50音ショートショート

50音分のタイトルで短編を書き終えれたら、関係ないけどとりあえず仕事やめようと思う(-A-)

記憶の支配者

男は初恋の人が忘れられないという。
幼かったあの頃からは、好みや恋人に求める条件も大きく変わっているはずなのに、そもそもそれほどよくその子のことなんて知らなかったはずなのに、その名前を聞くだけでドキリとし、甘酸っぱい気持ちでいっぱいになる。
そんな人が男には大抵いるはずなのだ。

そして、その面影は一生男の人生に付きまとう。

「なので、三年付き合って結婚も約束してた彼女は捨てて、初恋の人を追いかけます?」
沙希子は僕から目を反らさず静かに尋ねる。

喫茶店の席についてからすぐに注文した2つのアイスコーヒーは、いまだどちらも口がつけられておらず、一秒を刻むごとに溶けていく氷は茶色い液体を薄く薄く塗り替え続けている。

「本当にごめんなさい」
僕は沙希子の視線から逃れるように頭を下げ、喫茶店のテーブルにある染みを凝視し続けることを選んだ。
「その子とやったってこと?」
冷たい声が僕の下げた頭に降りかかる。
「やって、ない」
「嘘だ」
嘘だった。
中学の同級生同士の結婚式があったのはつい1ヶ月前のこと。

そこで僕は初恋の人、伊原梨花と再会した。

梨花とは中学2年生の頃クラスが同じで、共に美化委員だった。クジ引きで選ばれただけの委員だったので2人とも積極的に校内の美化に協力したことはなかったが、月に一度形式的に行われる委員会会議にはとりあえず出席しており、そこで会話を交わすようになった。
彼女は誰に対しても愛想がよく、頭も良いほうで、そして何よりとても美人だった。そんな彼女に単純な僕は恋をした。そして、彼女を想い続ける一方で、特にそれ以上接近することも、彼女について詳しく知ることもなく時は経ち、僕たちは全く別々の高校へ進学した。
そんな初恋の人に、僕は10年ぶりに再会したというわけだ。

あの頃より背が伸びて、胸も大きく膨らみ、化粧を施した梨花は誰から見ても美しかった。彼女の姿を見つけた時、僕は一瞬にして中学生の頃のあの代用できない気持ちを取り戻した。
だから彼女に声をかけられた時は飛び上がるぐらい嬉しかったし、彼女が「彼氏と別れたばかりで寂しい」と上目遣いで漏らした時は一気に身体が熱くなった。そして、僕は愛しの恋人であるはずの沙希子を完全になきものとし、梨花と一夜を過ごしてしまったのだ。

「周ちゃんて本当に嘘が下手」
沙希子が容赦なく吐き捨てる。
僕は嵐が過ぎるのを待つようにじっと俯き続ける。
「ねぇ、その人ともう付き合ってるってことなの?」
「…違う。付き合って、ない」
これは本当だった。

僕たちは確かに一夜を共にした。初めて抱きしめた彼女の身体は華奢すぎて硬く、冷たく感じた。柔らかくて温かい沙希子とは対称的だ。彼女が漏らす機械的な声も、表情も、沙希子とは全く違った。僕は彼女を抱きながら、やはり沙希子の方がいいなぁとぼんやり思った。そして、今夜のことはちょっとした過ちだったと正直に沙希子に謝って許してもらおうと誓った。そう、一度は何かに誓ったのだ。
けれど、別れ際に渡された梨花の連絡先を僕は嬉々として受け取ってしまい、帰宅してすぐに自ら甘い連絡もいれてしまった。「楽しかった」と返す彼女の言葉に舞い上がり、即刻次の約束を取り付けたのも他の誰でもない僕だった。

「でも、会ったのは一回だけじゃないんだよね?」沙希子の尋問は淡々と続く。
「うん…」
既に僕たちは4回会っていた。

1度目は再会した夜。
2度目はその次の週の土曜日だった。
僕は今月から上映されている人気映画のチケットを2枚とって彼女を誘った。沙希子が前々から見たいと言っていた人気監督が手がけるサスペンス映画だった。梨花は僕の誘いに快く応じた。
沙希子も僕もポップコーンは塩派なので毎回当たり前のように2人で分けていたが、彼女はキャラメルを好んだ。僕もキャラメル派ということにして上映中それを一緒に食べたが、ひどく甘く、なかなか進まなかった。結局彼女も太るからとあまり口にはせず、ポップコーンは半分以上残ったまま映画はエンドロールを迎えた。
やっぱり沙希子との方が気が合うな、と、僕は甘ったるいポップコーンを噛みながら上映中ずっとこの浮気を後悔し、沙希子にすぐに謝って許してもらおうと誓った。確かに誓ったのだけど、映画の後流れるままホテルにいき、相変わらず硬く冷たい彼女の身体を抱いた後、何故かまた自ら次の約束を取り付けていた。

3度目は彼女の家に招かれた。殆ど物がない部屋で、生活感を感じられない程彼女の部屋は綺麗だった。僕はワインを買って行ったが、料理はしないから食器がないのだと彼女は言い、コンビニで買った紙コップで乾杯した。コップと一緒に買った安っぽいツマミを食べながら、いつも酒を買っていくと美味しいツマミを作ってくれた料理上手の沙希子を思い出し、やはり浮気なんてこれっきりにして沙希子のもとへ戻ろうと僕は誓った。確実に誓ったのだけど、朝目覚めた時に僕の隣で眠る梨花の美しい寝顔を見て、僕はまたその夜彼女に連絡してしまった。

そして4度目に会ったのはつい昨日のことだった。彼女が僕のお気に入りの店に行きたいというので、少し迷ったが行きつけの小さな居酒屋に連れていくことにした。外装は古く、中もお世辞には綺麗とは言えないが、酒や料理は全て絶品で、沙希子と何度も通っていたお気に入りの店だった。だけど、結果的に僕らはその店には入らなかった。店の前まで来て、「ここだ」と僕が紹介すると、彼女は途端に苦い顔をし、「やっぱりイタリアンが食べたくなっちゃった」と綺麗に笑った。僕は自分自身を否定された気持ちになり、悲しく、恥ずかしく、そして腹を立てた。しかし、結局僕はへらへらしてイタリアンに彼女を連れていき、大して美味しくもない高いだけのパスタで腹を埋めた。

「本当その人のほうが好きになっちゃったんだね」
長かった沈黙を押し破って沙希子がため息を吐くようにそっと呟く。初めて聞くような、弱い弱い声に僕は思わず顔をあげる。
そこには僕が3年間愛し続けた女の子が、3年間見せたことのない悲しい顔をして座っていた。
背は低くて、胸も小さく、お世辞にも美人とは言えないけれど、愛嬌があって誰にでも好かれる子だった。僕と好みが似ていて、いつも美味しい料理を作ってくれて、よく笑う子だった。僕のことをいつも1番に考えてくれて、不器用だけど本当に優しい子だった。
「うん、好きなんだ」
言ってから、僕は自分が涙を流していることに気付いた。
沙希子を失うことに僕は恐怖を感じている。別れたくない。沙希子のそばにいたい。頭と身体はそう叫んでいるのに、僕の中の何かが梨花を選べと強く命令する。頭よりも、身体よりも、僕の中で強い権限を持った"何か"が、僕を沙希子から引き離そうとしている。
その"何か"に必死に抵抗するかのように、涙だけがぽろぽろと零れ続ける。
僕は初恋に支配されていた。
「そんなに、好きなんだね」
沙希子は僕の涙の意味を優しく受け止めた。そして、スカートのポケットから可愛らしいハンカチを取り出して僕に差し出す。僕は受け取ることもできず、俯きながら子供みたいに両手で目をこする。
「周ちゃん、目、腫れちゃうから」
沙希子がハンカチを無理やり僕の目に押し当てながらいつもの優しい声で言う。
「悲しいし、悔しいし、納得もいかないけど、わかったことにするよ。周ちゃんを泣かせてまでワガママ言えないし」
ハンカチを僕の手に握らせてから沙希子は立ち上がる。僕は顔をあげることすらできない。
「このコーヒーは奢ってよね。そんで、勝手に幸せになって」
沙希子の温かい手が僕の頭をぽんと撫でる。焦げるような痛みが胸に広がる。
引き止めなくてはいけない。謝らなくてはいけない。やっぱり僕には沙希子しかいない、そんなことずっとずっと分かっている。
「周ちゃん、大好きだったよ」

