸をイメージした。
頭に浮かぶその糸は、何故かボロボロな操り人形に何本も繋がっている。
複数あるはずの糸は殆どが切れており、人形はがっくり項垂れ、手足もだらりと垂れ下がっている。
人形の胴体に繋がった数本の細い糸により、どうにかその身体は倒れずにいる状態だ。
しかし、糸は1秒ごとにミシミシと音を立て、いつ切れてしまうかもわからない。

こんなの、もう切れてしまったほうがいいのかもしれない。
生きているほうが惨めじゃないか。

痛み止めの副作用か、眠気が込み上げてくる。
歯の痛みが少しおさまってきたことで、脳に余裕ができたのか、昨夜の光景が漸くフラッシュバックしてきた。

あまりにもあっけなく終わったあの恋に、私は何を求めていたんだろう。
私の4年間はなんだったんだろう。
どうして、あの時泣けなかったんだろう。
歯が痛いって、泣き喚けば良かったのだ。
幼い頃そうしていたように、「痛い、痛い」と、泣き続ければ良かったのだ。
そしたら彼はきっとオロオロして、助けてくれたかもしれない。
私を1人にしなかったかもしれない。

今更涙がこぼれた。
死にゆく私の神経とともにイメージしてしまったあのボロボロな人形。
今にも糸が切れて、ばたりと倒れてしまいそうな人形。
あれは、私だ。
ここ数年間、彼の前ではおろか、1人の時も泣いたことがなかった。
泣きたくなることなんて数えられないほどあったのに、私は泣けなかった。
泣くのを我慢するたび、糸はぷちぷちと切れていた。
どうして、こんな中途半端に大人になってしまったのだろう。
どうして大人は歯が痛くて泣いてはいけないのだろう。
どうして私は失恋して泣いてはいけないと思っているのだろう。
どうして、こんなことになっているのだろう。

歯がキンと痛んだ。
私は思わず飛び起きる。
無意識のうちに、歯を食いしばってしまったようだ。
なんとも厄介な爆弾を抱えてしまった。
「まだ、生きてるのか…」
無意識に呟く。
痛みがあるということは、まだ私の神経は生きている。
私が失恋してようが絶望してようがお構いなく、私の歯の神経は今も悲鳴をあげて痛みに耐え続けている。
そう思うと、この厄介すぎる爆弾が、ほんの少しだけ愛しく思えた気がした。
痛む限り、生き続けている。
生き続ける限り、痛みがある。

今。
今は、とりあえず生きている。

さて、これからどうしたものか。

(し)死にたがりのシチュエーション

理想の死に方は不慮の事故だ。
たとえば、青信号の横断歩道を渡っている最中、信号無視で突っ込んできた車に撥ねられて死ぬのが好ましい。
さらに言えば、その車の運転手が飲酒していたり薬物中毒者であれば、一層同情も集まるので好ましい。
もっと欲を出すのであれば、車に撥ねられそうになっている子供を助け、身代わりに死ぬくらいが最高に理想の形だ。
子供の命を救った僕を、世間は褒め称え、その死は尊いものとなるからだ。


そんなことを考えながら、僕は通勤用バッグを片手に、早足に朝の横断歩道を渡る。
信号待ちをする両車線の車は、行儀良く停止線の少し前で停車し、動き出す気配もない。
何も起こらなかったことに落胆することもなく、そのままいつものバス停までたんたんと歩みを進める。


自殺は駄目だ。
自殺するに値するようなカード、たとえば過酷な労働環境や耐え難い人間関係、借金や恋人の裏切り等を僕は持っていないからだ。
理由もなく死んで、「命を粗末にしやがって」なんていうバッシングを死んでから受けることは避けたい。
死ぬからにはせめて同情されたいのだ。
だから、僕の場合、自殺ではなく、不慮の事故が望ましい。


