50音ショートショート

50音分のタイトルで短編を書き終えれたら、関係ないけどとりあえず仕事やめようと思う(-A-)

(さ)サイエンス・フィクション

【2014年 ラーメン屋にて】

岡山宏が昨日と全く同じ店で、昨日と全く同じ塩ラーメン定食を注文したのを見て、僕は、おや、と思った。
そういえば、今日の岡山は、いつもの色褪せたパーカーとジーンズではなく、彼にあまり似合わない紺色のポロシャツとワイン色のチノパンという、見覚えのないコーディネートをしている。
普段ボサボサな髪も、今日は整えられており、ワックスまでつけている。
岡山の様子をこっそりうかがいながら、「これはわりと手の凝ったイタズラだな」と、僕は心の中でため息をついた。

「それで、なんか俺に質問ないの?」
注文を終え、水を一口飲んだ岡山が言う。
「あぁ、えっと。なんだっけ、何年後から来たんだっけ」
僕もつられるようにして水を飲む。
昨日同様、この店の水はいつも生ぬるい。
「四年後だよ、四年後!真面目に聞いとけよ。俺は四年後から来た岡山宏!」

そう。今、僕の目の前にいる岡山宏は、四年後の未来から来た岡山宏、という設定らしい。

「四年後もお前はハイテンションなんだな」
「四年前もお前は冷めてるな」

僕と岡山は、大学1年生からの付き合いだ。
岡山は物理学部、僕は生命医学部と、学部こそ違うものの、下宿先の部屋が隣同士ということで自然と仲良くなった。そして、毎日何をするでもはく2人でだらだらつるみ続け、大学生活も残すところあと半年弱となっていた。

「未来から来たという俺に、お前は聞きたいことが沢山あるはずだ」
岡山はテーブルをばんばん叩きながら僕に質問を強要する。
「じゃぁ、四年後僕は何してんのさ」
「お前は、隅田製薬に勤めている」
「だろうな」
僕は既に隅田製薬に内定をもらっており、内定式も先週終わっていた。

「お前の質問つまんないんだよ。もっと聞くべきことが他にあるだろ。未来から親友が来る理由とかちゃんと考えながら会話してくれよ、まじで」
岡山が大きな声で喚く。
周りに迷惑になるのではと、僕はあたりを見渡したが、店内にさほど客はおらず、幸い誰も僕らを気にしていないようだった。

「あれだ、未来におこる僕の死を防ぎにやってきたとか?」
僕は適当に答える。
そもそも岡山は、一度何かをやりだしたら、他人に煙たがれようが迷惑がられようが自分が飽きるまでは決してやめない、傍迷惑で厄介なタイプなのだ。

「お前はシリアスなタイムトラベル小説の読みすぎだ。もっとポップでキュートな想定をしてくれ」
「岡山はポップでキュートなアニメばっか見てるから、そんなに頭の中お花畑になんだよ」
「お前は全世界のポップでキュートなアニメファンをたった今敵にまわしたぞ」

中身のない会話をしているうちに注文した定食がやってくる。
僕はさすがに昨日食べたばかりのラーメンを頼む気にもなれず、餃子定食を注文していた。
岡山は、「なつかしーなぁ!」という小芝居も忘れずに、早速ラーメンをすすりはじめた。
「ってかお前、昔はいっつも味噌ラーメン頼んでなかったっけ?なんで今日は餃子なの?」
麺を口に入れながら、未来から来た設定の彼は白々しく尋ねる。
「昨日もお前と行ったんだって」
僕は餃子を一口食べ、あまり腹が減っていないことに気づき、すぐに箸を置いた。

「で、結局岡山の目的はなんだよ。大事な話っていうから来たんだけど、いつもの悪ふざけなら卒論書きに帰りたいんだけど」
「悪ふざけじゃないって。俺はお前のためにわざわざ時空を超えて来たんだぞ。なんでだと思う?」
「僕をからかうため」
「お前を運命の相手と結びつけるためだよ」
岡山は、口に詰め込んだ米をラーメンの汁で流し込みながら、堂々と言う。
「いいか、これが決め台詞だぞ!」と主張する彼の心の声がダダ漏れて聞こえるぐらい、やけにはっきりした声に、僕はうんざりした。

「あぁ、そう」
「信じてないな」
「信じてる信じてる」
「まぁ俺の話をとりあえず聞け」
「お前がもったいぶってなかなか本題に入らなかったんじゃないか」
「まぁ聞け」
岡山はコップの水を飲み干すと、咳払いを一つして、芝居掛かったように小声で話し始めた。

「いいか、お前は半年後、運命の相手と出会う。もう、一目見ただけで「この人が運命の人だ!」とわかるぐらい、ビビッとくる。そんな人に出会うんだ」
「楽しみにしとくよ」
「まてまて、聞けって。本題はここからだ。お前は勿論その子に恋をする。好きで好きでたまらなくなる、病的なほどに。だけど、お前はその子と結ばれはしない」
「その子が不幸な死を遂げるとか?」
「その子はお前の友達の彼女だったからだ」
「ほう」
僕は、とりあえずまた餃子を一つ口に入れてみる。だが、やはり腹は空いていない。
岡山は気分がのってきているのか、それとも昨日食べたばかりのラーメンに飽きているのか、箸を置いて話し続ける。

「四年後、その子はお前の友達と結婚する。あ、この友達ってのは俺のことではないから安心しろ」
「安心した」
「おう。で、結婚式に招かれたお前は、美しい彼女のウエディングドレス姿を見て男泣きだ。もう俺にわんわん泣きつく。「あいつより先に僕が出会っていればーっ!」って具合にだ」
「お前に泣きつく未来なんて想像できないよ」
「それは、お前の想像力は乏しいからだ。とにかくお前は俺に泣きつくんだ。そして、心優しい俺は立ち上がる。過去を変えるために、四年前にタイムリープするんだ!」
「泣ける話だ」
「真面目に聞けよ」
「でも岡山、タイムリープってあれだろ。意識だけ過去に飛ばすってやつだろ?じゃぁ服装とか髪型までわざわざ変える小細工しなくても良かったんじゃないか?」
岡山はそのままの表情で数秒停止した。
そして、テーブルに乗り出していた身体を、硬い椅子の背もたれにゆっくり沈めさせた。
「お前って揚げ足取る天才だよな」
「ありがとう。ってことで茶番は終わりでいいか?」

僕は冷めかけたスープを飲み干し、餃子と岡山を残して席を立とうとした。
そんな僕を、岡山は何か策を思い出したかのように呼び止めた。
「あ、そうだそうだ。お前は今日、本当は珈琲屋に行くつもりだっただろう?」
その言葉に、僕は動きを止める。
「お前は、大学の近所の珈琲屋カフェサンに行くつもりだった」
「…なんで知ってんだよ」

確かに今朝は、なんだか無性にカフェサンのコーヒーが飲みたかった。
そして、実際に岡山に呼び出されるまでは、そちらに行く気だったのだ。
このことを誰かに言った覚えはないし、その珈琲屋自体にも特段頻繁に通っていたわけではない。

