50音ショートショート

50音分のタイトルで短編を書き終えれたら、関係ないけどとりあえず仕事やめようと思う(-A-)

【クレしん】15年後の春我部防衛隊2

しんのすけ、なのか?」
僕は、焼き芋を差し出す背の高い男を見上げながら、息を漏らすように尋ねる。
その男の顔は、僕の記憶にある5歳の頃のしんのすけとは全く別人のようにも見えたが、太めの眉やぱっちりした目にはどことなく昔の面影を感じさせた。
「し、しんのすけだよな!僕、覚えてるか?風間だよ、幼稚園同じだった風間トオル!」
思わず立ち上がる。久々に自分の大きな声を聞き、僕は自分が興奮していることに気付く。
男は一瞬キョトンとした表情をしてから、何かを思い出したように「おぉ」と漏らし、満面の笑みを浮かべる。
「誰かと思ったら大親友の風間くんじゃないか!」
その笑顔だけは15年前から何も変わっていない。僕は懐かしさや嬉しさ、切なさで胸がいっぱいになる。
「何してんの風間くん。もう春我部を捨てたのかと思ってたよ!」
しんのすけがふざけたように笑いながらベンチに腰掛け、焼き芋の皮を剥き始める。
「僕にくれるんじゃないのかよ。」と、独り言のように突っ込みながら、僕もまた彼の隣に腰をおろす。
「たまたまね、気が向いたから帰ってきたんだ。春休みだしね。」
「へぇー。そんで気が向いたから懐かしい公園のベンチで一人泣いてたの?」
しんのすけは半分皮を剥いた焼き芋をほくほくと大きく齧ってから「ほい」と、残りを丸ごと僕にくれた。
「み、見てたのかよ。」僕は焼き芋を受け取る。恥ずかしいのと焼き芋の湯気で顔が一気に熱くなる。
「なんかあったから帰ってきたんじゃないの。」
僕は思わずしんのすけの横顔に目をやる。しんのすけは僕の視線などお構い無しに曇った空を見上げながら、まだ口の中の芋をもぐもぐとしていた。
こいつはそういう奴だった。何も考えてないみたいにへらへらしてるくせに、たまに人の心を見透かしたようなことを言ってくる。
「別に、なんにもないよ…。」
そして、僕はいつも素直になれずにその言葉を誤魔化してきた。
「ふぅん。」
空を眺め続けるしんのすけにつられ、僕も見上げる。3月の空はまだ寒々しく、薄暗く、どんよりとしていたが、所々青空が見え始めていた。
しんのすけは今何してるんだよ。」
僕は明るいトーンを意識して空を見上げたまま尋ねる。
「焼き芋を味わいながら空を見ている。」
「そういうことじゃなくてさ…。」
15年前のようなやりとりに僕は苦笑いをする。
「みんなは、元気?」
「みんなって?」
「ほら、ねねちゃんとか、ぼーちゃんとか、まさおくんとか…」
春我部の〝みんな″の顔と名前を思い浮かべながら、誰一人としてその現状も知らない自分が嫌になる。彼らは今もまだこの町で共に生きているのだろうか。
「んーっとねー、ねねちゃんは毎日歌とか歌っててー、まさおくんは毎日徹夜ばっかしててー、ぼーちゃんは電車乗ってるかな。」
「何だよそれ、さっぱりわかんないよ。」
「風間くんが帰ってこないからでしょー。」
容赦ない言葉に僕は何も返せない。
仕方なく無言で焼き芋をもぐもぐと食べる。少し冷めてパサパサする焼き芋は懐かしい味がして、また鼻の奥がつんとなった。

しんのすけは空を眺め、僕は焼き芋を食べ続ける。

遠くでさっきの子供達がきゃっきゃと騒ぐ声がする。

無言が心地良く感じる不思議な安堵感。こんな感覚、もう何年も持たなかった気がする。


「なんかオラ、忘れてる気がするんだよなー。」
空を眺めたまましんのすけが呟く。
「お前、まだそんな奇抜な一人称なのかよ。」
「オラはオラだぞ。人目ばっか気にするちっさな風間くんと一緒にしないでほしいぞ。」
「すっかり僕を小物扱いだな、お前。」
僕は否定することもできず自嘲気味に笑う。
「それで、何を忘れてるんだよ。」
「なんだったっけかなー。」
「まさか、その忘れてることって、私のことじゃないよね?」
ベンチの後ろからの突然の声に、僕はひゃーっと間抜けな声をだしてしまう。
自分の恥ずかしい反応を打ち消そうと、必死に平静を装いながら振り返ると、そこにはマフラーをぐるぐると巻いた栗色の髪の女の子が眉をひそめて立っていた。
目が大きくて、肌が透き通るように白い、ふわっとした雰囲気の女の子。
僕は思わず見惚れてしまう。
綺麗だ、純粋にそう思った。
「おぉ、まさにそれだ!すっきりすっきり。」
しんのすけは彼女を振り返りながら、納得したように小さく手を叩く。
「えっと、」僕は彼女としんのすけを交互に見ながら少し戸惑う。
「まさか、お前の彼女?」

「風間くん、軽はずみな発言は困るぞ。」
しんのすけは苦いものを噛んだような表情を僕に向ける。その直後、彼の頭に鋭いチョップが振り落とされた。しんのすけは小さく悲鳴をあげて頭を抑える。
「もう片付けるんだから手伝って。」
女の子はチョップを放った手をさっとパーカーのポケットに突っ込みながら冷たくしんのすけに言い放つと、僕らのもとから離れていった。
「し、しんのすけ、大丈夫かよ。なんでお前チョップされたんだ?」
「か、風間くんのせいでしょー!」

しんのすけは涙目で僕を睨みつつ立ち上がる。

「ひまがオラの彼女とか言うから機嫌損ねちゃったんでしょ!もう最近反抗期なんだからほんとやめてほしいぞ。」
「ひまって…まさかさっきの女の子、ひまわりちゃん?」
「まさかも何も、どう見てもそうでしょうが!」
しんのすけは子供のように頬を膨らませながら女の子が去って行った方向へ歩き始める。
「ほら、風間くんのせいで怒られたんだから、風間くんも手伝ってよね。」
そう言ってしんのすけはさらに歩いていく。
僕は少し迷って、結局ベンチから立ち上がり、彼を小走りで追いかけた。

この日、この場所で15年ぶりに奴と再会し、この時奴の後を追った瞬間から、またこの男によって振り回されることになることを、この時僕はまだ知らない。

【クレしん】15年後の春我部防衛隊1

幼い頃の僕は、自分がカッコいい大人になれると信じていた。

努力を怠らず、常に最善の選択をし続けられれば、欲しいものは全て手に入ると信じていた。 〝正しい道″を歩くために、価値あるものだけを選び抜き、それ以外のものは捨ててきた。

だけど今、最善の選択をしてきたはずの僕の世界は、音を立てて壊れだしている。

 