いつものバス停に、いつもの時刻に到着する。
いつものように10人程が既に列を作っており、僕はその最後尾にそっと着いた。


死を望む理由は特にない。
ただ、この毎日の繰り返しに嫌気がさした。
心から信頼できる友人も、一生寄り添いたいと思える恋人も、のめり込める趣味も、やりがいを感じれる仕事もない。
こんな毎日をあと何千回も繰り返すのだと思うと、途方に暮れるしかない。
死ぬための強い理由がないように、生きるための強い理由も僕は持っていなかった。


バスがきた。
誰1人として降ろさないバスは、僕を含めたこの列をゆっくりと飲み込み始める。
バスのステップを上がったところで、後ろの乗客に身体を押され、前にいた中年男性の靴の踵を踏んでしまう。
こちらを振り返る男性から、すかさず目を逸らしたところでバスの扉がガシャリと閉まり、ゆっくりと発進した。


事件に巻き込まれることも、理想の死に方だ。
たとえば、この満員バスの中に凶悪なテロリストが乗っていて、無差別に発砲した銃弾に当たって死ぬのが好ましい。
欲を出すのであれば、銃口を向けられた女性を庇って死ぬなんて最高だ。
最悪の事態の中で、勇敢にも女性を救った僕は英雄となり、死して初めて光を浴びることができるからだ。


十数分バスは走り続け、何事もなく予定時刻通りに僕の会社付近のバス停に到着した。
人を掻き分けながらバスを降り、また僕は歩き始める。
長いゆるやかな坂道を下ると、踏切に差し掛かる。
図ったかのようなタイミングで踏切の警報機が鳴り始め、僕の目の前で遮断機がゆっくりと下りた。


たとえば…、
いつものように、僕は理想の死について想像し始める。
たとえば電車が断線して道路に突っ込んでくれば、たとえば電車が通過する直前に誰かに背中を押されれば…

ガシャン、という大きな音が、すぐそばで鳴った。
驚いて音の方を見ると、遮断機に前輪をぶつけた自転車が一瞬数十センチ宙に浮いて、落ちていくところだった。
無人の自転車が、派手な音を立てて地面に打ち付けられるのを横目に、僕は踏切に目をやる。
遮断機の向こうには、線路の上を横断するような形でうつ伏せに倒れている男性が見えた。
その男性が直前まで見ていたのであろうスマートフォンが、地面を勢い良くスライドし、踏切の向こう側に立っている女性の足元で止まった。

あたりが一瞬静まり返った気がした。

実際には警報機が絶え間なく鳴り続けていたはずだが、この世の音が全て消え去ったかのような錯覚に僕は陥った。

線路の上に横たわる男性は、呻くように動いているが、打ち所が悪かったのか、それとも脚を折ったのか。立ち上がることも、踏切の上から這って移動することもできていない。

「これはチャンスだ」と、僕の頭が言う。
「お前が望み続けていたシチュエーションだ」と。

自分の鼓動がやけに大きく聞こえだした。それを合図に、一瞬消失していた他の音も聞こえ始める。

踏切の警報機も、けたたましくカンカンと鳴り続けている。
もう十秒もたたずに電車がやってくるはずだ。非常ボタンを押してもきっと間に合わない。

僕はあの男性を助けることができる。
あの男性を線路から押し出して、代わりに自分が死ぬのだ。
やっと死ぬための大義名分ができるのだ。
仮に間に合わずに2人とも死ぬことになっても誰も僕を責めないし、助けるのが上手く間に合って2人とも生きていたなら、僕はちょっとした英雄になれる。
どの結果に転んでも、僕にとってはプラスになる。
これは、僕が望み続けたシチュエーションなのだ。