「四年前…つまり今日。お前がカフェサンに行っているまさにその時。お前の運命の人はこのラーメン屋でお前の友達と出会うんだ」
岡山の言葉を真に受けたわけではないが、僕は思わずキョロキョロ周りを見渡す。
客層は先程から変わっておらず、その中に僕の知人も、ビビッとくる女の子もいない。

「お前の友達は俺が既に追い払っておいた。」
あたりを見渡す僕を見て、嬉しそうに岡山が言う。
「そいつが誰か知ってしまったら、お前は罪悪感に苛まれるかもしれないからな。これは俺の優しい配慮だ」
「お気遣いどうもありがとう」
「で、もうじき、あのドアをお前の運命の人が開ける。お前はその瞬間恋に落ちる」
調子を取り戻した彼は、得意げに僕の1メートル程後ろにある木製のドアを指差した。
茶番だとはわかりつつも、すっかり岡山のペースに流され始めた僕は、抵抗する気にもなれず、彼が指差すラーメン屋の入り口を大人しく眺め始めた。

1分とたたないうちに、ドアについている鈴が、チリンと軽快な音を立てた。
ドアがゆっくりと開く。
「いらっしゃいませー」という気の抜けた定員の声が店内に響いた。

その女性は、長く伸ばした黒髪がとても綺麗な人だった。
背が高く、ジーンズが良く似合う。
彼女はゆっくりと視線を僕に向けた。
2人の目があった。
吊り目気味で真っ黒な瞳が、芯の強さを感じさせる。
綺麗だ、と思った。が、岡山が言うように「ビビッ」とは勿論こなかった。

「麻子ちゃん!奇遇!」
岡山が手をあげる。
「あれ、岡山先輩」
ヒールをコツコツ鳴らしながら、彼女が僕らのテーブルに近づいてきた。

「岡山、どういうこと」
僕は岡山をじっと睨む。
「彼女は俺の研究室の後輩の、三浦麻子さんです。いやぁ、奇遇だね。麻子ちゃん、良かったらここ座りなよ」
岡山が棒読みに言う。
三浦麻子は照れたように笑いながら、あっさり岡山の隣に腰をおろした。

あぁ、なるほど。そういうことか。
僕は岡山をまた睨んでから、彼女に「はじめまして」と挨拶をする。
岡山のシナリオにのるのは癪だったが、三浦麻子の感じの良い笑顔を見て、「まぁ、少しぐらいのせられてやってもいいかな」なんて、少しだけ思い始めていた。


【2018年 結婚式披露宴会場】

「いやぁ、ほんとおめでたいよな。全部俺のおかげだよなぁ」
既に酔いがまわっているのか、岡山が愉快そうに僕の肩を叩く。
「まさか麻子ちゃんと本当に結婚することになるなんてな。お前、一生俺に頭あがんないぞ」
岡山は四年前となんら変わらないテンションで声をあげて笑った。
永遠に続くかと思われた僕と岡山の縁は、就職を機にあっさり切れ、彼とこうやって話すのも二年ぶりだった。

「っていうか何で付き合ったって報告俺になかったわけ、俺が恋のキューピッドなのにさ」
「付き合ったのは卒業後だったし、そんなふうに恩着せがましくされるのが目に見えてたからだよ」
「ほんと、いつの時代もお前は冷たいよ」

結局四年前の茶番は、当時僕に好意を持っていた三浦麻子と、それを面白がった岡山の画策だった。
三浦麻子に僕を紹介する相談をしながら2人で飲んでいるうち盛り上がり、何故かあのような未来人設定に落ち着いたのだという。
「でも、それぐらい印象強い出会いじゃないと、付き合えないと思ったの」
僕と付き合い始めてしばらく経った頃、三浦麻子はそう言って恥ずかしそうに笑った。

「あ、そうだ、岡山」
そろそろ会場の前方に設けられている新郎新婦の席に戻ろうかと思った時、僕はふと四年前のことを思い出した。
「馬鹿らしすぎて今までずっと聞けてなかったんだけどさ」
ワインを口に運ぶ岡山は、「あ?」と間抜けな顔をして僕の言葉を待つ。
「お前さ、なんであの時、俺が珈琲屋に行くつもりだったって知ってたの?」

僕の問いかけに、岡山はぽかんとしている。酔いがまわっているうえに、四年も前のことを思い出せるわけないか、と僕は取り繕うように笑った。
「覚えてなきゃいいよ。どうせテキトーだったんだろうし。じゃぁ、戻るな」
「あ、まてまて」
岡山が眉間に人差し指を当て、何かを思い出す素ぶりをしながら僕を呼び止める。
「覚えてる覚えてる、珈琲屋カフェサンのことだろ?俺、記憶力だけはいいからさ。あれはテキトーじゃなかったよ」
「じゃぁなんで?」
「麻子ちゃんに教えてもらってたんだよ」
「え?」

身体の中の何かがざわめいた。
これ以上彼の言葉を聞いてはいけない気がした。
しかし、動くことはできず、ただ岡山の次の言葉を待つ。

「あの日、お前と会う直前に麻子ちゃんから連絡きてさ。お前、ツイッターやってただろ?俺はやってなかったけど」
「あ、あぁ、やってたかも」
「麻子ちゃん、こっそりお前のツイッター見てたんだって。それでお前があの日、カフェサン行こうとしてる呟きを見て、俺に情報共有したってわけ」
「麻子が?僕のツイッターを?」
「あ、ちなみに四年前はこれ口止めされてたんだけど、もう時効だよな?別に好きな人のツイッターこっそり見るぐらい可愛いもんだよ」
秘密の話を楽しむように笑う岡山に曖昧な返事をし、僕はその場を後にした。

確かに当時、僕はツイッターをしていた。
だけど、自分でツイートすることなんて殆どなかったはずだ。
そもそも就活前にケータイの機種変をして以来、ログインもしていない。
そんな僕のツイッターを、彼女が見ていた?
更新なんてされていないはずの呟きを、四年前彼女は発見した?
しかもそれは的中していた。

どういうことだろう。
さっきから身体中の血管を、どろっとした冷たい液体が流れているような違和感がある。
思考すればするほど、その液体は凝結し、大きな塊となっていく。

僕は少し1人になりたくなり、披露宴会場を出てトイレに向かおうとした。
何か忘れている記憶がある気がして、四年前のことを必死に思い出す。
回想に夢中になり、会場を出てすぐ、背の低い女性にぶつかってしまった。
「あ、すみません」
僕は謝りながら、ぶつかった衝撃で彼女が落としたハンカチを拾う。
その時、無性に懐かしい匂いがした気がした。
僕は思わず、ハンカチを拾おうとしゃがんだ体勢のまま彼女の顔を見上げた。