「別れたいってどういうことだよ。僕が君にどれだけの時間と金を費やしてきたと思ってるんだ。」

立ち去ろうとする彼女の腕を掴む手に僕は力を込める。彼女は「痛い」と漏らしながら僕の手を振り払おうとする。

「もう風間先輩の見栄やプライドに付き合うのはウンザリなんです。私のことだって、見た目とか家柄だけで選んでるの丸わかり。私は先輩のアクセサリーじゃない。」

いつもは無口な彼女が発するはっきりとした拒絶の言葉に、僕は思わず動揺し、手の力をゆるめた。その隙を逃さず、彼女の細い腕がするりと僕の手から抜ける。

「風間先輩って、恋人も友達も、所詮〝自分の役に立つかどうか″で決めてますよね。」

少し僕から距離をとった彼女が、静かに僕を睨みつける。

さっきまで僕のものだったはずの彼女が、もうずっと遠い存在のように感じた。

「でもそれ、先輩だけじゃないですから。私も、先輩のお友達も、皆〝風間トオルが自分の役に立つ″って判断して一緒にいただけです。あなたのちっぽけな器や、空っぽな人間性で人は惹きつけられない。」

頭に血が上る。湧き出す感情が怒りなのか悲しみなのか判断もつかない。

今にも耳を塞いで逃げ出してしまいたいのに、身体はピクリとも動かない。

「お父様の事業も失敗しちゃって、もう及川教授にも見捨てられちゃったんでしょう?コネもなくなっちゃって、これじゃ卒業しても政界なんていけませんよね。」

周りの音が聞こえなくなる。深い深い水に沈むような感覚。

なのに、彼女の言葉だけは残酷なほど鮮明に僕の脳裏に届いてしまう。

「そんな先輩に、もう価値、ありませんから。」

 

結局なんの言葉も返せないまま、次に顔を上げた時には彼女の姿は既になかった。

「価値がない」その言葉だけが何度も何度も頭のなかで響き続ける。


僕は彼女を愛していたのだろうか?漸く歩き始めながらぼんやりと考えた。

笑顔だった頃の彼女の表情を思い出そうとしたものの、どれだけ頑張っても浮かんでくるのは冷めた目で僕を見下す冷たい女の顔だけで、思わず苦笑いをした。

あの子の言う通り、僕は彼女の中身なんて一切見ていなかった。


同じゼミで人気の高い後輩。可愛くて、品が良くて、お父さんは大物政治家の右腕だった。

そんな、一行程度で説明のつく理由だけで僕は彼女を選んだのだ。

そして、彼女が僕を受け入れた理由も、きっと一行程度で片付くものだったのだろう。

 

母がいる東京のマンションに帰る気にはなれず、なんとなく駅に向かう。

少し開き直って、ゼミの友人に「失恋したから誰か飲みに行かないか」と呼びかけたが、誰からも返信はこなかった。そういえば、春休みに入ってから大学の友人から連絡はきていない。

僕は、あっけなく独りになった。

今まで僕を歓迎していた世界は、いとも簡単に手のひらを返し、僕に背を向ける。

恋人も、友達も、将来も、もう僕には何もない。 僕は東京から逃げるように、埼玉行きの電車に乗った。

 

春我部に帰ってきたのは、10歳以来10年ぶりだった。すっかり変わった街並みはもう僕の知る春我部ではなかったけれど、それでもたまに見覚えのある建物や道を目にすると胸が踊った。

ぶらぶらと足を進めていると、見覚えのある公園に辿り着いた。

懐かしい匂いがした。

僕は足を止めて、記憶より随分古くなっているベンチに腰掛ける。

広場では幼稚園児ぐらいの子供たちが5人程でわいわいと遊んでいた。

何故か目の奥がツンとした。

僕にも、あんなに無邪気で幸せな日々があったはずだ。

 

いつも5人でいた。

5人なら何でもできた。何も怖くなかった。

一緒にいてメリットがあるとか、友人としてふさわしいとか、そんな基準なんて一切関係のない、そんな友達が、僕にも確かにいたのだけれど。

僕は、随分昔に僕が切り捨てた友人たちの名前をゆっくりと思い返す。

 

桜田ネネ。

気の強い女の子だった。自己中心的でワガママな子だったけれど、いつも真っ直ぐで、誰よりも芯が強かった。

僕が私立の小学校に入学してからよく手紙を書いてくれていた。その頃は勉強に必死で殆ど返事は書けず、小学2年生になる頃には手紙もこなくなっていた。

 

佐藤マサオ。

お世辞にも賢いとか、頼り甲斐があるとは言えない男の子だった。思い出せる彼の記憶といえば泣き顔ばかりだけど、素直でとても優しい子だった。

彼とは僕が10歳で東京に転校する前に一度だけ再会したことがあった。再会といっても、この公園で上級生にいじめられている彼を僕が一方的に見かけただけだった。

「まだいじめられっ子のままなのか」と呆れる気持ちと、「助けてあげたい」という正義感が幼い僕の中を駆け巡ったのを覚えている。その後どうしたのかは全く思い出せないが、彼と話した記憶は一切ないから、僕は十中八九彼を見捨てて通り過ぎたのだろう。

 

ぼーちゃん。

卒園まで名字も住んでいるところもわからない、不思議な男の子だった。ぼんやりしているのに頭はキレて、独特の世界観を持っていた。そして、彼には誰をも受け入れる包容力があり、誰からも愛される子だった。

中学にあがってから、そこそこの難関私立中学校の制服を着ているぼーちゃんを東京で見かけた。彼も〝こちら側″にきたのかと嬉しくなって声をかけたことがある。

だけど、結局石の話だとか化学だとか、将来役に立つとは思えないようなものにしか彼は興味を持っておらず、再度関わることはなかった。

 

あと一人。


冷たい風が僕の頬を撫でるように吹いてゆく。どこかで焚き木でもやっているのか、煙が目に染みて涙が滲んだ。ぎゅっと目を閉じてそれをこらえる。


昔、僕もここで焚き木をして、焼き芋を食べた。

ここで隠れんぼをした。ここでおままごとをした。サッカーをして、ボールを怖いおじさんに当ててしまって沢山叱られもした。塾をさぼって夜まで全力で駆け回っていたこともあった。

そんな賑やかな日々の中には、いつもあいつがいた。

もう、戻れない日々なのだけれど。

 

焼き芋の良い匂いがする。

嗅覚が過去の幸せな記憶をより強烈に呼び覚まし、堪えきれず涙が一筋溢れた。

僕はゆっくりと目を開ける。

目の前には何故か本当に焼き芋が差し出されていた。

「何してんの?食べれば?」

 

温かい風に全身を包まれた気がした。

 

「…しん…のすけ?」

 

それが、野原しんのすけとの15年ぶりの再会だった。

(け)決別の賛歌

彼女は天才を愛していた。何故なら、彼女自身が天才ではなかったからだ。

彼女のピアノの技術はとても高かった。しかし、彼女が奏でる音は、輪郭も、表情も持たなかった。どれほど血が滲むような練習を繰り返しても、彼女の指からはのっぺりとした、無機質な音がただただ零れ落ちるだけだった。