しかし、僕の足は地に根が生えたかのように動かなかった。
心臓の鼓動はどんどん早まり、血はドクドクと体内を激しく巡り続けているというのに、指一本動かなかったのだ。

その時、僕の後ろにいた青年が、勢いよく遮断機の上を飛び越え、倒れている男性に駆け寄った。
このあたりの高校の制服を着た、幼さのまだ残るその青年は、男性の両腕を引っ張り、なんとか線路からどかそうとする。
それとほぼ同時に、踏切の向こう側にいた女性が、ヒールをその場に脱ぎ捨て、遮断機の下をくぐり、中学生に加勢した。
踏切の前で呆然としていたサラリーマン風の男たちは、彼女らの動きにつられるように踏切の中に入って手を貸した。
踏切の中にいた全員が、僕と反対側の遮断機の外に出た約三秒後、電車は踏切を通過した。
警報機はボリュームを下げた後完全に鳴り止み、何事もなかったかのように遮断機が開いた。

さっきまで足が動かなかったのが嘘のように、僕は自然と一歩を踏み出し、踏切を渡り始めた。
心臓は、ドクドクとまだ音を立て続けたままだ。

踏切を渡り終え、線路のそばにできている人だかりに恐る恐る目をやった。
高校生や、倒れている男性の姿は、それを取り囲む人たちによって見えなかった。
しかし、その人だかりを抜けて、ケータイ電話で救急車を呼ぶ裸足の女性と一瞬だけ目があった。
彼女は僕を非難することも、軽蔑の眼差しをおくることもなかった。
彼女は、そもそも僕なんて見えていないかのように自然と視線を外し、電話対応を続けた。

ここにいる全ての人にとって、僕は「無」だった。
僕は歩みを止める。
もう一歩も踏み出せないような絶望が全身を包みこむ。

僕以外のざわめきを抑え込むかのように、後ろでまた踏切の警報機が鳴り始めた。

(せ)セントエルモの火

息子が万引きをした。
それは僕にとって、かなりセンセーショナルな事件だった。

僕が務める会社に、颯太の通う小学校から電話がかかってくるなんてことは初めてだったし、颯太が万引きという「非行」に走ったのもやはり初めてだった。


会社の同僚に早退することを謝り、小学校の先生に迷惑をかけたことを謝り、コンビニの店長には万引きした商品の代金を支払った上で何度も何度も謝った。
そうしているうちにすっかり日は暮れ、当の颯太は結局殆ど僕と話をしないまま眠りについてしまった。

本来であれば、親として、その日のうちに息子の話を聞き、しっかり叱らねばいけないことはわかっていた。
しかし、「ごめんなさい」としゃっくりをあげて泣き続ける颯太から話を聞き出す強さも、説教できる威厳も僕にはなかった。


「息子と向き合う」という最も大切な父親の務めを明日に先送りし、どこかほっとしている自分の臆病さにうんざりしながら、泣き疲れてソファーで寝てしまった颯太に僕はそっと毛布をかける。
「ごめんな、こんな父親で」
そっと触れた颯太の頬は、涙が乾いてべっとりとしていた。
「美咲も、ごめん」
僕は、ソファーの後ろの戸棚に飾ってある妻の写真に向かって呟く。
「全然上手く父親できてないよな、ごめん」
今日は謝ってばかりだ。

僕は美咲の写真から目をそらすと、視界に入ったお菓子の箱を手に取って、眠っている颯太の横に腰をおろす。
颯太が盗ったのは、人気アニメのキャラクターカードがついているそのお菓子1つだった。
僕は何の気もなくカード袋の封を切り、中身を取り出してみる。
キラキラ光る銀色のコーティングがなされたそのカードには、皮肉にも「レアカード!」と書かれていた。
僕は思わず笑ってしまう。
息子が万引きするなんて、確かにレアかもしれない。
いや、もしかしたら大人が気づかないだけで、こんなこと少年たちの間では日常茶飯事なのかもしれない。

お小遣いは不自由なくあげていたつもりだった。
毎年親戚から貰うお年玉だって、颯太自身に渡していた。それに、お菓子ぐらい僕に頼めばいくらでも買ってやった。
なのに、どうして颯太は万引きなんてしなければならなかったのか。