沙希子の気配が消える。喫茶店の扉にかけられたベルがカランと寂しげに鳴り、扉が閉まる冷たい音がする。結局口がつけられることのなかったアイスコーヒーからは氷が消えてしまっていた。


僕は顔をあげられず、机に増えていく染みをただ見つめることしかできない。
気付けばポケットの中のケータイが鳴っている。きっと梨花からの連絡に違いない。
僕は沙希子の香りのするハンカチを両目に押し当て、先の見えない未来に身震いする。
1つだけ、どうしようもなく確実にわかりきっていることはある。
僕はこの先、一生今日のことを後悔する。
ポケットから漏れる着信音は、いつまでもいつまでも鳴り止まない。

私が彼を殺した
比喩でもなんでもなく、ただ、物理的に。
二度と息が吹き返さないよう、できるだけ念入りに、念入りに、4度刺した。
最初は背中から。いつもむね肉を切るのに使っている包丁を両手に握りしめて、少し走りながら勢いよく刺した。幸い骨には当たらず、包丁は柄の寸前までスルッと彼の背中に飲み込まれた。それで終わりかと思った。しかし、生命とはそうあっさりと尽きるものではないらしい。彼は少しだけ呻いて、腰を折り曲げながらこちらを振り返ったのだ。私は驚いて、とっさに彼の背中から包丁を抜いた。
人通りが少なく、できるだけ灯りのない道を選んだつもりだったが、月がやけに明るい夜で、振り返った彼の表情がはっきりと見えた。
驚き、悲しみ、哀れみ、憎しみ。どれにもよく似た表情で、そして、きっとその全てを含んだ表情だったのだろう。低い声で呻きながら私に手を伸ばす彼を阻止するように私は既に血だらけの包丁を彼の胸目掛けて突き刺した。彼より伸長が15センチ低い私が胸を狙うと、やや不恰好になり、力も上手く入らない。さらに肋骨に拒まれ、包丁は彼の胸のかなり浅いところで止まった。
しかし最初に深く刺した背中の穴から溢れ続ける血のおかげで彼の顔からはどんどん色がなくなり、ついに膝をつき、ゆっくりとうつ伏せに倒れていった。私は倒れた彼の身体の横に膝をつき、両手で彼の肩甲骨の下あたりに勢いよく包丁を突き刺した。柄までとはいかなかったが、かなり手応えを感じた。彼は最後に鈍い声をあげ、動かなくなった。
人は三度刺されてやっと死ぬのか、と心でぼやいてから、念のためにもう一度背骨のあたりを刺した。暗い上に、彼は黒いコートを着ていたため、どれだけ血がでているのかはわからなかった。私は立ち上がり、目を凝らして自分の身体をチェックする。4度刺したわりに帰り血は浴びていない。しかし、膝を着いたときにコンクリートに流れていた血がついたのか、スキニーの膝の部分だけ少し黒く汚れていた。最近買ったばかりだったのに迂闊だった。私は少し重い気持ちになる。勿体無いけど洗って使う気にもなれない。次のごみの日に捨ててしまおう。
握りしめたままの包丁と両手に嵌めた安い革の手袋にはべっとり血がついていた。包丁はそのまんま捨ててしまいたかったが、凶器が見つかっていない方が捕まりにくくなりそうだなぁとぼんやり思って、とりあえず持ったまま立ち去ることにした。
別に逃げ切ろうと心に決めているわけではないが、捕まらないならそれにこしたことはない。
私は冷たいコンクリートに転がる彼の鞄に黒く染まった包丁と手袋を入れて持ち上げた。そのときに彼の鞄の奥にラッピングされたティファニーの小さな箱があるのが目についた。私はその箱を自分のコートのポケットに突っ込み、その場を後にした。

5分ほど歩くと街灯が増え、住宅街に入る。時間は深夜1時をまわった頃で灯りの点る窓は殆どない。明日はごみの日で、ぽつぽつと何件かフライングでごみ袋を玄関前に置いている家が見られた。
私はコートのポケットに突っ込んでいたティファニーの箱を取りだし、テキトーなごみ袋の結び目をそっと開けてその中に捨てた。ごみ袋を結び直す手は寒さにかじかんでいて、もうさっさと帰ろうと早足に住宅街を抜ける。

途中でコンビニの明るい看板が目に入る。ホットコーヒーでも飲みたいと思ったが、汚れたスキニーと、どう見ても服装に合わないビジネスバックが気になって諦めた。自分のアパートを目指して真っ直ぐ歩く。この街にはもう誰もいないんじゃないかと思えるぐらい、不思議と誰にも会わずに帰ってこれた。

さっさと熱いシャワーを浴びたかったが、血だらけの凶器をそのままにしておくのも気持ち悪く、100円均一で買いだめしていた新品のタオルでぐるぐる巻いて適当な小さな紙袋に入れた。手袋は2つに裁断して、4つのナプキンに包んみ、汚物用の真っ黒な袋に入れて固く結んだ。明日のごみの日に他のごみと一緒にだせばいい。包丁はどこかの駅で捨てておこう、幸い明日は出張で新幹線に乗る。停車中の電車のゴミ箱に突っ込んでおくのでもいい。
そんなことを考えながら熱いシャワーを浴びた。罪悪感も達成感もなかった。ただのありふれた日常のひとこまのようだ。
髪を乾かすと眠気が込み上げてくる。アラームをかけようとしてケータイを見ると図ったかのようなタイミングで友人の遥から電話がかかってきた。寝ているふりをしようか迷ったが、電話をとる。

「もしもし、麻衣子。ごめん、寝てた?」
「ううん、起きてたよ。誕生日おめでとう、遥」
「ありがとー。それが、聞いてよ。宗久さん、今日の0時過ぎに家を抜け出して会いに来てくれるって言ってたクセにこの時間になっても来てくれないのよ?私、待ってたのに。もう最悪。」
「酷い話だね、連絡とってみたの?」
「メールは入れたけど返信ないの。電話は私からは禁止されてるし…」
「家出る時に奥さんに見付かったとかじゃないの?遥も明日仕事でしょ、もう諦めて寝なよ。」
「うーん。なんか最近宗久さん冷たい気がするの。」
「不倫に罪悪感抱き始めたとか?」
「うん、それもあるかもしれないけど、私が思うにはさ…」
遥の声がそこで詰まる。私を伺っている。彼女は少しの間を置いて小さく息を吸う。口を開く微かな音が伝わる。
「もう一人、いる気がするんだよね、不倫相手。」

私は遥の言葉を笑い飛ばし、考えすぎだと慰めて電話を切った。

終わりの終わりに

凍てつくような真冬の朝、会社に行くまでの道のりで突然酷い衝撃を背中に受けた時、「あぁ怨念に遂に追い付かれたのか」と直感した。
まず最初に浮かんだのはストレスを理由に仕事を辞めた後輩の顔だった。