そんな彼女のピアノに最も絶望していたのは他の誰でもない、彼女自身だった。

彼女に出会った時、大音量で発し続けられる彼女の悲鳴を僕は感じ取った。そして、底のない絶望を小さな身体に抱える彼女を、とても美しいと感じた。

僕は彼女を愛していた。誰よりも、愛していた。

しかし、結局のところ、彩子が愛していたのは僕の才能だけだった。

 

宮下翔という男のピアノを初めて耳にしたのは、僕と彩子が交際を初めて2年たった春のことだった。

 

その日は、かつての世界的ピアニスト、凍江琴美先生の45歳の誕生日だった。

凍江先生は5年前にピアニストを引退し、若い音楽家の育成に力を入れていた。

1年程前、凍江先生が審査員を務める国内のコンクールで準優勝したのをきっかけに、僕は時折、凍江先生にレッスンをつけてもらうようになっていた。

何度か、正式に自分に師事しないか、という誘いも凍江先生から受けていたが、丁重に断っていた。

ピアノは大好きだった。他の人にはないピアノの才能が自分にあることも知っていた。

だけど、僕はコンクールで優勝したいわけでも、プロとして活躍したいわけでもなかった。ただ楽しく、自分の好きな音を奏で続けられるだけで良かった。

そして、どこかで、彩子を置き去りにしてピアノに没頭してしまうことへの後ろめたさがあったのも事実だった。

 

凍江先生の誕生日パーティで、僕は凍江先生に師事する他の若手ピアニストに混ざり、順に1曲ずつ演奏することになっていた。

凍江先生の教え子の演奏は、どれも若い力溢れる素晴らしいものだった。

僕は彩子と共にパーティに出席し、彼らの演奏に聴き入った。

どの奏者の演奏も雰囲気は異なり、それぞれの音を主張していたが、ピアノの鳴らし方や曲の解釈の仕方にどことなく似通ったところがあり、そこに凍江先生の偉大な影が見え隠れしていた。

彼らの才能を発掘し、個性を伸ばしながらここまで適確に美しく育てたのだとしたら、本当に凍江先生は素晴らしい師であると感じた。

だが、自分の演奏が彼らの中の誰にも劣らないことを、僕は自覚していた。

「さて、次は特別ゲスト。凍江先生がスカウトし続けている広瀬慧さんです」

司会の女性がいたずらに微笑みながら僕の名を呼ぶ。周りが少しざわめく。

僕は彩子に「いってくるね」と笑いかけ、意気揚々と、客席より1段程高いだけの小さなステージに上がってお辞儀をする。顔をあげる頃にはざわめきが消え去り、小さな会場はしんと静まり返っていた。

あらゆる視線が僕に向けられている。

好奇の目。期待の目。嫉妬の目。緊張の目。

無数の感情を抱いた別々の個体全てが、今、僕の音に神経を集中させようと沈黙している。昔からこの瞬間が、たまらなく好きだった。

僕はそっと息を吸い込んでから、撫でるようにやさしく鍵盤に触れた。

そうしてしまえば、あとは指が勝手に動き出し、ピアノが歌いだしてくれる。

ドビュッシーの喜びの島。

幸せと儚さを連想させる、僕のお気に入りの曲。そして、彩が一番好きな曲。

キラキラした音が澱みなく、真っすぐに会場にいる全ての人の耳に吸い込まれていく。そんな幸福な感覚に溺れそうになる。

僕は、思う存分ピアノの歌声を楽しみ、そして、勢いを殺さぬまま最後の音を送り出した。盛大な拍手が聞こえる。ピアノの椅子から降り、正面を向くと、一番に彩子の笑顔が視界に入る。

僕は充たされた気分のまま微笑んで一礼し、低いステージからぴょんと飛び下り、演奏前と同じように彩子の隣に戻った。

 

幸せだった。僕は今のままでいい。

このままずっと大好きなピアノを大好きな人の隣で弾いていたい、と、強く思った。

しかし、そんな充たされた瞬間はあっけなく終わってしまったのだ。

 

「最高だった」と、口々に声をかけてくれる周りの人たちにお礼をしていると、司会の女性の声が再び聞こえた。

「さて、予定では奏者は広瀬さんで最後だったんですが、凍江先生のお誕生日ということで、急遽留学中のパリから駆けつけてくださった方がいます。凍江先生の甥っ子さんで、サックス奏者の宮本翔さんです」

僕は首を傾げる。サックス奏者?ピアノのステージでサックスを吹くのだろうか。

疑問を抱いたのは僕だけではなかったらしく、周りは一層低くざわめいた。

興味津々で目を向けたステージには、背の高い、僕より若いであろう青年がすっと立っていた。

凍江先生に甥がいたことも、宮本翔というサックス奏者の名前も聞いたことはなかったが、その姿を見ただけで、何故か背筋がぴんと伸びた。

陳腐な言葉を使うのなら、「オーラ」を感じたのかもしれない。

彼は行儀良くお辞儀をしてから、当たり前のようにピアノの前に座った。

周りから、「ピアノを弾くのか?」という、僕の頭に浮かんだものと全く同じ疑問の声がぼそぼそとあがった。しかし、そんなざわめきは、彼のファーストタッチで跡形もなく消え去る。

隣で彩子が息を飲むのがわかった。

彩子だけじゃない、周りの誰もが思考を止めた。

一瞬にして鳥肌が立つ。

モーツァルトの「ピアノ・ソナタ第十二番ヘ長調」。

優しい歌声。きらびやかな光。止めどなく与えられる幸福。そして、それらは決して永遠ではないのだと感じさせる途方もない無力感。

彼の指が動くごとに、僕の中で、言葉にしようがない感情が沸いては消える。

今まで「天才」のピアノは数えきれないほど聴いてきた。中には僕と同年代や、うんと年下の「天才」もいた。僕が敵わないと思う人も沢山いた。

だけど、ここまで感情を揺さぶられたピアノは初めてだった。

彼のピアノは僕と似ている。自由で、音楽への喜びが溢れている。

だけど、彼は僕にないものを確実に持っていた。たったそれだけのことが、僕をここまで震え上がらせているのか。

身震いした。理由のわからない焦りが、身体の内から胸をがんがん殴りつけてくる。

そして、突然焦りは不安に姿を変えた。

彩子。彩子はどう感じているのだろう。僕は我慢できずに彼女の表情を盗み見た。

冷たい空気が喉を通った気がした。

続いているはずの演奏が途端に途切れる。

彩子は涙を流していた。

彼女の心は、完全にもう僕から離れてしまっている。

見たことのない彼女の表情と、溢れ続ける涙に、僕は一瞬でそれを理解した。

彼女は美しい音楽を愛していた。そして、きっとそれを生み出せる才能を愛している。

彩子の心は、もう僕のものではなくなってしまった。

 

宮本は、最後まで一瞬たりとも揺らぐことなく演奏を終えた。

滝のような音を立てて拍手が鳴り響き、アンコールが口々に叫ばれる。もう誰も、その前にステージに立っていた僕の演奏等覚えてはいない。

 

狂ったように手を叩き続ける集団から逃れるように、僕はふらふらと会場の出口に向かう。彩子がちらりと僕を窺うのがわかった。

しかし、彼女は僕の後を追いかけてはこなかった。

 

全身に痺れたような感覚を抱きながら、僕は会場を出てすぐの中庭に出た。

花の蜜のような甘い匂いが生ぬるい夜風にのって鼻の奥をそっと撫でるように刺激する。

僕はへなへなとしゃがみこんだ。今まで味わったことのない感情がマグマのようにぐつぐつと湧き上がる。

喪失感。

僕は失ったのだ。何を?