僕の頭には、ちらりと「いじめ」という言葉が浮かんだ。
万引きを強要するイジメがあることは、ドラマや漫画で知っていた。もしかすると、颯太はその被害者なのかもしれない。

だけど、もしそうじゃなかったら?
息子贔屓かもしれないが、颯太は決していじめられるようなタイプではない。
背も高く、小学2年生の頃から4年続けているサッカーのおかげで、身体も他の子と比べてがっしりしている。
成績も悪くないし、何より明るくて活発な子だった。
しかし、そんな子が何か些細なことがきっかけでいじめられてしまうことだってありえないことではないのだろう。

僕はため息をもらす。
実際はどうなんだろう。
いや、僕はどちらを望んでいるんだろう。
颯太がいじめられていて、嫌々万引きをやらされた現実か。
それとも、颯太が自分の意志で万引きをした現実か。
どちらの方が親として責任が少ないのだろう。
そこまで考えて、僕はまた自己嫌悪に苛まれる。
ここにきても、僕は僕の落ち度だけを心配してしまっているのか。

「本当に、くそみたいな親だな」
美咲が病死してから2年。
弱音だらけの独り言は日に日に増えていく。
「どっちにしたって、僕は颯太と向き合うのが怖いよ」
僕はぐっと目を瞑り、空から落ちてくる槍から身を守るように、ソファーの上で縮こまった。手にしたままのカードが、掌の中でぐしゃっと音を立てた。

「本当、あきくんは弱っちいなぁ」
ぼんやり聞こえた懐かしい声に、はっと顔を上げる。
そこにはいつもと変わらない、物が散乱したままのリビングがあるだけだった。
僕は自嘲しながらため息をつく。
死んでしまってもなお、美咲に縋りつこうとしている自分が可笑しかった。
ゆっくり目を閉じると、途端に眠気が込み上げてきた。
襲い来る睡魔に抗う気もおこらず、僕はあっさりそれを受け入れようとソファーの背もたれに身体を沈める。
もう何も考えたくなかった。

「寝ちゃだめだってば。明日颯太とちゃんと話さなきゃだめなんでしょ。あきくん、ちゃんとできるの?」
頭の中にかかった靄を切り裂くような、はっきりとしたその声に、僕は飛び起きる。
今度は間違いない。
確かに美咲の声がしたのだ。
必死に目の前の光景に焦点を合わせる。
もうここは夢の中なのか、それとも幻なのか。
すっかり見慣れた寂しい空間には、毎日毎日焦がれるほど望み続けた美咲の姿があった。

「あ、あ…。美咲…」
呆れるぐらい情けない声がぼくの口から漏れる。唇はわなわなと震えていた。
「美咲、なのか」
テーブルの向こうで、カーペットの上にちょこんと座る美咲は、眉を下げて「そうだけど?」と笑った。
その呆れたような笑顔が懐かしくて、鼻の奥がつんとした。


「なんで、美咲が。幽霊?夢?」
僕はソファーから転げ落ちるようにふらふらと美咲のそばに寄ると、その華奢な肩に手を伸ばす。
心のどこかで、彼女に触れようとしても透けてしまうのではないか、と覚悟していた。しかし、意外にも僕の手は美咲の実体をとらえ、その温かい体温までも感じられた。
「さぁ。わかんないし、覚えてもないけど、あきくんが今困ってるのは知ってるよ。困りきって逃げそうになってることも」
美咲は、僕が手にしたままのぐしゃぐしゃのカードを指差しながら、僕に問いかける。
「さて、あきくんは明日颯太とどう向き合うのでしょうか」

こんなわけのわからない状況でも、美咲の顔を見ているうちに不思議と心は落ち着き始めていた。
残念ながら、これらきっと夢なのだ。
僕の弱い心が、夢に彼女を呼び出したのだ。
情けない状態ではあるが、夢の中なのだから、僕は思う存分美咲に甘えられるし、助けを乞うこともできる。
僕は肩の力をふっと抜いて、素直に美咲に今の思いをぶつけることにした。