時間が止まった気がした。
「お前は半年後、運命の相手と出会う。もう、一目見ただけで「この人が運命の人だ!」とわかるぐらい、ビビッとくる。そんな人に出会うんだ」
四年前の岡山の台詞が頭を駆け巡る。
「ビビッ」という古い表現に苦笑いした記憶まで鮮やかに蘇った。

「あ、あの、すみません」
彼女は、自分を見上げたまま立ち上がろうとしない僕に視線を合わせるように、そっとしゃがみこむ。

「あ、えっと」
頭の中が真っ白になった。
心臓の鼓動が煩い。

「ハンカチ、ありがとうございます」
彼女が僕の顔を覗き込みながら、にっこり微笑んだ。
その笑顔を見るだけで、身体中に電気が走ったような感覚に襲われる。
その初めての感覚に内心パニックになりながらも、「あぁ、これがビビッてやつか」と冷静に考えている自分がいた。

「あ、ごめんなさい。はい」
なんとか冷静を装って、僕はその白いハンカチを彼女に手渡す。
その瞬間、頭の中がぐらっと揺れた。
僕はしゃがみこんだまま額を抑える。
記憶の波が押し寄せてくる。
その波はあまりにもぼんやりしているくせに、とても 激しくはっきりと僕の心を揺さぶった。
耳に音が届かなくなり、目の前が暗くなる。
すると、音のない映像が古びた映画のワンシーンのように頭の中で流れ始めた。

それは秋晴れの午前、珈琲屋カフェサンの店内だ。
僕はコーヒーを飲んでいる。
僕の正面には岡山がいる。
2人は何か話しているが、声は聞こえてこない。
僕らのテーブルの横を、1人の女性が通る。
その女性はハンカチを落とす。
白いハンカチだ。
岡山がそのハンカチを拾って、彼女を呼び止める。
彼女が振り返る。
「あれ、岡山先輩」
きょとんとした顔で僕らを振り返った彼女は、三浦麻子ではない。今、現実の世界で僕がぶつかった女性だ。
岡山が驚いたように彼女に話しかける。
この映像の中では、彼女以外の声は聞こえない。
「いいんですか?じゃぁご一緒させてもらおうかな」
岡山に何やら言われた彼女は、困ったように笑いながら、遠慮気味に岡山の隣に腰をおろす。
そして、正面にいる僕に優しく微笑みかける。
「はじめまして、私の名前は…」

「あの、大丈夫ですか?」
頭の中で再生されていたものと全く同じ声が、不安そうに僕に問いかける。
僕ははっとして立ち上がった。
「ご、ごめん。ちょっと目眩がして」
彼女もホッとしたように立ち上がる。
栗色の明るい髪をふわふわと巻いたタレ目の彼女は、麻子とは対照的な女性に見えた。
特別可愛いというわけでも、僕のタイプというわけでもない。
だけど、身体中が彼女を「好きだ」と叫んでいる。
そして、僕たちはどこかで確実に出会っていた。

「えっと、君は麻子の友達?」
声が震える。
「はい、大学時代の研究室の同期です。岡山さんの後輩です」
彼女はにこりと笑う。
僕は彼女を知っている。

「あの、僕たちどこかで…」
「あ、麻子!」
彼女が僕の後ろに視線を向け、その名前の女を呼ぶように手を挙げた。
さっき永遠の愛を誓ったばかりのその名前に、僕は背筋が凍るのを感じる。

「こんなところにいた」
麻子は僕の腕をそっと掴む。その声にはなんの感情も感じられない。
「そろそろ岡山さんのスピーチ始まるよ、席戻ろ」
ハンカチの彼女から僕の視線を引き剥がすよう、麻子は僕の腕をぐいぐい引っ張り、彼女から遠ざけていく。

「あ、麻子」
「うん?なに?」
腕を引かれる僕の視界には、彼女の表情が見えない。
「麻子ってさ」
頭が途端に冷静になる。
突然頭に浮かび上がった鮮明な映像。
初めてなはずなのに、懐かしいと感じる匂い。
ずっと身体の中に疼いていた違和感。
それらが、一つの馬鹿げた可能性へ僕を導く。

「麻子ってさ、タイムリープしたこと、ある?」
麻子がゆっくり振り返る。
純白のウエディングドレスを纏った彼女は、やはり美しく、そして、冷たく微笑んだ。

(そ)その痛み

今朝から歯が痛くて仕方ない。
しかし、今はそんなことに気を取られていては駄目だ。
今は、私の人生において、きっと重要な場面なのだ。
この場面に集中しなければならない。
私はぐっと眉間に皺をよせ、彼の泣き出しそうな横顔を無言で見つめた。

「佳子には本当に申し訳ないと思ってる。でも、もう決めたんだ」

今、私は4年付き合った男に捨てられようとしている。
しかも、彼は浮気相手と子供を作り、そのまま結婚するのだという。
こんな馬鹿げた話があっていいわけがない。

「佳子、本当に申し訳ない」

相手は誰なの?いつからなの?謝って済むと思ってるの?私の4年間どうしてくれるの?私よりその女が好きなの?
私の視線から逃れるように頭を下げる彼に、聞かなきゃいけないことが山ほどあるはずだった。
まさか、こんな形で裏切られるなんて。
いくら攻めても攻め足りないはずだった。

しかし、一言も発することができない。
少し口を開くと、歯に僅かな風があたり、とてつもなく滲みた。
別れ話と歯の痛み。
何故一度に両方やってくるのか。

私は静かに、できるだけ時間をかけて慎重に息を吐き出し、正面のフロントガラスを見つめる。
彼が黙ってしまうと、車内は重い沈黙に支配された。
付き合い始めた頃に彼が買ったこの車。
休みの日はよく出掛けたし、思い出は沢山詰まっていた。
私たちと一緒に生きてきたはずのこの車に、いつから私以外の女が乗るようになっていたのだろう。
いつから見覚えのないカラフルなブランケットが置かれ、いつから馴染みのない香水の匂いがするようになっていたのだろう。
そして、何故今の今まで、私はそれに気付かなかったのだろう。

涙がこぼれそうになった。
それが歯の痛みのせいなのか、失恋の痛みのせいなのかはわからないが、必死でこらえる。
私は失恋で泣くような女じゃない。
ましてや、歯が痛くて泣くような、か弱い女なんかじゃない。

永遠を思わせるような長い沈黙に耐えきれなくなったのか、彼が顔をあげてちらりとこちらを見る。
「佳子…?」
彼が私の名前を呼ぶのは、もうこれが最後なのかもしれない。
これはきっと悲劇だ。
しかし、私はこの悲劇に上手く集中できないでいる。
もう、限界だと思った。
歯の痛みも、心の痛みも。

「はが…」
思っていた以上に声がかすれた。
歯がキンと痛む。
彼は私の発言に首を傾げながら、「はが?」と、呟くように復唱した。
私はどうにか痛みを堪えて、言葉を絞り出す。
「歯が、痛いから、帰るね」