自信を。ピアノを。そして、彩子を。

たった一人の演奏で。

 

「こんなところでいじけているのね」

しゃがみこんだ僕の上から透き通る声が降ってきた。ぼーっとした頭で声の主を思い浮かべながらゆっくり顔をあげる。

「凍江先生…」

トレードマークである真っ黒のドレスを身に纏い、凍江先生がそっと微笑む。

「翔の演奏、すごかったでしょう。あの子は本物の天才よ。サックスはもっとすごい」

惜しみなく宮本を褒め称える凍江先生の言葉に、僕は思わず目を伏せた。

「すごかったです。なんかびっくりしちゃって」

自分が抱いた感情を1ミリも表現できないまま、僕は曖昧に笑った。

「もうピアノやめちゃおっかなぁ」

無意識に口をついて出た言葉にはっとする。凍江先生の前で、僕はなんて情けないことを言っているのだろう。

すぐに訂正しようと再び凍江先生の顔を見上げた時、先生の言葉が静けさを突き破り、矢のように僕を突き刺した。

「広瀬くん。私に師事しなさい」

ひどく、堂々とした声だった。まるで、そうすることしか道はないのだと断言するような。冷酷さをも感じさせる声だった。

「絶望と敗北を知りなさい。これまで知らなかった世界を見なさい。一度全てを失いなさい。そして、私のもとでピアノを弾きなさい。そうすれば貴方はもっと高みに登れるわ」

その言葉は光のようにも、永遠の闇のようにも感じられた。

何故か、涙が一筋頬を伝う。

凍江先生がそっと僕に手を差し伸ばす。

『音楽の神様』

月明かりに照らされた凍江先生の姿を見上げながら、そんな言葉が僕の頭に浮かんだ。

これは、音楽の神様との契約なのだ。

僕はすがるように、神様の手を掴んだ。

 

 

私は彼を愛していた。

彼の音はまるで色とりどりの宝石のような、光り輝く色をきらきらと惜しみなく放っていた。

私では到底弾けない音、表現できない色、感じ取れない世界を彼は持っていた。

自分のピアノに絶望していた私は、彼の音に心を救われ、そして、彼に強く魅かれた。

私は彼の音を愛し、そして、その音を生み出すにふさわしい彼の内側を愛した。

その音がずっと、私だけのものであれば、どれほど幸せだっただろうか。

 

「魔女め」

私はスマートフォンに表示させたネットニュースから目をそらし、一人ぼそっと呟く。

記事には廣瀬慧と、その師である凍江琴美が微笑みながら寄り添う写真が載せられており、「天才、新たなる歴史を刻む」という仰々しいタイトルのもと、慧へのインタビューが続いている。

音楽に全てを捧げることを選び、また、音楽にも選ばれた世界中の天才ピアニストたちが集う国際ピアノコンクール。

昨日ドイツで行われたその本選で、慧は日本人で初めて優勝を手にした。

師の凍江への感謝や、コンクールでのエピソード等を語った彼のインタビューの後には、今回のコンクールの審査を担当した有名ピアニストや、日本の音楽評論家たちのコメントがいくつか掲載されていた。

内容は、「広瀬慧は2年前に凍江琴美へ師事してから圧倒的にその才能を伸ばすことに成功した」だの、「凍江琴美の指導のもと、その表現力を着実に進化させている」だの、どれも師である凍江を称賛するものばかりだった。

 

幼い頃、凍江がピアニストとしてピアノを弾いているのを見るたびに、「魔女のようだ」とぼんやり思っていた。

彼女が奏でる音は多くの色を持っていた。彼女のピアノは、私がまだ知らない色や、名前すらないようなものまで、この世の全ての色を持っているかのような音を奏でた。

しかし、それらの色は美しい花畑や虹のように「カラフル」と呼ばれるものとは到底違う。何十色、何百色を全て重ね、混ぜあわせたような妖しい色。

1つ1つがどれほど鮮やかで美しい色でも、全てを混ぜ合わせると深い深い黒となる。

彼女が紡ぎだす音そんな残酷さを感じさせ、幼い私を震えさせた。

真っ黒な長い髪を乱しながら、憑かれた様に鍵盤を叩く凍江の姿は妖艶で、美しく、そして、恐ろしくも感じられた。そんな独特の演奏に加え、彼女のドレスがいつも黒や紺等、ピアニストでは珍しいような暗い色ばかりだったこともあるのだろうが、私は子供の頃から凍江のことを、心の中で『魔女』と呼んでいた。

 

一方で、慧の持つ音は、美しすぎた。

彼が放つ色は、どれも均等に引かれた下書きの線を決してはみ出さず、きっちりと隔てられており、一切混ざることがない。

汚れや濁りを全く知らないピアノ。喜びと幸福だけに満ちた世界。

悲しみや憎悪、孤独や絶望は、彼の音には存在しない。

彼は、幸せすぎたのだ。

彼の側で彼のピアノを聴き続け、それに気づいたとき、私の中で迷いが生まれた。

彼がこのまま現状に甘んじ、この生ぬるい世界でピアノを弾き続けてしまったら。

小さな世界で甘やかされ、もて囃され、世界を舞台に死に物狂いで戦い続ける本物のピアニストたちと向き合うこともなく、絶望や孤独を感じることなく歳を重ねてしまったら。

彼は、きっと何も成し遂げることなくピアニストとしての人生を終える。

冷たい予感は日を追うごとに私の中で確信に変わっていった。

陰を表現できない彼のピアノは、きっと世界には通用しない。

そして、彼にそのことを気付かせることができるのは、彼が持たない色を教えることができるのは、自分だけではないのか。

しかし、彼がもし本当にあらゆる色を取り入れてしまったら。世界に目を向けてしまったら。きっと私は捨てられる。

私が彼を愛し続け、甘やかし続け、そして守り続けられれば、彼はずっと私の傍にいてくれるかもしれない。彼を私だけのものにできるかもしれない。

私は迷った挙句、何の行動もおこさないことを選んだ。

しかし、私の迷いは見抜かれていたのだ。あの魔女に。

 

凍江琴美と初めて言葉を交わしたのは2年前の春。彼女の誕生日パーティの1か月ほど前のことだった。

 