「さあ、どうすればいいんだろう。とりあえず万引きの理由を聞くんだろうけど、正直に話してくれるかな」
美咲は「どうだろうね」とだけ呟く。
いつ覚めるかもわからないこの夢の中で、沈黙している時間がとても勿体無く感じられ、僕は続けざまに口をひらく。
「颯太がいじめられてるって可能性はないよな?無理矢理やらされたとか」
「あるかもしれないね。あなたは颯太がいじめられるタイプじゃないと思ってるみたいだけど、あの子、小学2年生の時いじめられてたしね」
「え?うそ」
「ほんと。同じマンションの上級生に」
美咲は、まるで何でもないことのように答える。
驚くべき事実に、僕は「どうして僕は知らなかったの」と、弱々しく尋ねるしかない。
「だって、その頃といえば、あきくんは出世がかかった大事なプロジェクトのリーダー様だったからね。殆ど家にいなかったし、大変そうだっから耳に入れなかったのよ。プロジェクトが落ち着く頃にはいじめも終息してたし」
「そういう問題かよ」
「でも、当時言ってたとしても、あきくんは困っちゃうだけで、何もできなかったでしょう」
美咲の遠慮のない指摘に僕は返す言葉がない。
夫婦喧嘩となればいつだって、美咲の完全勝利だったことを思い出す。
「それで、いじめはどうやって解決できたの?」
「それはもう、私がいじめっ子たちのところに行って、泣くまで叱ってやったのよ。騒ぎに駆けつけたいじめっ子の母親たちも味方になってくれて、トドメをさして終了。そっから颯太もサッカーやりだして逞しくなってったしね。見事な解決っぷりでしょう」
「君はいつも大胆すぎるよ」
僕は呆れた表情を作りながらも、内心感心していた。


僕ならよその子を叱るなんて到底できない。僕の行動のせいでもし颯太が余計酷い目にあってしまったら、とか、いじめっ子の親が怒鳴りこんできたら、とか、常識的に考えられるあらゆることを想定して動けなくなってしまうだろう。
しかし、美咲は違う。
一応色々想定したうえで、「そんなの知るか」と動き出せてしまうのだ。
勿論美咲の人生においては、それで失敗することの方が多かったに違いないのだが、彼女はその生き方を最後まで貫き通した。
そんな彼女に僕は、どうしようもなく惹かれていたのは事実だ。

「まぁ、そういうことで、もしかしたらまた誰かにいじめられてるのかもしれない。そしたらあきくんはどうするの?」
美咲は僕を真っ直ぐ見つめる。
投げかけられた質問を、僕は頭の中で反芻する。

颯太がいじめられていたとしたら。
そう考えた時、内心どこか安心している自分に気付く。
颯太がいじめを受けていることは心苦しいし、許せない。
しかし、いじめられていたならば、今回の万引きは颯太が悪いのではない。
むしろ颯太は被害者なのだ。
そう思うと、自分も「親の責任」という重荷から逃れられたような気がした。
しかし、心が軽くなるのは一瞬だけで、すぐにまた別のずっしりした重りが僕を襲う。
万引き問題はそれで済んでも、いじめという過酷な問題が、僕と颯太を捕らえ続けるのだ。
僕は、「いじめの解決」という模範解答の存在しない課題に押しつぶされる日々を想像しただけで絶句し、助けを求めるように美咲の大きな瞳を見つめ返す。


僕がギブアップしたと判断した美咲は、小さく溜息を漏らす。
「私が言うのもあれだけど。残念ながら、颯太の親はもうあきくんしかいないんだよ。これから何がおこっても、あきくんは颯太と2人で立ち向かっていかなきゃならない」
美咲はまた僕を見つめる。
厳しい言葉のわりに優しいその眼差しに、僕は涙腺が緩み出すのを感じ、ぐっと歯をくいしばる。
いくら夢であれど、彼女の前で泣くのはあまりにも情けない。