「もう僕無理っぽいです。」
白い息を吐きながら冗談のように笑う彼の言葉が冗談でないことぐらい疎い私にもすぐにわかった。それが彼なりの必死のSOSだったことも。だけど私には向き合う余裕も、また優しさもなく、その振り絞るかのようなサインをなかったことにして笑った。なんと答えたかも覚えていない。
その後彼が亡くなったらしいと耳にした。やけに強調された「事故で」という言葉が不自然に社内を巡回していた。


衝撃が消えて、あたりが静かになる。
息苦しさに耐えきれず口を開く。冬特有の枯れ葉や湿った土の匂いを含んだ空気が身体に力なく入ってくる。


次に浮かんだのは去年別れた恋人の顔だった。
とても優しい人だった。そして、本気で私を愛してくれているのがよくわかっていた。私はそんな彼を愛し、そして生涯大切にするべきだった。そうあるべきなのはわかっていた。
しかし、付き合い始めて2年たった凍えるような朝、突然「欲望」としか表現できない感情が私の中でむくっと芽をだした。私は、私を信じきった彼の、私に裏切られた時の顔が見たくなったのだ、どうしようもなく。
そんな欲望はさらに3年かけてより膨らんだ。
愛はいつか風化する。だけどそれが傷になった場合、もっと長く彼の中に残れるんじゃないか。いつか誰もが私を忘れる日が来ても、彼はふとしたとき思い出してくれるんじゃないか。
誤った理屈なことはわかっていた。でも、止めることのできない衝動だった。
付き合って5年目、雪の降る夜、私は彼を深く、深く、念入りに、傷付けた。
何の戸惑いもなくやり遂げた自分が、私が管理していたはずの身体から随分遠いところに行ってしまったようで、寂しくて、少しだけ涙がでた。


冷えきっていたはずの身体が少し温かくなる。太陽が照ってきたのだろうか、空を見上げようとするが愛想のないコンクリートの地面しか見えない。
誰かが遠慮がちに私に触れる。


私の頭には次々と泣きそうな、すがるような目をした人たちの顔が写し出される。私が傷付け、追い込み、救わなかった人。私をしっかりと覚えているであろう人。
それを望んでいたはずなのに、いつしか怖くなっていた。
だから必死に前だけ見て走っていた。
だけどついに追い付かれてしまったのだ。
皮肉にもこんなにも寒い、大嫌いで、そして抱き締めたくなるぐらいたまらなく好きな冬の朝に。

もう温かさも冷たさも感じない。
こんなにほっとした気分で消えていくなら、もっと真剣に誰かと向き合えば良かった。愛せば良かった、「死にたくない」と足掻けるぐらい、人を愛せば良かった。

身体にまとわりつく優しい怨念たちにむけ、血だまりの中で私はくすっと力なく笑う。

えっちゃん

えっちゃんは昔からとても好奇心旺盛で勉強熱心な女の子だった。興味を惹かれることがあると徹底的に調べ、学び、そして自分なりの仮説を立て、試し、また学ぶ。そして一度覚えたことを忘れることがなかった。
幼少期からその特性を発芽させたえっちゃんは3歳の時には世界地図の196ヵ国の国名と位置と国旗を完全に覚えていたし、5歳の頃には常用漢字の成り立ちまで把握し、小学校に入学する頃にはモーツァルトを熱心に聴いて自分でも弾いた。低学年では植物に関心を持って様々な花をいかに美しく咲かせるかに熱中し、高学年になる頃には遺伝子組み換えについての難しい本まで読むようになっていた。

えっちゃんの両親は小さいけれども歴史のある和菓子屋を経営していた。お父さんは高校を卒業後すぐに店を継ぎ、お母さんは短大を中退してえっちゃんを生み、和菓子屋に嫁いだ。
勉強や学歴と縁のない人生を歩んできたえっちゃんの両親は大変喜んだ。
「恵理子は神童だ!」「この子は何にだってなれる!」

えっちゃんの両親は、決して余裕があるとは言えない家計をなんとかやりくりし、えっちゃんが興味を持つものはできる限り与え、えっちゃんの希望することは何でもやらせた。

えっちゃんは高校に入るまで一人も友達ができなかった。同じ年の女の子も男の子もえっちゃんの話す内容の10分の1も理解できなかったのだ。だからえっちゃんがいじめられるようになったのは当然のことだったのかもしれない。
だけどえっちゃんは全く気にも留めず、中学の頃はシェイクスピアにどっぷり浸っていた。

えっちゃんは両親の期待とは裏腹に、偏差値がとても高いとは言えない地元の公立高校に進学した。えっちゃんはとても賢く、膨大な知識を持っていたが、如何せん興味が受験勉強に向かなかったのだ。いくら数学の難しい定理を理解していても鎌倉幕府を誰が起こしたのかを知らないと合格点には達しないし、いくらシェイクスピアを制覇していても高校受験にそれらの知識は求められない。
と、いうことでえっちゃんはその小さな頭に詰まった知識量には全く見合わない高校に、その偏差値にぴったりな頭を持つ私と共に入学したわけだ。

「好き勝手生きてきてさ、これからもこの調子でいくぞーって思ってたんだけどさ、私聞いちゃったんだよね。」
高校2年生の夏。えっちゃんは突然進学のための勉強を始めた。私は頭こそ良くなかったが勉強は好きで、殆どの生徒が授業中喋ったり居眠りをするなか真面目に授業を聞いているかなり珍しい生徒だった。えっちゃんはそんな私に声をかけ、中学時代にこなしておくべきだった学習内容を教えてほしいと頼んだ。
私が中学三年間分の各教科の教科書をパラパラ捲りながら説明すると、えっちゃんは一週間で完璧にそれらを理解した。私の役目が完全になくなってからもえっちゃんは私に話しかけ、自分のことも話してくれるようになった。

「大学だって今まで行かなくていいだろうって思ってたんだ。勉強も研究も一人でもできるし」
放課後、西陽の差し込む窓側の席に長い足を組みながら座るえっちゃんは続ける。
「でもオバァがさ、母さんに言うのを聞いちゃったんだ。」
えっちゃんのおばあさんは、才能を学校の勉強に向けず、かといって店を継ぐ気も見せないえっちゃんを良くは思っていなかった。
そして、「あんたが好き勝手させたせいで恵理子はどうしようもない馬鹿に育ってしまった。」と、えっちゃんのお母さんに当たったそうだ。
お母さんが大好きだったえっちゃんはそのワンシーンを目にして酷く心を痛めた。そしてお母さんの名誉挽回のため、とりあえず日本一の大学受験を決めたらしい。

実際にえっちゃんの成績はぐんぐん伸び、私たちの学校では全く手に負えない学力に一人で到達していった。高校3年生の夏にはえっちゃんは大学生になる準備だと言って化粧を覚え、私ですらドキッとするぐらい美人になった。
そうなると今までえっちゃんを変わり者だと邪険にしていたクラスメイトたちの態度も変わった。女子は将来の東大生と繋がりを持とうと必死に取り入ろうとし、男子は知的美人をモノにしたいと必死に口説いた。
だけどえっちゃんはすべてを無視し、相変わらず私とだけ会話をした。