「広瀬くんを愛しているのというのなら、貴女は彼を離してあげなくてはね」

私が通う音大のキャンパスで凍江と出くわしたのは、偶然ではなかったはずだ。

彼女は慧に足りないものも、それを充たす条件もわかっていた。

「貴女は彼にない色を、彼に教えてあげられる。そうすることで、彼は素晴らしいピアニストになれるわ。貴女が一番わかっているでしょう」

魔女め。私は心の中で何度も毒づいた。

全てを見抜き、私が一番言われたくない言葉を選んで語り掛けてくる。

「彼を、自由にしてあげて」

 

私は魔女に抗うつもりだった。彼の未来を潰してでも、私は彼の傍にいたかった。

そう強く願ったはずだった。

しかし、宮本翔の演奏を聴いたとき、私の願いが慧にとって酷く惨いものであることを突き付けられた気がした。慧にどこか似ているようで、全く異なるピアノ。

慧を凌駕する音。隣で慧が身震いするのがわかった。

無意識に涙が溢れた。

今の彼では、このピアノを越えられない。そして、きっとそのことがこの先慧を苦しめ続ける。

これから彼を苦しめるのは、きっと私の存在だ。


まだ演奏の途中だというのに、慧はふらふらと後ずさる。

私のもとから去ってしまう。

しかし、まるで魔法でもかけられたかのうように、私は動くことができなかった。

「彼を、自由にしてあげて」

宮本のピアノを伴奏に、魔女の言葉が何度も何度も、呪いのように頭の中で響き続けていた。


そして、私たちはそれを最後に顔を合わせることはなかった。 


私は今、ヘッドフォンを耳にあて、慧のコンクール音源を再生する。

彼のピアノは2年前より明らかに色が増え、陽と陰が複雑に、そして美しく混ざり合っていた。

何故か、涙が一筋頬を伝った。

彼はこれで良かったのだろうか。私は、これで良かったのだろうか。

曲を最後まで聞かぬまま、ヘッドフォンを外す。

あぁ、今無性に、あの無垢な「喜びの島」が聴きたい。

(ち)父

父はとても無愛想な人だった。

私が小学生だった頃、父の日のプレゼントにと、図画工作の時間に父の似顔絵を描いたことがあった。

小さい頃から絵が得意だった私は、父の顔を思い浮かべながら似顔絵を紙いっぱいに描いた。

できあがったそれは我ながら良い出来で、父そっくりだった。しかし、父に似せようとするあまり、他の子たちが描くような笑顔のお父さんとは違い、ニコリともしていない不愛想なお父さんが私の画用紙には描かれてしまった。

先生は私の絵を見て、「上手ね」と褒めながらも、少し困った顔をしていた。

 

父の日当日、初めて渡す父へのプレゼントに、私は内心とてもわくわくしていた。

不愛想な表情の絵になってしまったけれど、今まで描いた絵の中で一番上手に描けたという自信はあったし、必ず喜んでくれるとも思っていた。

しかし、絵を受け取った父は、ありがとう、とも、下手くそ、とも言わず、片手でそれを受け取り、ちらりと見ただけでテーブルの上に置いてしまった。そして、何事もなかったかのように晩御飯の続きを食べ始めたのだ。

そんな父の反応に、直前まで胸いっぱいに広がっていた私の期待は一瞬で消え去った。そして代わりに、灰色のざらざらした悲しみが沸き起こるのを幼い私は感じた。

途端に鼻の奥がツンとし、涙が込み上げてきそうになったが、ここで泣いてしまったら父に呆れられてしまうという根拠のない確信がそれを必死に食い止めた。

私は、テーブルの上に無造作に置かれた父の不愛想な顔と、正面に座る本物の不愛想な顔を必死に視界から外し、時折零れそうになる涙を誤魔化しながら、母が作ってくれたハンバーグを一心不乱に飲み込み続けた。

 

父はとても静かな人だった。

私が中学生だった頃、少し悪い友人たちとつるむことも、髪を明るく染めたことについても父は何も言わなかった。

ある日、夜遅く家に帰った私から漂う煙草の匂いに、母は怒鳴り声をあげた。

母の大声など怖くもなんともなく、私は無視をして二階の自室に向かった。そして、階段の途中で、母の怒鳴り声を聞きつけて部屋から出てきたのであろう父と鉢合わせた。

「お前が吸っているのか?」と、父は静かに尋ねた。

実は、吸っていたのは友人だけで、煙草の匂いが苦手な私は吸っていなかったのだけれど、なんだかそれがカッコ悪いことのように思えて、「吸ってたらなんなの?」と、私はできるだけ冷たく答え、父から逃げるように速足で階段を上がった。

「かっこよくは、ないんだぞ」

ひとりごとのように小さく、しかし、はっきりと断言するような父の言葉に、私は思わず立ち止まった。顔がかっと熱くなるのを感じた。

父のその言葉をかき消すように、そして、自分が今感じている顔の熱を悟られないように、私は大きな音をたてて部屋の扉を閉めた。

次の日から、父の言葉に抗うように煙草を吸い始めた。

ちっとも美味しくなんてなかった。

すると、なんだか今やっている反抗全てがバカらしくなって、私はしばらくしてそのグループを抜け、髪を黒くした。

やはり、父は何も言わなかった。

 

父はとても勝手な人だった。

私が高校3年生になったころ、進路について母や先生と対立することが多くなった。

それなりに勉強ができた私に、母や先生は国立大学の受験を勧めた。

だが、私には行きたい美術大学があった。

その大学は入学が難しいうえに、入ってからも多額の授業料が必要となる。

そして、大学を無事卒業したとしても、芸術で食べていけるのは古今東西ほんの一握りであることは、その頃の私でもよくわかっていた。それでも、どうしても挑戦してみたかった。

しかし、毎日のように母や先生から「現実は甘くないのだから」と説かれ続け、周りの友達がせっせと一般大学に向けての受験勉強を進めるのを見ているうちに、私の中の漠然とした不安や焦りはどんどん膨れ上がり、自信や希望は隅っこへ追いやられていった。

そして、そろそろ進路をはっきり決めて勉強しなくては、という高校三年生の初夏。

不安に負けて自分の力を信じられなくなっていた私は、一般の大学受験を選ぶことにした。

 

普通の大学に行ったって芸術の道に進むことはできる。なんなら趣味で続けるだけでもいい。

そう自分に言い聞かせ、受験勉強を始めた頃、今まで進路に関して全く口を出さなかった父が、大量のスケッチブックと高価な絵具を買って帰ってきた。

無言でそれらを私に手渡し、何事もなかったかのように晩御飯を食べようとする父に、私は混乱しながらも「もう美大うけないんだけど」と、呟いた。

父は「うん」と頷いてから、手にしたばかりの箸を置いて、画材を持って立ちすくむ私の目をじっと見つめた。

「母さんも、先生も、お前の人生に責任は持てないんだぞ」

久々に正面から見る父の顔は、記憶にあったものより大分老けて見えた。だけど、大事なことをはっきりと断言するような話し方は、昔から何も変わっていなかった。

「責任を持てるのは、お前だけだ。だから、流されず、自分が好きな方を選びなさい」

そして、「責任はとれないが、応援も支援もする」と、ほんの少しだけ笑ってみせた。

父のそんな表情を初めて見た気がした。

そして、たったそれだけの言葉に、私はあっさりと背中を押されてしまった。

私は、父が買い与えてくれた画材の紙袋をぎゅっと握りしめ、「美大を、受験したい、です」と、父を真似て、はっきりと、自分に言い聞かせるように言った。

父に、母に、そして自分自身に。

その声は、自分が思っていた以上に大きな声だった。

母は「余計なことをしてくれた」と、父に対して口を尖らせていたが、すぐに「仕方ないな」と笑ってくれた。

 