彼は「そう…、お大事に」と言って、去っていった。
これが、私たちの別れだった。


次の日は朝一で歯医者に行った。
会社は、体調不良を理由に休んだ。
夜も眠れないぐらい歯が痛いのだから全く仮病ではない。


「これは、シズイエンですね」
「しずい、えん?」
歯医者にて一通り検査が終わった後、ベテラン感のある医師がやけに溌剌とした声で私にそう告げた。
告げられた病名を漢字変換できないでいると、助手の女性がタブレットで説明資料を表示して見せてくれた。
「歯髄炎…」
なんだか禍々しい漢字の並びに、言いようのない不安が膨れ上がる。
「なんらかの原因で歯が圧迫されちゃって、神経が傷ついちゃってるんですよ。赤坂さんの場合、既にいくらか死んでる神経もあるみたいでね」
医師はそう言いながら、カラーで撮った私の前歯の写真を見せる。
「ほら、これが今痛んでる歯ですね。色が他の歯と比べてうっすら黒っぽいでしょ。これ、神経が死んでる証拠です。で、今は、生きてる残りの神経が傷ついて痛んでるって状態ですね」

私の神経が、死んでいる?

「赤坂さんの場合、親知らずが原因かもしれないですね。親知らずが歯をどんどんおしていって、前歯に皺寄せがきたのかも。それで、神経が死にかけてる」

残りの神経は、死にかけている?

「どうしましょうか。神経を全て抜いて痛みをとってしまうか、様子を見るか」
医師は「神経を抜くこと」が、まるで何でもないことのように軽い口調で尋ねた。
これまで神経を抜いたこともなければ、虫歯を持ったこともない私は、かなり狼狽した。
「このまま放っておいて、酷くなることもあるんでしょうか」
すぐには決断できずに、恐る恐る尋ねる。
「勿論ありますよ。さらに痛んでこのまま神経が死んでしまう可能性もありますし。でも、あっさり治ることもあります」

悩んだ末、神経を自ら殺すことに怖じけた私は、とりあえず様子を見ることを選んだ。

自宅に帰ると、コートのままベッドに倒れこんだ。
歯医者では、下の歯に当たってダメージを与えないよう、痛む上前歯を少し削った。
削ったのは僅かであったが、鏡を見ると隣の前歯との高さは明らかに違っていて、なんだか一層惨めな気分になった。

寝転びながら、私はふと、今死にかけている前歯の神経を思い浮かべる。
と言っても、神経なんて見たことがないので、代わりに細い細い糸をイメージした。
頭に浮かぶその糸は、何故かボロボロな操り人形に何本も繋がっている。
複数あるはずの糸は殆どが切れており、人形はがっくり項垂れ、手足もだらりと垂れ下がっている。
人形の胴体に繋がった数本の細い糸により、どうにかその身体は倒れずにいる状態だ。
しかし、糸は1秒ごとにミシミシと音を立て、いつ切れてしまうかもわからない。

こんなの、もう切れてしまったほうがいいのかもしれない。
生きているほうが惨めじゃないか。

痛み止めの副作用か、眠気が込み上げてくる。
歯の痛みが少しおさまってきたことで、脳に余裕ができたのか、昨夜の光景が漸くフラッシュバックしてきた。

あまりにもあっけなく終わったあの恋に、私は何を求めていたんだろう。
私の4年間はなんだったんだろう。
どうして、あの時泣けなかったんだろう。
歯が痛いって、泣き喚けば良かったのだ。
幼い頃そうしていたように、「痛い、痛い」と、泣き続ければ良かったのだ。
そしたら彼はきっとオロオロして、助けてくれたかもしれない。
私を1人にしなかったかもしれない。

今更涙がこぼれた。
死にゆく私の神経とともにイメージしてしまったあのボロボロな人形。
今にも糸が切れて、ばたりと倒れてしまいそうな人形。
あれは、私だ。
ここ数年間、彼の前ではおろか、1人の時も泣いたことがなかった。
泣きたくなることなんて数えられないほどあったのに、私は泣けなかった。
泣くのを我慢するたび、糸はぷちぷちと切れていた。
どうして、こんな中途半端に大人になってしまったのだろう。
どうして大人は歯が痛くて泣いてはいけないのだろう。
どうして私は失恋して泣いてはいけないと思っているのだろう。
どうして、こんなことになっているのだろう。

歯がキンと痛んだ。
私は思わず飛び起きる。
無意識のうちに、歯を食いしばってしまったようだ。
なんとも厄介な爆弾を抱えてしまった。
「まだ、生きてるのか…」
無意識に呟く。
痛みがあるということは、まだ私の神経は生きている。
私が失恋してようが絶望してようがお構いなく、私の歯の神経は今も悲鳴をあげて痛みに耐え続けている。
そう思うと、この厄介すぎる爆弾が、ほんの少しだけ愛しく思えた気がした。
痛む限り、生き続けている。
生き続ける限り、痛みがある。

今。
今は、とりあえず生きている。

さて、これからどうしたものか。

(し)死にたがりのシチュエーション

理想の死に方は不慮の事故だ。
たとえば、青信号の横断歩道を渡っている最中、信号無視で突っ込んできた車に撥ねられて死ぬのが好ましい。
さらに言えば、その車の運転手が飲酒していたり薬物中毒者であれば、一層同情も集まるので好ましい。
もっと欲を出すのであれば、車に撥ねられそうになっている子供を助け、身代わりに死ぬくらいが最高に理想の形だ。
子供の命を救った僕を、世間は褒め称え、その死は尊いものとなるからだ。


そんなことを考えながら、僕は通勤用バッグを片手に、早足に朝の横断歩道を渡る。
信号待ちをする両車線の車は、行儀良く停止線の少し前で停車し、動き出す気配もない。
何も起こらなかったことに落胆することもなく、そのままいつものバス停までたんたんと歩みを進める。


自殺は駄目だ。
自殺するに値するようなカード、たとえば過酷な労働環境や耐え難い人間関係、借金や恋人の裏切り等を僕は持っていないからだ。
理由もなく死んで、「命を粗末にしやがって」なんていうバッシングを死んでから受けることは避けたい。
死ぬからにはせめて同情されたいのだ。
だから、僕の場合、自殺ではなく、不慮の事故が望ましい。


いつものバス停に、いつもの時刻に到着する。
いつものように10人程が既に列を作っており、僕はその最後尾にそっと着いた。


死を望む理由は特にない。
ただ、この毎日の繰り返しに嫌気がさした。
心から信頼できる友人も、一生寄り添いたいと思える恋人も、のめり込める趣味も、やりがいを感じれる仕事もない。
こんな毎日をあと何千回も繰り返すのだと思うと、途方に暮れるしかない。
死ぬための強い理由がないように、生きるための強い理由も僕は持っていなかった。


バスがきた。
誰1人として降ろさないバスは、僕を含めたこの列をゆっくりと飲み込み始める。
バスのステップを上がったところで、後ろの乗客に身体を押され、前にいた中年男性の靴の踵を踏んでしまう。
こちらを振り返る男性から、すかさず目を逸らしたところでバスの扉がガシャリと閉まり、ゆっくりと発進した。