僕はわざとふざけたように唇を突き出しながら、涙を誤魔化すために軽口を叩くことにする。
「立ち向かうって、君みたいにいじめっ子の家に殴り込むってこと?」
「あぁ、それはだめだよ。あきくんみたいな弱っちそうなのがでてきても、返り討ちにされちゃう」
美咲の思わぬ返答に、言葉を失う。
僕は妻にずっと、「弱っちそう」と思われていたのか。
「じゃ、じゃぁどうすれは」
どうにか声になった言葉は、なるほど確かに弱っちい奴のそれだった。
「うーん、そうだねぇ」

静かな沈黙が生まれる。
壁に掛かった時計の秒針がチクタクチクタク4回鳴り、沈黙を恐れる僕が無計画に口を開こうとした時、美咲が呟くように話し始めた。
「私さ、いじめられてたことあるんだよね、中学生の頃」
「え?」
初耳だった。
僕と美咲が出会ったのは大学生の頃だから、それ以前のことは、美咲が話すこと以外殆ど知らないのは当然だ。
しかし、「いじめ」と「美咲」は全く別の世界にカテゴライズされているような気がして、颯太がいじめられていたと聞いた時よりその事実は信じられなかった。

「生意気だとか、調子乗ってるとか、まぁよくわからない理由で、無視とか嫌がらせとかされてたことがあってね。担任も知らんぷりだし、私も参ってて」
美咲は、珍しくぼそぼそと話を続ける。
「今思えば馬鹿らしいけど、その頃は学校だけが自分の世界だったからね。そこに居場所がないって事実がもう恐ろしくて。死んじゃおっかなって思ったこともあったの。まぁ実際今は死んじゃってるんだけど」


僕は、美咲の取って付けたような幽霊ジョークに反応できないぐらい、ショックを受けていた。
明るくて優しくて強い、僕の最愛の妻を、そんなにも追い詰めた人間がこの世にいただなんて。
もう20年以上も前のことだとわかっていながら、美咲を追い込んだ人間に、計り知れない怒りを覚えた。


「でね、そんな時、いじめられてることが親にばれちゃってね。恥ずかしいし情けないし、もう最悪だーって思ったんだけど、そっから毎日両親がどうすればいいのか熱心に考えてくれてね。その解決策がまた全部ぶっとんでて、全く役立つことはなかったんだけどさ」
美咲は少し照れたように笑った。


僕は、数年前に亡くなった美咲の両親の逞しい顔を思い浮かべる。
美咲の大胆さや強さはこの親あってのものなのか、と、結婚当初しみじみ納得してしまったことを思い出し、思わず笑みをこぼした。


「でも、ありがたかったんだ。あんな情けなかった私のこと、恥ずかしがることも、目を逸らすこともせず、一緒に悩んでくれてさ」
結局いじめは、クラス替えと同時にあっさり消滅したのだと、美咲は話してくれた。


「話を戻すけどね。もしも颯太がいじめられてたとしても、あきくんが投げ出さずに、しっかり颯太の話を聞いて、一緒にうんうん唸りながら、解決策を考え続ければ、颯太は大丈夫だよ、きっと」
「君の子だから?」
「そう、私の子だから」
美咲はにっこり笑う。

ソファーで眠っている颯太が、小さく寝返りをうつ。美咲はゆっくり颯太のそばに寄り、愛おしそうにその髪を撫でた。
それはとても美しい光景のように思えた。
時計は、深夜3時をさしていた。

しばらく颯太の寝顔を幸せそうに見つめていたは美咲は、ふと思い出したかのように再び僕に呼びかける。
「それより、あきくん。いじめの可能性を心配するのもいいんだけど、颯太が自分の意志で万引きしてた場合の対応がわりと重要なんじゃないの、親としては」
「確かに」
何となく話がまとまった気になっていたが、まだ颯太との向き合い方を僕は全く定められていなかった。