父はとても不器用な人だった。

私が美大を卒業し、小さな事務所でイラストデザイナーとして就職し、細々と一人暮らしを始めた頃。父はずっと拒み続けていた携帯電話を持った。

父からメールや電話がくることはなかったが、私が所用で父にメールを送ると、毎回一分と経たずに誤字だらけの返信がきた。

たった一度だけ、そんな父からメールがきたことがあった。

それは、私が慣れない環境や思うようにいかない仕事を前に、自己嫌悪に陥っていた時。

もうやめてしまおうか。やっぱり普通の大学に行って普通に就職すればよかった。私には才能なんてない。もうやめてしまいたい。

そんなことをぐるぐる考え、泣き出しそうになる冬の夜のことだった。

突然父から、「元気か。味方だぞ。」という、何の脈絡もない短いメールが届いたのだ。

どういった経緯で送られてきたものなのか、そもそも本当に私に向けられたメールなのか。全く全貌がよくわからないその父からのたった一行に、何故か涙が溢れた。

堰を切ったように止まらなくなった涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、「何の話?」ととぼけて返したメールには、「間違えて送ってしまった」と、やはりすぐに返信がきた。

その返信に、私は一人で泣きながら笑った。


 

今、父の遺品を整理しながら様々なことを思い返す。

初めて買ってから一度も買い換えることのなかった父の携帯電話には、すごい量の未送信メールが残っていた。

「ご飯は食べてるか?」「次帰ってくるときは焼肉にしよう」「無理せず頑張れ」「雑誌でお前の絵を見たぞ」「お前は良い仕事をしてる」「たまには帰ってこい」「間違ってなんかないぞ」

未送信フォルダに何十件もあった短いメールの宛名は、全て私だった。

私は、いつかの夜のように泣きながら笑い、携帯電話を小さな箱の中にそっといれる。

父の形見として、私が父の部屋から集めたものが、その小さな箱に詰まっていた。


額にまで入れて大事に書斎にしまわれていた不愛想な似顔絵。


当時吸った記憶もないのに、中身がよくなくなっていた私の煙草と同じ銘柄の煙草数十本。


大量の絵画の本や、美術大学のパンフレット。


そして、私がデザインした全てのチラシやポスター。


私はその小さな箱にそっと蓋をする。

蓋の上に重ねた両手がほのかに温まるのを感じた。

(き)記憶の支配者

男は初恋の人が忘れられないという。
幼かったあの頃からは、好みや恋人に求める条件も大きく変わっているはずなのに、そもそもそれほどよくその子のことなんて知らなかったはずなのに、その名前を聞くだけでドキリとし、甘酸っぱい気持ちでいっぱいになる。
そんな人が男には大抵いるはずなのだ。

そして、その面影は一生男の人生に付きまとう。

「なので、三年付き合って結婚も約束してた彼女は捨てて、初恋の人を追いかけます?」
沙希子は僕から目を反らさず静かに尋ねる。

喫茶店の席についてからすぐに注文した2つのアイスコーヒーは、いまだどちらも口がつけられておらず、一秒を刻むごとに溶けていく氷は茶色い液体を薄く薄く塗り替え続けている。

「本当にごめんなさい」
僕は沙希子の視線から逃れるように頭を下げ、喫茶店のテーブルにある染みを凝視し続けることを選んだ。
「その子とやったってこと?」
冷たい声が僕の下げた頭に降りかかる。
「やって、ない」
「嘘だ」
嘘だった。
中学の同級生同士の結婚式があったのはつい1ヶ月前のこと。

そこで僕は初恋の人、伊原梨花と再会した。

梨花とは中学2年生の頃クラスが同じで、共に美化委員だった。クジ引きで選ばれただけの委員だったので2人とも積極的に校内の美化に協力したことはなかったが、月に一度形式的に行われる委員会会議にはとりあえず出席しており、そこで会話を交わすようになった。
彼女は誰に対しても愛想がよく、頭も良いほうで、そして何よりとても美人だった。そんな彼女に単純な僕は恋をした。そして、彼女を想い続ける一方で、特にそれ以上接近することも、彼女について詳しく知ることもなく時は経ち、僕たちは全く別々の高校へ進学した。
そんな初恋の人に、僕は10年ぶりに再会したというわけだ。

あの頃より背が伸びて、胸も大きく膨らみ、化粧を施した梨花は誰から見ても美しかった。彼女の姿を見つけた時、僕は一瞬にして中学生の頃のあの代用できない気持ちを取り戻した。
だから彼女に声をかけられた時は飛び上がるぐらい嬉しかったし、彼女が「彼氏と別れたばかりで寂しい」と上目遣いで漏らした時は一気に身体が熱くなった。そして、僕は愛しの恋人であるはずの沙希子を完全になきものとし、梨花と一夜を過ごしてしまったのだ。

「周ちゃんて本当に嘘が下手」
沙希子が容赦なく吐き捨てる。
僕は嵐が過ぎるのを待つようにじっと俯き続ける。
「ねぇ、その人ともう付き合ってるってことなの?」
「…違う。付き合って、ない」
これは本当だった。

僕たちは確かに一夜を共にした。初めて抱きしめた彼女の身体は華奢すぎて硬く、冷たく感じた。柔らかくて温かい沙希子とは対称的だ。彼女が漏らす機械的な声も、表情も、沙希子とは全く違った。僕は彼女を抱きながら、やはり沙希子の方がいいなぁとぼんやり思った。そして、今夜のことはちょっとした過ちだったと正直に沙希子に謝って許してもらおうと誓った。そう、一度は何かに誓ったのだ。
けれど、別れ際に渡された梨花の連絡先を僕は嬉々として受け取ってしまい、帰宅してすぐに自ら甘い連絡もいれてしまった。「楽しかった」と返す彼女の言葉に舞い上がり、即刻次の約束を取り付けたのも他の誰でもない僕だった。