事件に巻き込まれることも、理想の死に方だ。
たとえば、この満員バスの中に凶悪なテロリストが乗っていて、無差別に発砲した銃弾に当たって死ぬのが好ましい。
欲を出すのであれば、銃口を向けられた女性を庇って死ぬなんて最高だ。
最悪の事態の中で、勇敢にも女性を救った僕は英雄となり、死して初めて光を浴びることができるからだ。


十数分バスは走り続け、漸く僕の会社付近のバス停に到着した。
人を掻き分けながらバスを降り、また僕は歩き始める。
長いゆるやかな坂道を下ると、踏切に差し掛かる。
図ったかのようなタイミングで踏切の警報機が鳴り始め、僕の目の前で遮断機がゆっくりと下りた。


たとえば…、
いつものように、僕は理想の死について想像し始める。
たとえば電車が断線して道路に突っ込んでくれば、たとえば電車が通過する直前に誰かに背中を押されれば…

ガシャン、という大きな音が、すぐそばで鳴った。
驚いて音の方を見ると、遮断機に前輪をぶつけた自転車が一瞬数センチ宙に浮いて、落ちていくところだった。
無人の自転車が、派手な音を立てて地面に打ち付けられるのを横目に、僕は踏切に目をやる。
遮断機の向こうには、線路の上を横断するような形でうつ伏せに倒れている男性が見えた。
その男性が直前まで見ていたのであろうスマートフォンが、地面を勢い良くスライドし、踏切の向こう側に立っている女性の足元で止まった。

あたりが一瞬静まり返った気がした。

実際には警報機が絶え間なく足り続けていたはずだが、この世の音が全て消え去ったかのような錯覚に陥った。

線路の上に横たわる男性は、呻くように動いているが、打ち所が悪かったのか、それとも脚を折ったのか、自力で移動することができないようだった。

「これはチャンスだ」と、僕の頭が言った。
「お前が望み続けていたシチュエーションだ」と。

踏切の警報機はカンカンと鳴り続ける。
もう10秒もたたずに電車がやってくる。非常ボタンを押してもきっと間に合わない。

僕はあの男性を助けることができる。
あの男性を線路から押し出して、代わりに自分が死ぬのだ。
やっと死ぬための大義名分ができるのだ。
仮に間に合わずに2人とも死ぬことになっても誰も僕を責めないし、助けるのが上手く間に合って2人とも生きていたなら、僕はちょっとした英雄になれる。
どの結果に転んでも、僕にとってはプラスになる。
これは、僕が望み続けたシチュエーションなのだ。

しかし、僕の足は地に根が生えたかのように動かなかった。
心臓の鼓動が早まり、血はドクドクと体内を激しく巡り続けているというのに、指一本動かなかった。

僕の後ろにいた男の子が、勢いよく遮断機の上を飛び越え、倒れている男性に駆け寄った。
このあたりの中学校の制服を着たその男の子は、男性の両腕を引っ張り、なんとか線路からどかそうとする。
それとほぼ同時に、踏切の向こう側にいた女性が、ヒールをその場に脱ぎ捨て、遮断機の下をくぐり、中学生に加勢した。
踏切の前で呆然としていたサラリーマン風の男たちは、彼女らの動きにつられるように踏切の中に入って手を貸した。
踏切の中にいた全員が、僕と反対側の遮断機の外に出た約3秒後、電車は踏切を通過した。
警報機はボリュームを下げた後完全に鳴り止み、何事もなかったかのように遮断機が開いた。

さっきまで足が動かなかったのが嘘のように、僕は自然と一歩を踏み出し、踏切を渡り始めた。
心臓は、ドクドクとまだ音を立て続けたままだ。

踏切を渡り終え、線路のそばにできている人だかりに恐る恐る目をやった。
中学生や、倒れている男性の姿は、それを取り囲む人たちによって見えなかった。
しかし、その人だかりを抜けて、ケータイ電話で救急車を呼ぶ裸足の女性と一瞬だけ目があった。
彼女は僕を非難することも、軽蔑の眼差しをおくることもなかった。
彼女は、そもそも僕なんて見えていないかのように自然と視線を外し、電話対応を続けた。

ここにいる全ての人にとって、僕は「無」だった。
僕は歩みを止める。
もう一歩も踏み出せないような絶望が全身を包みこむ。

僕以外のざわめきを抑え込むかのように、後ろでまた踏切の警報機が鳴り始めた。

(せ)セントエルモの火

息子が万引きをした。
それは僕にとって、かなりセンセーショナルな事件だった。

僕が務める会社に、颯太の通う小学校から電話がかかってくるなんてことは初めてだったし、颯太が万引きという「非行」に走ったのもやはり初めてだった。


会社の同僚に早退することを謝り、小学校の先生に迷惑をかけたことを謝り、コンビニの店長には万引きした商品の代金を支払った上で何度も何度も謝った。
そうしているうちにすっかり日は暮れ、当の颯太は結局殆ど僕と話をしないまま眠りについてしまった。

本来であれば、親として、その日のうちに息子の話を聞き、しっかり叱らねばいけないことはわかっていた。
しかし、「ごめんなさい」としゃっくりをあげて泣き続ける颯太から話を聞き出す強さも、説教できる威厳も僕にはなかった。


「息子と向き合う」という最も大切な父親の務めを明日に先送りし、どこかほっとしている自分の臆病さにうんざりしながら、泣き疲れてソファーで寝てしまった颯太に僕はそっと毛布をかける。
「ごめんな、こんな父親で」
そっと触れた颯太の頬は、涙が乾いてべっとりとしていた。
「美咲も、ごめん」
僕は、ソファーの後ろの戸棚に飾ってある妻の写真に向かって呟く。
「全然上手く父親できてないよな、ごめん」
今日は謝ってばかりだ。

僕は美咲の写真から目をそらすと、視界に入ったお菓子の箱を手に取って、眠っている颯太の横に腰をおろす。
颯太が盗ったのは、人気アニメのキャラクターカードがついているそのお菓子1つだった。
僕は何の気もなくカード袋の封を切り、中身を取り出してみる。
キラキラ光る銀色のコーティングがなされたそのカードには、皮肉にも「レアカード!」と書かれていた。
僕は思わず笑ってしまう。
息子が万引きするなんて、確かにレアかもしれない。
いや、もしかしたら大人が気づかないだけで、こんなこと少年たちの間では日常茶飯事なのかもしれない。

お小遣いは不自由なくあげていたつもりだった。
毎年親戚から貰うお年玉だって、颯太自身に渡していた。それに、お菓子ぐらい僕に頼めばいくらでも買ってやった。
なのに、どうして颯太は万引きなんてしなければならなかったのか。

僕の頭には、ちらりと「いじめ」という言葉が浮かんだ。
万引きを強要するイジメがあることは、ドラマや漫画で知っていた。もしかすると、颯太はその被害者なのかもしれない。