高校を卒業して、えっちゃんが無事東大に合格したと連絡を受けた私は卒業式以来初めてえっちゃんと会った。私は地元の短大に残ることが決まっていたし、これから東京で華やかな大学生活を送るえっちゃんと会うのはこれが最後だと私は理解していた。
だからこそ、ずっと留めていた私なりの仮説を確かめてみたくなってえっちゃんに質問をした。
「え?なんで私があんたと友達でいたかって?」えっちゃんは心底つまらない質問を聞いたかのような顔をした。
「人の程度に合わせてコミュニケーションを取る練習だよ。これから上手く生きていくには社交性も大事だから。私、上手くあんたと話せてたでしょ?相手のレベルに合わせて話を砕いて話すの、だんだんわかってきた。まぁ大勢を相手にするのはしんどかったから、あんたは特別。」
えっちゃんはとても綺麗に笑った。
私も思わず笑った。えっちゃんの答えは想像通りだったし、えっちゃんはとても正直だった。
それでいいのだ。
利用されていたとしても、えっちゃんと話していた時間はとても楽しかったし、一方的であったとしてもえっちゃんと友達でいれる自分に自信を持てた。
それでいいのだ。
えっちゃんの輝かしい人生には、どう考えても私は必要なかった。
それがいいのだ。

私たちは他愛もない話を少しして、「じゃぁ」と手を振って別れた。
強がりではなく、とても満ち足りた気分だった。
クラスの子達のように、卒業アルバムに寄せ書きをして、写真を沢山撮って、別れを惜しんで大好きだと抱き合う友達はできなかった。だけど、自分にも他人にも嘘偽りなく真っ直ぐ生きている人が傍にいた。それだけで私の高校生活は充分幸せだった。

意気揚々と角を曲がろうとした時、えっちゃんが私の名前を後ろから呼んだ。私はそれだけで嬉しくって振り替える。
えっちゃんは私たちが別れた場所から一歩も動いてなかった。
「私、声かけたのがあんたで良かったよ。毎日楽しかった。あんた聞き上手だしさ、つまんない短大行ってつまんない就職するより、それ活かしたら。きっと救われる人いるよ。」
えっちゃんはそこまで一気に言って、そして、小さい声で、耳の良いことが自慢の私がやっと聞き取れるようなボリュームの声で「私みたいに」と続けて、少し恥ずかしそうに笑った。
私も笑った。そして大きく手を振った。

賢くて、正直で、冷たくて優しいえっちゃんのこれからを応援する応援団のように、いつまでも大きく大きく手を振った。

うざい女

「私ってさ、サバサバしてるじゃん?だから女々しい男ばっか寄ってきてさ、正直恋どころじゃないんだよねぇ。」
今日も亜莉沙は汚い肌にありったけの白い粉を塗りたくり、目の周りを可愛くないパンダみたいにして、普通に不細工な顔でギャンギャン吠えている。

木曜日2限の講義室。日当たりが良くて人の少ない私のお気に入りの席。そこに一人で座って授業を受けるのが居心地良くてとても好きだった。しかし、平和なんていつでもあっさり崩れるものだ。
ある日、何の前触れもなく私の隣の席に腰をおろしたこの女は、毎週毎週当たり前のように現れるようになり、講義中延々とくだらない話を一人で進めていくようになったのだ。同じ学部で、顔を見たことがある程度の、知り合いとも呼べない亜莉沙の突然の登場に、初回2回は「へー」とか「ふーん」と相槌こそ打っていたが、3回目からはうざったくなり、完全に無視するようになった。それでも亜莉沙は私の態度などお構い無く甲高い声でぺちゃくちゃ喋り続け、4回目には私のことをかなり気安く「優子」と名前で呼ぶようになった。

サバンナの餓えたヌーの群れかのような強引な距離の詰め方に、対人ストレスの免疫がない私は多大なショックを受け、お気に入りの席とかもう言ってられないぞと、5回目の講義では両隣に人が座っているような、かなり混んでいる講義室の後方に移動した。こちらもわいわいと私語を慎む気のない学生ばかりで煩かったが、背に腹は変えられぬ。私に向かって容赦なく発信され続けるあのうざすぎる女の話を聞き続けるよりは、こちらの方がよっぽど精神衛生上良い。私はがやがやと騒がしい席でほっと胸を撫で下ろした。
しかし、こんなことで安心していた私はあまかった。
講義開始とともに講義室に入ってきた亜莉沙はいつもの場所が空席なのを確認するとキョロキョロと辺りを見渡し始めた。
「私を探している!」と気付いた時にはもう遅く、ばっちり目があった亜莉沙はぞっとするような満面の笑みでこちらに近付いて大きな声で私の名前を呼んだ。
「なんで優子、そんな窮屈なとこにいるの?ウケる。」
私は知らないふりをしようと努めたが、確実にこのブスは私に話しかけており、気を利かせた私の隣に座る青年は黙って位置をずらし、亜莉沙の席をあけた。亜莉沙は、さもそれが当たり前かのように礼も言わず、ずかずかと私の隣に落ち着いた。平穏だと思っていた空間は、一気に濃すぎる柑橘の香水の匂いに支配される。私は亜莉沙とは目を合わせず静かに頭を抱えた。そして彼女は堂々と机の上に化粧道具を広げ、手鏡に醜い顔を写しながら、聞かれてもいない今夜の合コンの話を始めた。

…今日は医大生との合コンなの。でも医者ってイケメンいなさそうよね。正直気は進まないんだけど友達がどうしてもって。別に彼氏今募集してないんだけどね…。

「ねぇ、優子は彼氏いるんだっけ?」と亜莉沙は突然こちらに顔を向ける。彼女が口から飛ばした唾液が私のノートにぺしゃりと飛ぶ。私はその不愉快さと怒りに、完全に硬直してしまう。
思ったことをきちんと言えない性格にプラスして、対人との衝突を徹底的に避けてきたという私の歴史が、この怪物のような太い神経を持つ女を野放しにしている。これじゃいけない。しかし、成すべき術がわからない。
私が亜莉沙の質問に何も答えられないでいると、亜莉沙はあからさまに嬉しそうな表情を浮かべた。
「あ、もう、ごめんー!聞かれたくないこと聞いちゃったか。まぁ大丈夫よ、彼氏なんていたから何?って感じじゃん?」
神様助けてください。この女をどこかにやってください。助けてください助けてください。
祈り続ける私にお構い無く講義はきっちり90分続いた。そして亜莉沙の過去の恋愛話もきっちり90分続いた。

教授が講義終了を告げた瞬間、まだどの学生も立ち上がりすらしていない間に私は逃げるように講義室を出た。後ろから亜莉沙の声がしたが勿論無視して、途中から走って食堂に向かった。一刻も早くあの化け物から距離をとりたかった。

2限終了後すぐということもあり、食堂はまだ空いていた。軽く息を切らしながら奥へ進むと既に席を取ってくれていた希美が小さく手を挙げてくれる。
「優子ちゃん、お疲れ様。なんで息切らしてるの?そんなにお腹すいたの?」
のほほんと微笑む希美の笑顔を見ると、さっきまでの地獄が嘘だったかのように薄れていった。彼女の前の席に座りながら私は今度こそほっと胸を撫で下ろした。