「でも、会ったのは一回だけじゃないんだよね?」沙希子の尋問は淡々と続く。
「うん…」
既に僕たちは4回会っていた。

1度目は再会した夜。
2度目はその次の週の土曜日だった。
僕は今月から上映されている人気映画のチケットを2枚とって彼女を誘った。沙希子が前々から見たいと言っていた人気監督が手がけるサスペンス映画だった。梨花は僕の誘いに快く応じた。
沙希子も僕もポップコーンは塩派なので毎回当たり前のように2人で分けていたが、彼女はキャラメルを好んだ。僕もキャラメル派ということにして上映中それを一緒に食べたが、ひどく甘く、なかなか進まなかった。結局彼女も太るからとあまり口にはせず、ポップコーンは半分以上残ったまま映画はエンドロールを迎えた。
やっぱり沙希子との方が気が合うな、と、僕は甘ったるいポップコーンを噛みながら上映中ずっとこの浮気を後悔し、沙希子にすぐに謝って許してもらおうと誓った。確かに誓ったのだけど、映画の後流れるままホテルにいき、相変わらず硬く冷たい彼女の身体を抱いた後、何故かまた自ら次の約束を取り付けていた。

3度目は彼女の家に招かれた。殆ど物がない部屋で、生活感を感じられない程彼女の部屋は綺麗だった。僕はワインを買って行ったが、料理はしないから食器がないのだと彼女は言い、コンビニで買った紙コップで乾杯した。コップと一緒に買った安っぽいツマミを食べながら、いつも酒を買っていくと美味しいツマミを作ってくれた料理上手の沙希子を思い出し、やはり浮気なんてこれっきりにして沙希子のもとへ戻ろうと僕は誓った。確実に誓ったのだけど、朝目覚めた時に僕の隣で眠る梨花の美しい寝顔を見て、僕はまたその夜彼女に連絡してしまった。

そして4度目に会ったのはつい昨日のことだった。彼女が僕のお気に入りの店に行きたいというので、少し迷ったが行きつけの小さな居酒屋に連れていくことにした。外装は古く、中もお世辞には綺麗とは言えないが、酒や料理は全て絶品で、沙希子と何度も通っていたお気に入りの店だった。だけど、結果的に僕らはその店には入らなかった。店の前まで来て、「ここだ」と僕が紹介すると、彼女は途端に苦い顔をし、「やっぱりイタリアンが食べたくなっちゃった」と綺麗に笑った。僕は自分自身を否定された気持ちになり、悲しく、恥ずかしく、そして腹を立てた。しかし、結局僕はへらへらしてイタリアンに彼女を連れていき、大して美味しくもない高いだけのパスタで腹を埋めた。

「本当その人のほうが好きになっちゃったんだね」
長かった沈黙を押し破って沙希子がため息を吐くようにそっと呟く。初めて聞くような、弱い弱い声に僕は思わず顔をあげる。
そこには僕が3年間愛し続けた女の子が、3年間見せたことのない悲しい顔をして座っていた。
背は低くて、胸も小さく、お世辞にも美人とは言えないけれど、愛嬌があって誰にでも好かれる子だった。僕と好みが似ていて、いつも美味しい料理を作ってくれて、よく笑う子だった。僕のことをいつも1番に考えてくれて、不器用だけど本当に優しい子だった。
「うん、好きなんだ」
言ってから、僕は自分が涙を流していることに気付いた。
沙希子を失うことに僕は恐怖を感じている。別れたくない。沙希子のそばにいたい。頭と身体はそう叫んでいるのに、僕の中の何かが梨花を選べと強く命令する。頭よりも、身体よりも、僕の中で強い権限を持った"何か"が、僕を沙希子から引き離そうとしている。
その"何か"に必死に抵抗するかのように、涙だけがぽろぽろと零れ続ける。
僕は初恋に支配されていた。
「そんなに、好きなんだね」
沙希子は僕の涙の意味を優しく受け止めた。そして、スカートのポケットから可愛らしいハンカチを取り出して僕に差し出す。僕は受け取ることもできず、俯きながら子供みたいに両手で目をこする。
「周ちゃん、目、腫れちゃうから」
沙希子がハンカチを無理やり僕の目に押し当てながらいつもの優しい声で言う。
「悲しいし、悔しいし、納得もいかないけど、わかったことにするよ。周ちゃんを泣かせてまでワガママ言えないし」
ハンカチを僕の手に握らせてから沙希子は立ち上がる。僕は顔をあげることすらできない。
「このコーヒーは奢ってよね。そんで、勝手に幸せになって」
沙希子の温かい手が僕の頭をぽんと撫でる。焦げるような痛みが胸に広がる。
引き止めなくてはいけない。謝らなくてはいけない。やっぱり僕には沙希子しかいない、そんなことずっとずっと分かっている。
「周ちゃん、大好きだったよ」

沙希子の気配が消える。喫茶店の扉にかけられたベルがカランと寂しげに鳴り、扉が閉まる冷たい音がする。結局口がつけられることのなかったアイスコーヒーからは氷が消えてしまっていた。


僕は顔をあげられず、机に増えていく染みをただ見つめることしかできない。
気付けばポケットの中のケータイが鳴っている。きっと梨花からの連絡に違いない。
僕は沙希子の香りのするハンカチを両目に押し当て、先の見えない未来に身震いする。
1つだけ、どうしようもなく確実にわかりきっていることはある。
僕はこの先、一生今日のことを後悔する。
ポケットから漏れる着信音は、いつまでもいつまでも鳴り止まない。

(か)彼

私が彼を殺した
比喩でもなんでもなく、ただ、物理的に。
二度と息が吹き返さないよう、できるだけ念入りに、念入りに、4度刺した。
最初は背中から。いつもむね肉を切るのに使っている包丁を両手に握りしめて、少し走りながら勢いよく刺した。幸い骨には当たらず、包丁は柄の寸前までスルッと彼の背中に飲み込まれた。それで終わりかと思った。しかし、生命とはそうあっさりと尽きるものではないらしい。彼は少しだけ呻いて、腰を折り曲げながらこちらを振り返ったのだ。私は驚いて、とっさに彼の背中から包丁を抜いた。
人通りが少なく、できるだけ灯りのない道を選んだつもりだったが、月がやけに明るい夜で、振り返った彼の表情がはっきりと見えた。
驚き、悲しみ、哀れみ、憎しみ。どれにもよく似た表情で、そして、きっとその全てを含んだ表情だったのだろう。低い声で呻きながら私に手を伸ばす彼を阻止するように私は既に血だらけの包丁を彼の胸目掛けて突き刺した。彼より伸長が15センチ低い私が胸を狙うと、やや不恰好になり、力も上手く入らない。さらに肋骨に拒まれ、包丁は彼の胸のかなり浅いところで止まった。
しかし最初に深く刺した背中の穴から溢れ続ける血のおかげで彼の顔からはどんどん色がなくなり、ついに膝をつき、ゆっくりとうつ伏せに倒れていった。私は倒れた彼の身体の横に膝をつき、両手で彼の肩甲骨の下あたりに勢いよく包丁を突き刺した。柄までとはいかなかったが、かなり手応えを感じた。彼は最後に鈍い声をあげ、動かなくなった。
人は三度刺されてやっと死ぬのか、と心でぼやいてから、念のためにもう一度背骨のあたりを刺した。暗い上に、彼は黒いコートを着ていたため、どれだけ血がでているのかはわからなかった。私は立ち上がり、目を凝らして自分の身体をチェックする。4度刺したわりに帰り血は浴びていない。しかし、膝を着いたときにコンクリートに流れていた血がついたのか、スキニーの膝の部分だけ少し黒く汚れていた。最近買ったばかりだったのに迂闊だった。私は少し重い気持ちになる。勿体無いけど洗って使う気にもなれない。次のごみの日に捨ててしまおう。
握りしめたままの包丁と両手に嵌めた安い革の手袋にはべっとり血がついていた。包丁はそのまんま捨ててしまいたかったが、凶器が見つかっていない方が捕まりにくくなりそうだなぁとぼんやり思って、とりあえず持ったまま立ち去ることにした。
別に逃げ切ろうと心に決めているわけではないが、捕まらないならそれにこしたことはない。
私は冷たいコンクリートに転がる彼の鞄に黒く染まった包丁と手袋を入れて持ち上げた。そのときに彼の鞄の奥にラッピングされたティファニーの小さな箱があるのが目についた。私はその箱を自分のコートのポケットに突っ込み、その場を後にした。