だけど、もしそうじゃなかったら?
息子贔屓かもしれないが、颯太は決していじめられるようなタイプではない。
背も高く、小学2年生の頃から4年続けているサッカーのおかげで、身体も他の子と比べてがっしりしている。
成績も悪くないし、何より明るくて活発な子だった。
しかし、そんな子が何か些細なことがきっかけでいじめられてしまうことだって多分にあるのだろう。

僕はため息をもらす。
実際はどうなんだろう。
僕はどちらを望んでいるんだろう。
颯太がいじめられていて、嫌々万引きをやらされた現実か。
それとも、颯太が自分の意志で万引きをした現実か。
どちらの方が親として責任がないのだろう。
そこまで考えて、僕はまた自己嫌悪に苛まれる。
ここにきても、僕は僕の落ち度だけを心配してしまっているのか。

「本当に、くそみたいな親だな」
美咲が病死してから2年。
弱音だらけの独り言は日に日に増えていく。
「どっちにしたって、僕は颯太と向き合うのが怖いよ」
僕はぐっと目を瞑り、空から落ちてくる槍から身を守るように、ソファーの上で縮こまった。手にしたままのカードが、掌の中でぐしゃっと音を立てた。

「本当、あきくんは弱っちいなぁ」
ぼんやり聞こえた懐かしい声に、僕ははっと顔を上げる。
そこにはいつもと変わらない、物が散乱したままのリビングがあるだけだった。
僕は自嘲しながらため息をつく。
死んでしまってもなお、美咲に縋りつこうとしている自分がもはや可笑しかった。
ゆっくり目を閉じると、途端に眠気が込み上げてきた。
襲い来る睡魔に抗う気もおこらず、僕はあっさりそれを受け入れようとソファーの背もたれに身体を沈める。
もう何も考えたくなかった。

「寝ちゃだめだってば。明日颯太とちゃんと話さなきゃだめなんでしょ。あきくん、ちゃんとできるの?」
頭の中にかかった靄を切り裂くような、はっきりとしたその声に、僕は飛び起きる。
今度は間違いない。
確かに美咲の声がしたのだ。
僕は目の前の光景に焦点を合わせる。
もうここは夢の中なのか、それとも幻なのか。
すっかり見慣れた寂しい空間には、毎日毎日焦がれるほど望み続けた美咲の姿があった。

「あ、あ…。美咲…」
呆れるぐらい情けない声がぼくの口から漏れる。唇はわなわなと震えていた。
「美咲、なのか」
テーブルの向こうで、カーペットの上にちょこんと座る美咲は、眉を下げて「そうだけど?」と笑った。
その呆れたような笑顔が懐かしくて、鼻の奥がつんとした。


「なんで、美咲が。幽霊?夢?」
僕はソファーから転げ落ちるようにふらふらと美咲のそばに寄ると、その華奢な肩に手を伸ばす。
心のどこかで、触れようとしても透けてしまうのではないか、と覚悟していた。しかし、意外にも僕の手は美咲の実体をとらえ、その温かい体温までも感じられた。
「さぁ。わかんないし、覚えてもないけど、あきくんが今困ってるのは知ってるよ。困りきって逃げそうになってることも」
美咲は、僕が手にしたままのぐしゃぐしゃのカードを指差しながら、僕に問いかける。
「さて、あきくんは明日颯太とどう向き合うのでしょうか」

こんなわけのわからない状況でも、美咲の顔を見ているうちに不思議と心は落ち着き始めていた。
残念ながら、これらきっと夢なのだ。
僕の弱い心が、夢に彼女を呼び出したのだ。
情けない状態ではあるが、夢の中なのだから、僕は思う存分美咲に甘えられるし、助けを乞うこともできる。
僕は肩の力をふっと抜いて、素直に美咲に今の思いをぶつけることにした。

「さあ、どうすればいいんだろう。とりあえず万引きの理由を聞くんだろうけど、正直に話してくれるかな」
美咲は「どうだろうね」とだけ呟く。
いつ覚めるかもわからないこの夢の中で、沈黙している時間がとても勿体無く感じられ、僕は続けざまに口をひらく。
「颯太がいじめられてるって可能性はないよな?無理矢理やらされたとか」
「あるかもしれないね。あなたは颯太がいじめられるタイプじゃないと思ってるみたいだけど、あの子、小学2年生の時いじめられてたしね」
「え?うそ」
「ほんと。同じマンションの上級生に」
美咲は、まるで何でもないことのように答える。
驚くべき事実に、僕は「どうして僕は知らなかったの」と、弱々しく尋ねるしかない。
「だって、その頃といえば、あきくんは出世がかかった大事なプロジェクトのリーダー様だったからね。殆ど家にいなかったし、大変そうだっから耳に入れなかったのよ。プロジェクトが落ち着く頃にはいじめも終息してたし」
「そういう問題かよ」
「でも、当時言ってたとしても、あきくんは困っちゃうだけで、何もできなかったでしょう」
美咲の遠慮のない指摘に僕は返す言葉がない。
夫婦喧嘩となればいつだって、美咲の完全勝利だったことを思い出す。
「それで、いじめはどうやって解決できたの?」
「それはもう、私がいじめっ子たちのところに行って、泣くまで叱ってやったのよ。騒ぎに駆けつけたいじめっ子の母親たちも味方になってくれて、トドメをさして終了。そっから颯太もサッカーやりだして逞しくなってったしね。見事な解決っぷりでしょう」
「君はいつも大胆すぎるよ」
僕は呆れた表情を作りながらも、内心感心していた。


僕ならよその子を叱るなんて到底できない。僕の行動のせいでもし颯太が余計酷い目にあってしまったら、とか、いじめっ子の親が怒鳴りこんできたら、とか、常識的に考えられるあらゆることを想定して動けなくなってしまうだろう。
しかし、美咲は違う。
一応色々想定したうえで、「そんなの知るか」と動き出せてしまうのだ。
勿論美咲の人生においては、それで失敗することの方が多かったに違いないのだが、彼女はその生き方を最後まで貫き通した。
そんな彼女に僕は、どうしようもなく惹かれていたのは事実だ。

「まぁ、そういうことで、もしかしたらまた誰かにいじめられてるのかもしれない。そしたらあきくんはどうするの?」
美咲は僕を真っ直ぐ見つめる。
投げかけられた言葉を、僕は頭の中で反芻する。

颯太がいじめられていたとしたら。
そう考えた時、内心どこか安心している自分に気付く。
颯太がいじめを受けていることは心苦しいし、許せない。
しかし、いじめられていたならば、今回の万引きは颯太が悪いのではない。
むしろ颯太は被害者なのだ。
そう思うと、自分も「親の責任」という重荷から逃れられたような気がした。
しかし、心が軽くなるのは一瞬だけで、すぐにまた別のずっしりした重荷が僕を襲う。
万引き問題はそれで済んでも、いじめという過酷な問題が、僕と颯太を捕らえ続けるのだ。
僕は「いじめの解決」という模範解答の存在しない課題に押しつぶされる日々を想像しただけで絶句し、助けを求めるように美咲の大きな瞳を見つめ返す。