「もしも颯太の意志で万引きをしていたなら、どうすればいいんだろう。怒るのかな?諭すのかな?美咲のご両親はどうしてた?」
「知るわけないでしょ、私、万引きなんてしたことないし」
思わず口にした問いかけをぴしゃりと跳ね返され、僕はしゅんとしてしまう。

「あきくんは?したことないの?万引き」
「え?」
あるわけないじゃないか、と言いかけて、僕は口をつぐんだ。
「え、あるの?真面目なあきくんが?」
美咲は意外そうに、僕が再び話し始めるのを待っている。

その時、僕の頭の中では、幼い頃の記憶が驚くほど鮮明に再生され始めていた。
それは、今日まで全く思い出されることのない記憶だった。

「未遂を、おかしたことは、あるかも」
僕は突然呼び覚まされた記憶に戸惑いながら続ける。
「小学生になりたてぐらいの頃かな、ショッピングモールの文房具売り場で、お試し用のペンや消しゴムを並べてるコーナーがあったんだ」
やけにはっきりと思い出せるそのコーナーには、フルーツやパンの形をした色とりどりの消しゴムが沢山置いてあった。

幼い僕は、それらにとても心を惹かれていた。
親に言えば買ってもらえたかもしれない。そもそも冷静に考えれば、それほど欲しいものでもなかったかもしれない。
だけど、何故か僕はその中の1つ、パイナップルの形をした黄色い消しゴムを、ズボンのポケットに入れてしまったのだ。


「なんで盗っちゃったのかは覚えてないんだ。ポケットに入れたことは誰にもばれなかった。でも、だんだん僕は怖くなってきて、そのショッピングモールのトイレに駆け込んで、洗面台のところにその消しゴムを置いて逃げたんだ」


消しゴムを置いた洗面台の位置まで詳細に思い出せることを、何より僕が驚いていた。
今までほんの一瞬たりとも思い出されることのなかった記憶が、どうしてここまで完璧に僕の頭に記録されているのか。


「まぁ未遂ってのがあきくんらしいよね」
僕の話を一通り聞いて、美咲は愉快そうに笑った。
「でも、その時あきくんは何が怖くなっちゃったんだろう。実際ばれずにその売り場は抜け出せたんでしょ?」
「うーん」


僕は再び記憶の中に潜り込む。
あの時、僕は万引きがバレることを恐れていたわけじゃなかったはずだ。
あんな小さな消しゴムが僕のズボンに入ってることなんて誰にもわからなかっただろうし、そもそもあれは、沢山あったお試し用の1つで、売り物でもなかった。
お店の人はなくなったことにも気付かないだろうし、気付いたとしても大した問題にはしないだろうと、僕は幼いなりに考えていたはずだ。
では、僕は何を恐れていたのだろう。

「誇りを、失うのが怖かったんだと思う」
その言葉は、意外にもすっと僕の口からでてきた。
言葉にした後で、「誇り」という大袈裟な表現に少し恥ずかしさを感じたが、それが一番自分の中でしっくりときた。
その言葉は、幼かったあの頃では、きっとどれほど考えても辿り着けなかった答えだった。


「盗んだことはばれなくても、僕は盗んだことを知っている。その罪悪感をこれからずっと持ち続けることに、僕は恐ろしくなったんだ。一度そんなずるいことをしてしまって、これから自分を信じられなくなることも。僕はそれが怖かったんだと思う」
「それも、とてもあきくんらしいね」
美咲が優しく笑いかける。
その美しい表情に、あんなに堪えようと決めていた涙が、いとも簡単に僕の目からぽろりと落ちた。