5分ほど歩くと街灯が増え、住宅街に入る。時間は深夜1時をまわった頃で灯りの点る窓は殆どない。明日はごみの日で、ぽつぽつと何件かフライングでごみ袋を玄関前に置いている家が見られた。
私はコートのポケットに突っ込んでいたティファニーの箱を取りだし、テキトーなごみ袋の結び目をそっと開けてその中に捨てた。ごみ袋を結び直す手は寒さにかじかんでいて、もうさっさと帰ろうと早足に住宅街を抜ける。

途中でコンビニの明るい看板が目に入る。ホットコーヒーでも飲みたいと思ったが、汚れたスキニーと、どう見ても服装に合わないビジネスバックが気になって諦めた。自分のアパートを目指して真っ直ぐ歩く。この街にはもう誰もいないんじゃないかと思えるぐらい、不思議と誰にも会わずに帰ってこれた。

さっさと熱いシャワーを浴びたかったが、血だらけの凶器をそのままにしておくのも気持ち悪く、100円均一で買いだめしていた新品のタオルでぐるぐる巻いて適当な小さな紙袋に入れた。手袋は2つに裁断して、4つのナプキンに包んみ、汚物用の真っ黒な袋に入れて固く結んだ。明日のごみの日に他のごみと一緒にだせばいい。包丁はどこかの駅で捨てておこう、幸い明日は出張で新幹線に乗る。停車中の電車のゴミ箱に突っ込んでおくのでもいい。
そんなことを考えながら熱いシャワーを浴びた。罪悪感も達成感もなかった。ただのありふれた日常のひとこまのようだ。
髪を乾かすと眠気が込み上げてくる。アラームをかけようとしてケータイを見ると図ったかのようなタイミングで友人の遥から電話がかかってきた。寝ているふりをしようか迷ったが、電話をとる。

「もしもし、麻衣子。ごめん、寝てた?」
「ううん、起きてたよ。誕生日おめでとう、遥」
「ありがとー。それが、聞いてよ。宗久さん、今日の0時過ぎに家を抜け出して会いに来てくれるって言ってたクセにこの時間になっても来てくれないのよ?私、待ってたのに。もう最悪。」
「酷い話だね、連絡とってみたの?」
「メールは入れたけど返信ないの。電話は私からは禁止されてるし…」
「家出る時に奥さんに見付かったとかじゃないの?遥も明日仕事でしょ、もう諦めて寝なよ。」
「うーん。なんか最近宗久さん冷たい気がするの。」
「不倫に罪悪感抱き始めたとか?」
「うん、それもあるかもしれないけど、私が思うにはさ…」
遥の声がそこで詰まる。私を伺っている。彼女は少しの間を置いて小さく息を吸う。口を開く微かな音が伝わる。
「もう一人、いる気がするんだよね、不倫相手。」

私は遥の言葉を笑い飛ばし、考えすぎだと慰めて電話を切った。

(お)終わりの終わりに

凍てつくような真冬の朝、会社に行くまでの道のりで突然酷い衝撃を背中に受けた時、「あぁ怨念に遂に追い付かれたのか」と直感した。
まず最初に浮かんだのはストレスを理由に仕事を辞めた後輩の顔だった。

「もう僕無理っぽいです。」
白い息を吐きながら冗談のように笑う彼の言葉が冗談でないことぐらい疎い私にもすぐにわかった。それが彼なりの必死のSOSだったことも。だけど私には向き合う余裕も、また優しさもなく、その振り絞るかのようなサインをなかったことにして笑った。なんと答えたかも覚えていない。
その後彼が亡くなったらしいと耳にした。やけに強調された「事故で」という言葉が不自然に社内を巡回していた。


衝撃が消えて、あたりが静かになる。
息苦しさに耐えきれず口を開く。冬特有の枯れ葉や湿った土の匂いを含んだ空気が身体に力なく入ってくる。


次に浮かんだのは去年別れた恋人の顔だった。
とても優しい人だった。そして、本気で私を愛してくれているのがよくわかっていた。私はそんな彼を愛し、そして生涯大切にするべきだった。そうあるべきなのはわかっていた。
しかし、付き合い始めて2年たった凍えるような朝、突然「欲望」としか表現できない感情が私の中でむくっと芽をだした。私は、私を信じきった彼の、私に裏切られた時の顔が見たくなったのだ、どうしようもなく。
そんな欲望はさらに3年かけてより膨らんだ。
愛はいつか風化する。だけどそれが傷になった場合、もっと長く彼の中に残れるんじゃないか。いつか誰もが私を忘れる日が来ても、彼はふとしたとき思い出してくれるんじゃないか。
誤った理屈なことはわかっていた。でも、止めることのできない衝動だった。
付き合って5年目、雪の降る夜、私は彼を深く、深く、念入りに、傷付けた。
何の戸惑いもなくやり遂げた自分が、私が管理していたはずの身体から随分遠いところに行ってしまったようで、寂しくて、少しだけ涙がでた。


冷えきっていたはずの身体が少し温かくなる。太陽が照ってきたのだろうか、空を見上げようとするが愛想のないコンクリートの地面しか見えない。
誰かが遠慮がちに私に触れる。


私の頭には次々と泣きそうな、すがるような目をした人たちの顔が写し出される。私が傷付け、追い込み、救わなかった人。私をしっかりと覚えているであろう人。
それを望んでいたはずなのに、いつしか怖くなっていた。
だから必死に前だけ見て走っていた。
だけどついに追い付かれてしまったのだ。
皮肉にもこんなにも寒い、大嫌いで、そして抱き締めたくなるぐらいたまらなく好きな冬の朝に。

もう温かさも冷たさも感じない。
こんなにほっとした気分で消えていくなら、もっと真剣に誰かと向き合えば良かった。愛せば良かった、「死にたくない」と足掻けるぐらい、人を愛せば良かった。

身体にまとわりつく優しい怨念たちにむけ、血だまりの中で私はくすっと力なく笑う。