具の少ないチャーハンを食べながら、私はついさっきまで味わっていた苦痛な時間についてを希美に延々と語った。希美は私の話をうんうんと聞きながらオムライスを丁寧に口に運び、「優子ちゃんはその名の通り優しい子だからね、 皆話かけたくなっちゃうんだよ。」と楽しそうに笑った。
そんな心優しい友人の笑顔によって、亜莉沙に対する憤慨が少し弛んだその時、私の隣の席に突然誰かがどすん腰を降ろした。さっきまで嫌と言うほど嗅いでいた香水の香りが私に変な汗をかかせる。できることならもう二度と嗅ぎたくない匂いだ。私はまたもや自分のささやかな平穏が壊されるのだと悟った。
「もう、優子。今日は一緒にランチしようって誘ってたのにさっさと行っちゃうんだから。探すのに苦労したっつーの。」
私は隣の声の主には決して顔を向けず、スプーンを口に入れたまま正面の希美の綺麗な顔を凝視した。希美は突然出現した謎のブスと私を交互に見ながら目をぱちぱちさせている。
「えっと…亜莉沙ちゃん…かな?初めまして…」
私が浮かべている苦痛の表情を察した希美は、亜莉沙に向かって遠慮がちに話しかけた。亜莉沙は希美に一瞬目をやると、完全に無視を決め込んで自分の鞄から馬鹿みたいに派手なピンク色の弁当箱を取り出し、食べ始めた。希美は投げ掛けた言葉の行き先を探すかのように、またぱちぱちと瞬きを繰り返している。そんな希美と目を合わすこともなく、亜莉沙はべちゃべちゃ不愉快な音を立てながらやけにカラフルな弁当を食べ進め、講義中に語っていた話の続きを私だけに向かって発信し始めた。
希美はいつもなら決して見せないようなひきつった苦笑いを浮かべながら黙々とオムライスを食べきり、私はチャーハンを半分以上残した。

これから買い物についてきてくれないかと懇願する亜莉沙を、これ以上ないというぐらいの冷たい態度で拒絶してから私は希美を連れて食堂を出た。
「優子ちゃんが話してた通り不思議な子だね」と困ったように笑う希美に何度も謝ってから別れ、私は一人重い気持ちのまま次の講義室に移動した。

亜莉沙の声や香水の匂い、話し方や態度を思い出すだけで私は頭が熱くなり、怒りがふつふつ沸いた。あのうざい女に対するストレスはピークに達していた。そんな、決して精神的に良くないタイミングを見計らったかのように講義室に5,6人の女子学生の集団が入ってくる。まだお昼休み中で、講義室にいる学生は少ない。
キャハハハと手を叩きながらけたましい笑い声をあげている集団は一度私の前の席を通りすぎた後、こちらを振り返り、「やっぱあの子だよ」とニヤニヤ言いながら私の前に戻ってきた。
今度はなんなんだ、もう私に構わないでくれ。私はそう心の中で悲鳴をあげながら、「ねぇ」と呼び掛けてきた金髪の女の顔を見上げる。
「ねぇ、あんた渡部亜莉沙と友達なの?いっつも授業一緒にうけてるよね?」
金髪女は明らかに気の強さが伝わってくるような太い声で言う。同じような服装に同じような化粧を施した残りの女たちは、ただケタケタと馬鹿みたいに笑っている。私は無言でただ相手を見つめる。
「まぁわかってるよ、まとわりつかれてるんでしょ?あいつ、まじうざくない?多分頭おかしいんだよね。」
金髪女の言葉に周りの笑い声が大きくなった。
本当になんて日なんだろう。私が何をしたって言うんだろう。静かに授業を受けられれば私は幸せなのに、謎のうざい女に付きまとわれ、恐らくそれが原因で知らない女たちに酷く絡まれている。軽く悲劇だ。ストレスが膨らむ。頭が痛くなる。イライラする。うざい。うざい。金髪女の話は続く。

…あいつ、今日めっちゃ化粧濃かったくない?合コンの話してた?
…あれ私らが誘ったんだけど、嘘なんだよねぇ
…あんなブス誘うわけないじゃんねぇ
…あいつがめっちゃ張り切って集合場所で待ってるとこ想像するだけでウケるー

こいつらは自分たちが亜莉沙より"上"だと示そうとしている。誰に示そうとしているんだろう。私に?亜莉沙に?いや、自分たち自身にか。
人を馬鹿にして、笑って、心底安心している。自分たちはあんなに醜くない。自分たちはあんなにうざくない。他人を使ってそう確かめている。
あぁ、こいつらも、なんて…

「うざい…」

私を置いてぎゃぁぎゃぁと盛り上がる彼女たちの言葉を遮るように私は呟く。今まで笑っていた表情を残して、同じような顔をした女たちは私に目を向ける。朝から蓄積され続けている私の苛立ちは止まらない。
「うるさいんだよ。嫌ならほっときなよ。あんたたちがやってることが飛びっきりうざいんだよ。卑怯で汚いんだよ。そんな自分たちの愚かさ加減を堂々と主張してこないで。」
空気がピンと張りつめるのがわかった。
私の言葉に金髪の顔が赤く歪む。これでもかってぐらい彼女たちは私を睨み付け、とても冷たい声で言う。
「あんただって亜莉沙のことうざいと思ってたくせに。偽善者ぶっちゃって、うざ。」
さっきまでの騒がしさが嘘のように、女子たちの塊は私を置いて講義室の奥へと移っていった。

私にはこのまま彼女たちと同じ講義室で授業をうける逞しさなどなく、今日の授業はさぼることにした。
言いたいことをはっきり言ったはずなのに気分は重い。理由はなんとなくわかる。そうだ、私は彼女たちから向けられた「うざい」という言葉に少なからずショックを受けているのだ。
とても曖昧な言葉だ。曖昧な分、その言葉は頭のなかでわんわんこだまする。結局私も亜莉沙や、亜莉沙を笑うあの子達を馬鹿にすることで優越感に浸っていたのだろうか。そう思うと急にやるせない気持ちになった。亜莉沙も、あの金髪たちも、そして自分も消えればいいと思った。

講義室のある棟から外に出るとひんやり冷たい風が頬をさする。少し歩くと図書館前のベンチに見慣れた姿があった。今最も見たくない顔と言っても過言ではない亜莉沙の姿だった。
亜莉沙は私に気付くと大きく手を振って笑った。
「優子、授業さぼってんのかよー。私はさっきバス逃しちゃったから暇潰し中!」
あると信じて疑わない合コンのせいか、やけに機嫌が良いその弾む声に私は苛立つ。
「ねぇ、あんた、なんで私に話しかけてきたの?なんで授業中私の横に座るの?別に知り合いでもなんでもないじゃん。」
私が突然投げた刺だらけの言葉に亜莉沙は一瞬きょとんとする。しかし、傷ついた顔も不愉快な様子も見せず、少し照れたように、「だって、優子だしさ。優しい子なんだろうなって。」と笑う亜莉沙に私は肩の力が抜けた。それが本当だとしたら何て損な名前なんだろう。そして、優しさとは全く逆の濁った感情ばかり持つ私がその名前を名乗るのは、なんて気が重いんだろう。
「あ、ご飯の時の優子の友達、ごめんね。私人見知りじゃん?しかもめっちゃ可愛い子だったからなんか対抗心沸いちゃってさぁ。今思ったら私も大人げなかったなぁって超反省してた。謝っといて?」
私はその時初めて亜莉沙の、本当に申し訳なさそうな、しょげた顔を見た。その軽い話し方とは裏腹に、本当に反省しているということが伝わって、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ鬱蒼としていた気分が和らいだ。
私は「あぁ」だか「うん」だか適当に相槌を打って亜莉沙に背を向ける。
数歩進んだところで少し迷って振り返る。
「あのさ、今日の合コン中止になったらしいよ。さっきあんたの金髪の友達があんたに伝えといてって言ってた。」
亜莉沙は「え、そうなの?」と明らかに残念そうな顔をする。
「まぁ、じゃぁ伝えたから。」私は何か言いたげな亜莉沙を残して大学を後にした。