僕がギブアップしたと判断した美咲は、小さく溜息を漏らす。
「私が言うのもあれだけど。残念ながら、颯太の親はもうあきくんしかいないんだよ。これから何がおこっても、あきくんは颯太と2人で立ち向かっていかなきゃならないんだよ」
美咲はまた僕を見つめる。
思いの外優しいその眼差しに、僕は涙腺が緩み出すのを感じ、ぐっと歯をくいしばる。
いくら夢であれど、彼女の前で泣くのはあまりにも情けない。


僕はわざとふざけたように唇を突き出しながら、涙を誤魔化すために軽口を叩くことにする。
「立ち向かうって、君みたいにいじめっ子の家に殴り込むってこと?」
「あぁ、それはだめだよ。あきくんみたいな弱っちそうなのがでてきても、返り討ちにされちゃう」
美咲の思わぬ返答に、言葉を失う。
僕は妻にずっと、「弱っちそう」と思われていたのか。
「じゃ、じゃぁどうすれは」
どうにか声になった言葉は、なるほど確かに弱っちい奴のそれだった。
「うーん、そうだねぇ」

静かな沈黙が生まれる。
壁に掛かった時計の秒針がチクタクチクタク4回鳴り、沈黙を恐れる僕が無計画に口を開こうとした時、美咲が呟くように話し始めた。
「私さ、いじめられてたことあるんだよね、中学生の頃」
「え?」
初耳だった。
僕と美咲が出会ったのは大学生の頃だから、それ以前のことは、美咲が話すこと以外殆ど知らないのは当然だ。
しかし「いじめ」と「美咲」は全く別の世界にカテゴライズされているような気がして、颯太がいじめられていたと聞いた時よりその事実は信じられなかった。

「生意気だとか、調子乗ってるとか、まぁよくわからない理由で、無視とか嫌がらせとかされてたことがあってね。担任も知らんぷりだし、私も参ってて」
美咲は、珍しくぼそぼそと話を続ける。
「今思えば馬鹿らしいけど、その頃は学校だけが自分の世界だったからね。そこに居場所がないって事実がもう恐ろしくて。死んじゃおっかなって思ったこともあったの。まぁ実際今は死んじゃってるんだけど」
僕は、美咲の取って付けたような幽霊ジョークに反応できないぐらい、ショックを受けていた。
明るくて優しくて強い、僕の最愛の妻を、そんなにも追い詰めた人間がこの世にいただなんて。
もう20年以上も前のことだとわかっていながら、美咲を追い込んだ人間に、計り知れない怒りを覚えた。
「でね、そんな時、いじめられてることが親にばれちゃってね。恥ずかしいし情けないし、もう最悪だーって思ったんだけど、そっから毎日両親がどうすればいいのか熱心に考えてくれてね。その解決策がまた全部ぶっとんでて、全く役立つことはなかったんだけどさ」
美咲は少し照れたように笑った。


僕は、数年前に亡くなった美咲の両親の逞しい顔を思い浮かべる。
美咲の大胆さや強さはこの親あってのものなのか、と、結婚当初しみじみ納得してしまったことを思い出し、僕も思わず笑みをこぼした。
「でも、ありがたかったんだ。あんな情けなかった私のこと、恥ずかしがることも、目を逸らすこともせず、一緒に悩んでくれてさ」
結局いじめは、クラス替えと同時にあっさり消滅したのだと、美咲は話してくれた。


「話を戻すけどね。もしも颯太がいじめられてたとしても、あきくんが投げ出さずに、しっかり颯太の話を聞いて、一緒にうんうん唸りながら、解決策を考え続ければ、颯太は大丈夫だよ、きっと」
「君の子だから?」
「そう、私の子だから」
美咲はにっこり笑う。

ソファーで眠っている颯太が、小さく寝返りをうつ。美咲はゆっくり颯太のそばに寄り、愛おしそうにその髪を撫でた。
それはとても美しい光景のように思えた。
時計は、深夜3時をさしていた。

しばらく颯太の寝顔を幸せそうに見つめていたは美咲は、ふと思い出したかのように再び僕に呼びかける。
「それより、あきくん。いじめの可能性を心配するのもいいんだけど、颯太が自分の意志で万引きしてた場合の対応がわりと重要なんじゃないの、親としては」
「確かに」
何となく話がまとまった気になっていたが、まだ颯太との向き合い方を僕は全く定められていなかった。

「もしも颯太の意志で万引きをしていたなら、どうすればいいんだろう。怒るのかな?諭すのかな?美咲のご両親はどうしてた?」
「知るわけないでしょ、私、万引きなんてしたことないし」
思わず口にした問いかけをぴしゃりと跳ね返され、僕はしゅんとしてしまう。

「あきくんは?したことないの?万引き」
「え?」
あるわけないじゃないか、と言いかけて、僕は口をつぐんだ。
「え、あるの?」
美咲は意外そうに、僕が再び話し始めるのを待っている。

その時、僕の頭の中では、幼い頃の記憶が驚くほど鮮明に再生され始めていた。
それは、今日まで全く思い出されることのない記憶だった。

「未遂を、おかしたことは、あるかも」
僕は突然呼び覚まされた記憶に戸惑いながら続ける。
「小学生になりたてぐらいの頃かな、ショッピングモールの文房具売り場で、お試し用のペンや消しゴムを並べてるコーナーがあったんだ」
やけにはっきりと思い出せるそのコーナーには、フルーツやパンの形をした色とりどりの消しゴムが沢山置いてあった。

幼い僕は、それらにとても心を惹かれていた。
親に言えば買ってもらえたかもしれない。そもそも冷静に考えれば、それほど欲しいものでもなかったかもしれない。
だけど、何故か僕はその中の1つ、パイナップルの形をした黄色い消ゴムを、ズボンのポケットに入れてしまったのだ。


「なんで盗っちゃったのかは覚えてないんだ。ポケットに入れたことは誰にもばれなかった。でも、だんだん僕は怖くなってきて、ショッピングモールのトイレに駆け込んで、洗面台のところにその消しゴムを置いて逃げたんだ」


消しゴムを置いた洗面台の位置まで詳細に思い出せることを、何より僕が驚いていた。
今までほんの一瞬たりとも思い出されることのなかった記憶が、どうしてここまで完璧に僕の頭に記録されているのか。


「まぁ未遂ってのがあきくんらしいよね」
僕の話を一通り聞いて、美咲は愉快そうに笑った。
「でも、その時あきくんは何が怖くなっちゃったんだろう。実際ばれずにその売り場は抜け出せたんでしょ?」
「うーん」