「未遂」と言えど、長年鮮明な記憶として僕の頭に残っていたこの罪を、美咲が赦してくれたような気がした。


「その話を、颯太にもしてあげればいいよ」
美咲は、堰を切ったように涙を流し続ける僕の頭をぽんぽんと撫でながら、ゆっくり語りかける。
「颯太、ずっと泣いていたんでしょう。きっと罪の意識に潰されそうになって苦しんでるのよ。何でそんなことしたのかは聞かなくちゃいけないし、やってしまったことはちゃんと叱らなきゃいけない。その後で、あなたのその話をしてあげて。きっと、今のあの子はあなたの話がよくわかるはずだから」
「ちゃんと伝わるかな?このままぐれたりしないかな?」
子供のように泣きじゃくる僕は、まるでさっきまでの颯太みたいだった。
不安で、不安で、ただ怖かった。
「大丈夫」
そんな不安を、美咲の言葉がゆっくり、しかしはっきりと消し去っていく。

「僕の子だから?」
「あきくんの子だから」
笑顔を作ろうとするが、うまくいかない。


こんなにも充たされた気持ちなのに、涙は止まる気配がない。
それから美咲は長い時間、彼女がいなくなってからため続けたありったけの僕の弱音を、呆れもせず受け止め続けてくれた。

いつの間にか、カーテンの隙間から弱々しい光が遠慮がちに差し込んできている。
隣の部屋から、微かに生活を始める音が聞こえ始める。
朝がきた。

泣き疲れて、もう涙もでなくなった僕は、そっと美咲の手を握りしめる。
その手はやはりとても温かく、彼女がこの世に既にいないだなんて、とても信じられなかった。
だけど、美咲はもういない。

幽霊は朝が来れば消えてしまうし、夢は目覚めれば終わってしまう。
今ここに美咲がいるという奇跡が、どうして起こりえたのか、僕には想像することもできない。
しかし、そんな奇跡もきっと今終わりを迎えようとしている。

「美咲、美咲」
ごめん。最後にそう言おうとした。
こんなに情けなくて、弱っちい僕が生きていて、こんなにも強くて優しい美咲が死ぬなんて。
颯太に申し訳ない。
美咲に申し訳ない。


「あきくん」
美咲は、僕の名前を一音一音大事そうに、丁寧に呼んだ。
そして、壊れやすい、愛しいものに触れるように、そっと僕の頬に手をあてる。
「ありがとうね」
それが何に対しての言葉なのかもわからないまま、僕はただぶんぶんと首を振る。
美咲にありがとうと言われることなんて、僕は何一つできていないのだ。


「あきくんは大丈夫だよ」
美咲は優しく言葉を続ける。
「私が信じた人だから」
急に視界が霞む。
猛烈な眠気が僕を襲う。
駄目だ、寝ちゃ駄目だ。僕の頭は必死にそう呼びかけるのに、そんな命令などお構いなしに、瞼はずんと重くなる。
「美咲…」
いかないでほしい。幽霊でも夢でもいい。お願いだから、行かないで。
「そして、颯太も大丈夫だよ」
「美咲の、子、だから?」
途切れそうになる意識をどうにか繋ぎ止めながら、僕はなんとか笑ってみせる。
「行かないで」と「安心して行って」という矛盾した思いが、僕の中で激しくせめぎ合う。
「ちがうよ」
美咲は僕の手をぎゅっと握りしめる。
「私とあきくんの子だから」

こんなことを言うのはかなり恥ずかしいことだとわかっているが、優しい朝陽を浴びながら微笑む美咲は、我が妻ながら、天使のようだった。

「美咲」
何よりも愛しいその名前を、呼び終えたか、終えなかったか。
僕の意識はそこで途切れた。


目覚めた時はもう昼過ぎだった。
美咲の姿は勿論どこにもなかった。
自分の頬に触れると、颯太がそうだったように涙が乾いてパリパリになっていた。
僕は呆然としたまま、隣でまだぐっすり眠っている颯太の寝顔を見つめる。
安らかに眠っている颯太の口元は、どこか幸せそうに笑っていた。
「お前もお母さんの夢、見てるのか?」
そうだとしたら嬉しい。
自然と頬が緩んだ。
颯太と向き合う覚悟は既にできていた。
「ありがとう」
僕はソファーから立ち上がり、美咲が幸せそうに笑う写真に向かって呟きながら、颯太とのこれからを思った。