いまがそのとき

「どうしてまだ聴いてないの、チャーリー・パーカー!せっかく勧めてあげたのに!」
ストローをくわえてジンジャエールに息をぷくぷく吐き出しながら僕を睨む恭子を「行儀が悪い」と咎め、僕は自分が頼んだアイスコーヒーに口をつける。
それはカランという氷の音が心地よく響く晴れた日の午後で、僕と恭子は午後一の講義を抜け出し、味はお世辞にも良くないが値段と雰囲気の良い大学横の喫茶店でいつものように暇を持て余していた。

「淳くんがお薦めの曲はないかって言うから教えてあげたのに、1カ月たってもまだ聴いてないなんてあんまりだ。」
恭子はストローから口を離し、拗ねたように片手で頬杖をしてそっぽを向く。
「聴こうとはしたよ。ただ、アルバムが多すぎて何を聴けばいいかわからなかったんだ。」
嘘ではない。先週借りっぱなしだったDVDをTSUTAYAに返すついでにそのアーティストの棚に行ってはみた。テキトーに借りてみようかとも思ったが、DVDの延滞料金に寂しくなった財布を気遣い、その棚を素通りしたことを恭子に言う義務はない。

「じゃぁ、NOW'S THE TIME!この曲、
私のお気に入りだから聴いて」
「今は時間です?」
「今がその時」
「良いタイトルだね」
「思ってないでしょ」
恭子は呆れたように笑って残りのジンジャエールを飲み干す。
その細い腕につけられた腕時計は3限の終了時刻を指していた。僕には次の授業を知らせる時間で、恭子にはバイトの始まりを告げる時間だ。
喫茶店を出てからまた来週のこの時間まで、僕が干渉できない彼女の毎日が始まろうとしている。

「そうだ、お母さんが最近淳くんが家に遊びに来ないって寂しがってたよ。」
財布からジンジャエールの300円をきっちり出しながら恭子が言う。
「恭子が夜バイトばっかなんじゃん。」
僕も300円を財布から探しながら答える。
「別に私がいなくても来たらいいじゃん。ご近所さんで幼馴染みなんだし。」
僕の300円と伝票を手に取り、立ち上がってからお馴染みの彼女は「それに、」と続けた。
「私、来月から留学行くんだ。とりあえず1年間。お母さん、寂しがるから、淳くん遊びに行ってあげてね。」

僕らはいつも通り、喫茶店の前で別れた。いつもなら大学に戻る僕はしばらく喫茶店の前で立ちすくんだ後、大学に戻る気にもなれず一人電車に乗って家に帰った。

留学なんて全く知らなかった。
僕は混乱して、呆然としている自分を恭子に悟られないよう装うのに必死だった。

恭子は昔から弱虫で、泣き虫で、何も自分では決められない、音楽が好きなだけの女の子だった。いじめっ子から恭子を守るのは僕の役目だと思ってきたし、僕が志望する高校や大学に恭子がくっついてくるのもごく自然だと思っていた。
僕らの間には「付き合う」だとか「好き」だとか、そんな言葉は一切なかったけれど、恭子が自分から勝手に離れることはないだろうと、愚かにも僕は信じきっていた。
しかし、彼女はいつの間にか自分で自分の道を決め、そして着実に歩き出そうとしている。
置いていかれるような、裏切られたような、寂しいような、腹立たしいような、悲しいような、切ないような、なんと呼べばいいのかわからない感情がどっと僕を支配する。

今まで味わったことのないそれらの感情と共にベッドに横たわりながら格闘しているうちに僕は眠ってしまっていた。
夢の中では恭子が頬を膨らませて何かを訴えている。
「早く聴いてってばー!絶対淳くんも気に入るよ!」
なんのことだろう。僕は夢の中で考える。
あぁ、彼女のお気に入りの…外国人の…何て言ったか、チャーリーなんとかの曲のことか。
そいつの何を聴けばいいんだっけ、なんか英語のタイトルの…
僕ははっと目覚める。弾けたようにベッドから飛び起き、部屋の隅に落ちてあった鞄から財布を取りだして勢い良く家を出た。

すっかり暗くなった夜の道をできるだけ全速力で走った。
恭子のお気に入りの曲を聴こう、今すぐに。音楽も英語もわからないけど、その1曲だけは真剣に聴いてみよう。家には英語の辞書だってある。歌詞も全部訳して、なんなら覚えて、恭子に「ちゃんと聴いたぞ!」って言ってやろう。

僕はTSUTAYAに飛び入り、恭子が口にしたその曲がそのままアルバムのタイトルになっているCDを手にしてレジに向かう。そして部屋に戻り、息もつかずCDコンボを起動させ、曲を再生した。
殺風景な部屋に歯切れの良いサックスの音が響く。一粒一粒の音が心地よく僕を包み込む。
僕は息を切らしつつもCDコンボの前で正座して目を閉じ、その音に聞き入った。

曲が終わり、ゆっくり目を開けた僕は力なく吹き出す。
借りたばかりのCDジャケットに日本語で書かれてある説明に目を落とす。

チャーリー・パーカーはジャズミュージシャンでアルトサックス奏者…

「歌じゃないのかよ…」
心地よく響き続けるサックスの音にため息をつきながら僕は時計を見る。
22時30分。そろそろ恭子がバイトから帰ってくる時間だ。
僕はご機嫌に流れ続けるアルトサックスの音を停止し、立ち上がった。

恭子に文句を言いに行こう。
音楽素人の僕にジャズミュージックなんて高度なもの勧めてくるなんて。
いつの間にか僕を置いて、僕の知らない世界に黙って進もうとする彼女に、ありったけ文句を言って、そして不甲斐ないこの気持ちを、心の底から好きだということを隠さずに伝えに行こう。
彼女に会いに行こう。
今がその時だ。

雨上がりを待つ間

「最悪死ねばいいんだ。」

今日何度目かわからないその台詞を自分に言い聞かせ、自転車の重いペダルをゆっくり踏みこむ。陽が沈むのと同時にぽつぽつ降りだした雨から逃げるよう、徐々にスピードを上げていく。薄暗くなった道を進めば進むほど私自身が足元の陰に吸い込まれ、自転車と私の形をした”何か”だけが私を置いてどんどん前へ進んでいく、そんな感覚に陥る。

 

一年前に電車の人混みに耐えられなくなって過呼吸を起こした。

そこに見知らぬ多くの人がいて、無数の心臓が動いているのだと思うと吐き気が止まらず、それ以来全く電車には乗れなくなってしまった。

車はおろか、免許も持っていない私は次にタクシー通勤を選んだ。だけど、運転手と狭い密室に閉じ込められることがすぐに辛くなり、もう半年近く自転車での通勤が続いている。

 

何事も段階を踏み、着々と状況や状態は悪くなる。いっそ一思いに堕ちた方が楽なのではないかと毎日のように思う。

いっそ一思いに死ぬことを選べたら。

 

最初の”逃げ道”は「最悪休めばいい。」だった。

必死に勉強してそこそこ名のある大学に入り、必死に就活をしてそこそこ名のある企業に入社した。

そして、いわゆる”パワハラ上司”の下につき、入社して半年たつ頃には毎晩「最悪休めばいい。」と自分に言い聞かし、毎朝重い気持ちをごまかして出社した。

 

次の暗示は「最悪辞めればいい。」だった。

2年目になり、仕事量が山のように増え、休日出勤が当たり前になっていた。どんなに体調が悪くても「体調管理ができていない。」、「自業自得だ。」と一蹴され、休むという選択肢が完全に頭から抜け落ちてしまっていた。毎晩深夜に自宅のトイレで嘔吐しながら「最悪辞めればいい。」と自分に言い聞かし、毎朝重い身体を引きずって出社した。

 

そして今、「最悪死ねばいい。」と繰り返す私は会社をとっくに辞めていた。

身体も心も限界だった。

 

仕事をやめたことは両親にすぐばれた。

プライドが高く、世間体を気にする父と母は酷く私を攻めた。

そして、なかば勘当されたような形で私と両親との縁はあっさり切れた。

 

流れるように人生を踏み違えた私に、なかなか仕事は見つからなかった。

貯金も尽きかけ、投げやりな私が踏み込んだのは夜の仕事だった。

初めはキャバクラ。だけど、お酒は殆ど飲むことができない体質だったことと、人と上手く話すことができなくなっていたこともあって半年とたたずに辞めた。

そして、さらに道を踏み違えていき、流れ着いたのが今の仕事。風俗だった。

 

こうして、私は律儀に段階を踏みながら

今日まで堕ちてきたのだ。

 

 

「ペトリコールっていうんだよ。」

「え?」

私は開け放した窓から目を離し、シャワールームから出てきた上裸の男に視線をやる。45分間抱き合った相手だというのに、その男の顔に全く見覚えはない。最初と最後で男が入れ替わっていてもきっと私は気づけないだろうなとぼんやり思いながら、「なぁに、それ?」と馬鹿みたいな女の声が聞く。

「リサちゃん、さっき雨の匂いがするって言ったでしょ。それ、ペトリコールって名前がついてるんだよ。」

男は得意気に言いながら下着姿の私の横に立ち、その右腕で肩を抱く。そして、しとしとと降っている雨の強さを確かめるように、窓の外に左手を伸ばす。雨は強さを増していた。

 

いわゆる”デリヘル”と呼ばれる私は、基本的に窓なんてないラブホテルに呼び出されることが殆どで、今日みたいに小綺麗なビジネスホテルで迎えてくれるのは最近よく私を指名するこの男だけだった。男の顔も名前も覚えられないけれど、呼び出し先がこのビジネスホテルの時は少し心が踊る。狭い部屋でも、たとえ外が雨でも、知らない男に抱かれていても、窓があるだけで自由を手にしている気がするのだ。

男がシャワーを浴びる間、私は毎回窓辺に立ち、窓を開けて外を眺めるようになっていた。

「名前なんてあったんだね、知らなかった。物知りね。」私は男ににこっと笑いかける。

とりあえず、行為後に会話に困った時は男を褒めておけばいい。それは私がこの業界に入ったときに20分程度の短い研修で学んだ数少ないことのうちの1つだった。

男はまた得意気に笑い、窓を閉じた。

閉じられた窓を見つめ、私は息苦しさをぐっとこらえて男に微笑み、肩を抱くその腕からするっと逃れてベッドの周りに散らばった自分の服を拾い集める。キャミソールを手にした私の手首を男がそっと掴む。

「延長、してもいい?」

若いなぁ、と、ただそれだけ思う。改めて男の顔を見ると実際に若々しく、恐らく私より年下であることがわかる。若いわりにはやけに自信に充ちていて、身に付けている服や時計も決して安くはないものばかりだ。

きっと昼間の彼は成功者なのだろう。そんな男が夜な夜な私のような敗者を買う。そこには優越感も劣等感も皮肉も哀れみもない。ただその事実と、尽きない男の性欲があるということ、それだけ。

「もちろん、何時間でも。」

私はプログラムされた笑顔を呈示する。窓のある部屋でいられるだけ幸せなのだ。

男は微笑んで私の背中に手をまわし、ブラを外しながら深く深くキスをした。

 

 

「リサちゃん、俺、もう本当にリナちゃんが好きになってる。」

延長時間が尽きた頃、メイクを直していた私を後ろから抱き締めながら男が甘い声で囁く。

「本当に本当に愛しているんだ。もう他の誰にも抱かれてほしくない。」

彼は私に名前と携帯番号を書いたメモを握らせた。

「僕は君の全てを受け入れるよ。」

 

 

0時を過ぎた頃、事務所に戻ると佐久間くんがスマホをいじりながら「リサさん、おかえりなさーい。」と気の抜けた声で出迎えてくれる。

このデリヘル専門店は小綺麗なビルの1室を事務所として使っており、ここで女の子たちはテレビを見たりスマホで遊んだりしながら客からの呼び出しを待つ。佐久間くんはアルバイトの電話番兼用心棒で、可愛らしい顔とは裏腹に格闘技に長けていてとても強い、らしい。

「雨まだ降ってます?」

スマホを片手にしたままぼんやり訊ねる佐久間くんに「降ってるよ。」と返しながら、私は女の子の控え室である奥の部屋へ入る。

 

女の子たちは皆出払っていて、部屋には誰もいなかった。つけっぱなしにされているテレビは、一目でくだらないとわかるバラエティ番組を垂れ流す。私はテレビの前にある大きなソファーに座り、ポケットから紙切れを取り出す。

携帯番号と名前が書かれたただの紙切れ。客からそういったものを渡されることは日常茶飯事で、いつも迷わず事務所のゴミ箱に捨てていた。

私はぼんやり紙切れを眺める。

そして、この紙切れを捨てることに少し迷っている自分に気付く。

窓のある部屋を与えてくれる人。「全てを受け入れる」と言った、私を救ってくれるかもしれない人。

 

「今夜ご紹介するのは人気沸騰中のペトリコール!」

 

つけっぱなしのテレビから流れた言葉にはっとする。

ペトリコール。なんだっけ。どこかで聞いた気がする言葉。私は思わず紙切れを握りしめ、テレビ画面を見つめる。

その番組は東京のおすすめスイーツを紹介するものらしく、栗色の明るい髪をポニーテールにした見たことのない若い女がペトリコールという店の大きなシュークリームを頬張りながら、くだらない感想を述べている。

 

「食べるとたちまち幸せになれると評判のペトリコールのシュークリーム!あなたも幸せになりませんか?」

 

幸せになりませんか?

なれるものならなりたかったけど。

私は鼻で笑ってテレビを消す。静まり返った部屋に、まるでそのタイミングを待っていたかのように玄関を開ける音と、「ナナさん、どうしたの?!」という佐久間くんの困った声と、佐久間くんが立ち上がった際に倒れたのであろう椅子が床に打ち付けられる安っぽい音が連続して聞こえてくる。

「うっさい!ほっといて!」

顔を見なくても泣いているとわかるような声で小さく叫びながら彼女は乱暴に私がいる部屋の扉を開ける。

目が合う。

「うぅー、真規子ー!」

傘をささなかったのか、長い髪をびしょびしょにして、涙で顔をぐちゃぐちゃにした女が私の隣にへなへなと座り込む。

「美波、どうしたの。」

私が唯一この店で本名を知っている人。

そして、唯一私の本名を知る人。

美波は私の声なんて聞こえてないように、薄いピンク色をしたハンカチで顔を被いながら泣き続ける。

「ナナさん、あの男にふられちゃったんでしょ。だからあいつ他の嬢をとっかえひっかえして遊んでるって言ったじゃない。」佐久間くんは心配そうに美波の肩にタオルをかけた。

「うるさい!うるさい!佐久間は出てって!」美波はハンカチで顔を隠したまま足をばたつかせ、鼻声で訴える。佐久間くんは困ったように私をみて、「リサさん、頼んます。」と金髪の頭を下げて部屋を出る。

「今度こそ本当に愛してくれてると思ったんだもん!一緒に住もうって言ってくれてたんだもん!」

美波は出ていく佐久間くんに見向きもせず泣き叫ぶ。髪と、大きな瞳からとめどなくぽたぽた落ちる滴がソファーにゆっくり染みをつくっていく。

こうやって男に裏切られた彼女を見るのは何度目だろう。

「だから客はやめときなって。」

私は佐久間くんが美波の肩にかけたタオルで彼女の茶色い綺麗な髪を拭く。美波が鼻をすする度に、彼女の耳からぶら下がったハート型のピアスがゆらゆら揺れる。

「デートだっていっぱいしたもん。すごい優しかったもん。」

「全部セックス付きでしょ。」

美波は黙りこくる。そして、高いしゃっくりをしながら嗚咽を漏らした。

「安いデート代だけでお気に入りの風俗嬢と好きなだけやれるんだからいくらでも男は優しくするよ。ましてや言葉なんてタダだから。愛してるなんていくらでも言うよ。」

ハンカチの下でちらりと見える彼女の歯が下唇を噛む。

「そんで、飽きたら捨てるよ。」

「うるさい!!」

美波が投げつけたハンカチは私に微塵もダメージを与えることなく、力なく足元に落ちた。美波は涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡れた顔をもう隠さない。

「そんなのわかってるけど!でも夢見たっていいじゃない!信じたっていいじゃない!私にだって愛される権利はあるでしょう?!」

…愛してくれたっていいじゃない。目一杯喚いた後、力なく付け足されたようなその言葉が行き場もなく宙にふわっと浮かぶ。

「こんな私でも全てを受け入れてくれるって言ってくれたのに。愛してるって何度も言ってくれたのに。アキヒサさん、アキヒサさん。」

美波は泣きじゃくりながら何度も男の名を呼んだ。

 

“アキヒサさん。”

その名前を聞きながら、さっきテレビで聞いた言葉の意味を思い出す。ペトリコール。雨の匂い。

私は左手に握ったままだった紙切れをそっと開く。

さっきまで私を抱いていた男の携帯番号と、丁寧にフリガナの打たれた名前。

【東山彰久(ひがしやま あきひさ)】

ふと、笑いがこみあげた。私はその紙切れを丸めてソファーの横に置いてあるゴミ箱に捨てる。自分の惨めさや浅はかな希望ごと美波から隠すように。

「美波。とりあえずは、私がいるよ。」

私は顔を手で被いながら泣き続ける愚かな女をそっと抱き締める。こんな生き方しかできないのに、愛されることを望んで何度も傷付く彼女はきっととんでもなく馬鹿で、間抜けで、純粋だった。そして、残念ながらそれはきっと私も同じだ。

「真規子、真規子。」美波は私にしがみつくように泣いた。

真っ直ぐ、正しく生きられる女の子であるように。父がつけてくれた名前だった。 もう美波しか呼ぶ人のいない私の名前。 私の人生の真逆を指す名前。

「どうして私、こんなんになっちゃったんだろう。」それは私の声か、美波の声か。どうして私たちはこうなっちゃったんだろう。いつだって頑張ってきたつもりだったのに。

「最悪死ねばいいんだよ。」

私は目を閉じて無意識に呟く。毎日毎日真っ暗な中で、私を生かし続けた言葉。解放されないしがらみなんてこの世にはきっと何もない。最悪死ねばいいんだから。

 

「いやだ。」

私は目を開く。ほんの少しの間だけ目を閉じていたはずなのに、長い長い夜から目覚めた後のような感覚に陥る。

美波が泣き腫らした顔をあげ、大きな瞳で私を見つめている。今の今まで泣きじゃくっていたとは思えない、意志の宿った声に私はどきりとする。

「辛いときに死んじゃ駄目だよ。」

私を見つめる美波の瞳からはまだ涙がぼろぽろと流れている。しゃっくりを押し殺しながら彼女は続ける。

「今が最悪なの。これ以上酷いことなんてなにもない。私はこれから幸せになるの。だから辛い思いだけ味わって死ぬなんて嫌。」

美波は涙声で、それでも一言一言はっきりと続ける。

「私が死ぬときは『最高だった!』って言いながら死ぬんだから。」

その言葉は私にではなく、彼女自身に言い聞かせているようだった。

「私は愛されることを諦めない。」

きっとそれが彼女を生かす言葉なのだろう。

「真規子だってそうでしょう?」

涙を拭いながら私を見つめる美波の頭をそっと撫でる。少し乾いた髪から、ふわりと薫る花のような匂いがする。耳についたピアスが微かに揺れる。

「そうだね。だんだん、だんだん、またここからのぼっていける。」

そうだったらいいな、という気持ちで、私は美波に笑いかける。

「一思いに幸せの絶頂に昇らせてくれればいいけどね。」

美波は涙の筋がくっきり残る顔をくしゃっとさせて、拗ねたように笑う。

「そうそう、幸せってのは、ある日ぽっと訪れるんですよー。」

「え!佐久間くん!」

「びっくりした!急に出てきやがった!」

部屋の扉を開けて急に口を挟んできた佐久間くんに美波と私は驚きながら、また笑う。

「何、佐久間。聞いてたの?きっも。」

「顔、ぐちゃぐちゃですよ。”美波さん”。」佐久間くんは少し皺のある青いハンカチを美波に渡しながら微笑む。

「急に本名で呼ぶなよ、きっも。」

悪態をつきながら佐久間くんからハンカチを受け取り、遠慮なく鼻をかむ美波に私はまた少し笑ってしまう。

「いやぁ、もう暗い話が続くから俺出てきづらくて。」

佐久間くんはへらへら笑いながらそっと持っていた紙袋をテーブルの上に置いた。

「もう今日それ食べて帰っちゃっていいですよ。まぁアルバイトの俺にそんな権限ないっすけど、てきとーに誤魔化せるんで。」

「え、これ今超人気のシュークリームじゃん!なんで?佐久間並んだの?!」

美波の言葉で、佐久間くんがテーブルに置いた紙袋がついさっきテレビに写っていた店のものだと気付く。

「美波さん、この前雑誌見てこれ食べたいって言ってたじゃないすか。」

佐久間くんは少し照れたように笑う。

「雨の匂いは降り始めより、止んだ後の方が強いんですよ。」

「なにそれ。」

「ペトリコールって店名。雨上がりの匂いって意味を込めてるんですって。で、雨上がりに食べる幸せのシュークリーム。」

彼はおどけたように続ける。

「良いこと言ってるふうだけど全然意味わかんないし。」

「雨まだ降ってるし。」

からかうように意地悪く笑う私と美波に佐久間くんはひどいなぁー、と苦笑いする。

「まぁ、なんせそれでお二人が幸せになれんなら、俺は何時間でも並べますよってことっす。」

彼はそれだけ早口で言うとひらひら手を振りながら部屋を出ていった。

美波は佐久間くんが出ていったドアをぽかんと見つめていたが、ふっと微笑んで紙袋からシュークリームの箱を取り出した。

「こんなんで幸せになれるかっつーの。ねぇ!はい、真規子も食え食え。」

怒った素振りで箱を開ける美波の瞳からもう雫は落ちてこない。

「幸せは思わぬところからきたね。」

私は遠慮なく箱の中から綺麗な小麦色のシュークリームを取り出しながら呟く。

「だから!こんなんで幸せになれるかっての!」声をあらげながら美波はシュークリームを頬張る。

「でもさ」

美波は頬張ったせいで口のまわりについたクリームを指先で拭いながらぽつりと呟くように続ける。

「こんなシュークリームごときでさ、ちょっと絶望が和らいじゃうぐらい単純なんだからさ、あと半年もしたら私、超ハッピーになってるかもだよね。」

「シュークリームと佐久間くんの優しさでね。」私はからかうように笑う。

「シュークリームと愛しの真規子のおかげでね!」

調子良いなぁと私はまた笑いながらシュークリームをかじる。

甘い甘い味がする。

二人がシュークリームを食べ終わる頃には、雨が止んでいればいい。