僕は再び記憶の中に潜り込む。
あの時、僕は万引きがバレることを恐れていたわけじゃなかったはずだ。
あんな小さな消しゴムが僕のズボンに入ってることなんて誰にもわからなかったし、そもそもあれは、沢山あったお試し用の1つで、売り物でもなかった。
お店の人はなくなったことにも気付かないだろうし、気付いたとしても大した問題にはしないだろうと、僕は幼いなりに考えていたはずだ。
では、僕は何を恐れていたのだろう。

「誇りを、失うのが怖かったんだと思う」
その言葉は、意外にもすっと僕の口からでてきた。
言葉にした後で、「誇り」という大袈裟な表現に少し恥ずかしさを感じたが、それが一番自分の中でしっくりときた。
その言葉は、幼かったあの頃では、きっとどれほど考えても辿り着けなかった答えだった。


「盗んだことはばれなくても、僕は盗んだことを知っている。その罪悪感をこれからずっと持ち続けることに、僕は恐ろしくなったんだ。一度そんなずるいことをしてしまって、これから自分を信じられなくなることも。僕はそれが怖かったんだと思う」
「それも、とてもあきくんらしいね」
美咲が優しく笑いかける。
その美しい表情に、あんなに堪えようと決めていた涙が、いとも簡単に僕の目からぽろりと落ちた。


「未遂」と言えど、長年鮮明な記憶として僕の頭に残っていたこの罪を、美咲が赦してくれたような気がした。


「その話を、颯太にもしてあげればいいよ」
美咲は、堰を切ったように涙を流し続ける僕の頭をぽんぽんと撫でながら、ゆっくり語りかける。
「颯太、ずっと泣いていたんでしょう。きっと罪の意識に潰されそうになって苦しんでるのよ。何でそんなことしたのかは聞かなくちゃいけないし、やってしまったことはちゃんと叱らなきゃいけない。その後で、あなたのその話をしてあげて。きっと、今のあの子はあなたの話がよくわかるはずだから」
「ちゃんと伝わるかな?このままぐれたりしないかな?」
子供のように泣きじゃくる僕は、まるでさっきまでの颯太みたいだった。
不安で、不安で、ただ怖かった。
「大丈夫」
そんな不安を、美咲の言葉がゆっくり消し去っていく。
「僕の子だから?」
「あきくんの子だから」
笑顔を作ろうとするが、うまくいかない。
こんなにも充たされた気持ちなのに、涙は止まる気配がない。
それから美咲は長い時間、2年間ため続けたありったけの僕の弱音を、呆れもせず受け止め続けてくれた。

いつの間にか、カーテンの隙間から弱々しい光が遠慮がちに差し込んできた。
隣の部屋から、微かに生活を始める音が聞こえ始める。
朝がきた。

泣き疲れて、もう涙もでなくなった僕は、そっと美咲の手を握りしめる。
その手はやはりとても温かく、彼女がこの世に既にいないだなんて、とても信じられなかった。
だけど、美咲はもういない。

幽霊は朝が来れば消えてしまうし、夢は目覚めれば終わってしまう。
今ここに美咲がいるという奇跡が、どうして起こりえたのか、僕には想像することもできない。
しかし、そんな奇跡もきっと今終わりを迎えようとしている。

「美咲、美咲」
ごめん。最後にそう言おうとした。
こんなに情けなくて、弱っちい僕が生きていて、こんなにも強くて優しい美咲が死ぬなんて。
颯太に申し訳ない。
美咲に申し訳ない。


「あきくん」
美咲は、僕の名前を一音一音大事そうに、丁寧に呼んだ。
そして、壊れやすい、愛しいものに触れるように、そっと僕の頬に手をあてる。
「ありがとうね」
それが何に対しての言葉なのかもわからないまま、僕はただぶんぶんと首を振る。
美咲にありがとうと言われることなんて、僕は何一つできていないのだ。


「あきくんは大丈夫だよ」
美咲は優しく言葉を続ける。
「私が信じた人だから」
急に視界が霞む。
猛烈な眠気が僕を襲う。
駄目だ、寝ちゃ駄目だ。僕の頭は必死にそう呼びかけるのに、そんな命令などお構いなしに、瞼はずんと重くなる。
「美咲…」
いかないでほしい。幽霊でも夢でもいい。お願いだから、行かないで。
「そして、颯太も大丈夫だよ」
「美咲の、子、だから?」
途切れそうになる意識をどうにか繋ぎ止めながら、僕はなんとか笑ってみせる。
「行かないで」と「安心して行って」という矛盾した思いが、僕の中で激しくせめぎ合う。
「ちがうよ」
美咲は僕の手をぎゅっと握りしめる。
「私とあきくんの子だから」

こんなことを言うのはかなり恥ずかしいことだとわかっているが、優しい朝陽を浴びながら微笑む美咲は、我が妻ながら、天使のようだった。

「美咲」
何よりも愛しいその名前を、呼び終えたか、終えなかったか。
僕の意識はそこで途切れた。


目覚めた時はもう昼過ぎだった。
美咲の姿は勿論どこにもなかった。
自分の頬に触れると、颯太がそうだったように涙が乾いてパリパリになっていた。
僕は呆然としたまま、隣でまだぐっすり眠っている颯太の寝顔を見つめる。
安らかに眠っている颯太の口元は、どこか幸せそうに笑っていた。
「お前もお母さんの夢、見てるのか?」
そうだとしたら嬉しい。
自然と頬が緩んだ。
颯太と向き合う覚悟は既にできていた。
「ありがとう」
僕はソファーから立ち上がり、美咲が幸せそうに笑う写真に向かって呟きながら、颯太とのこれからを思った。

(く)クリスマス・サプライズ

隣の席に座った男の顔を見たとき、ぴんときた。男が網棚に何やら荷物を押し込み、座席に腰掛ける際、一瞬だけ目があったのだ。
その「ぴん」は、運命の人を見つけた時の「ぴん」でもなければ、「あ、◯◯さんだ」という明確な「ぴん」でもない。
誰かはわからないし、恐らく知り合いでもない。
しかし、どこかで見たことがあって、しかも割と重要な人物なのではないか、という警察官の勘による「ぴん」だった。
とは言っても今はもう勤務外で、僕は家族のもとに帰る電車に乗っていた。
普段であれば勤務外だとしても、何らかの事件と関連があるかもしれない人間を見ると必死に頭を回転させ、その人物の動向を探るぐらいのことはするのだが、今日は全くそんな使命感は湧いてこない。
もしも仮にこの男が犯罪者だったとして、僕が下手に気付いてしまいでもしたら、今晩は家に帰れなくなってしまうかもしれない。
何があってもそれだけは避けたい。
今日は愛すべき家族と過ごす年に一度のクリスマスイブなのだから。

時刻はすでに21時を過ぎていた。
本来なら18時には勤務先である交番を出て、19時には自宅に着けるはずだった。
しかし、そういう日に限ってごたごたした些細な事件は起こるものだ。
くだらない残業を終え、予定より2時間遅れて僕は電車に乗り込んでいた。

車内は程よく混んでおり、仕事帰りのサラリーマンや、デート帰りの若いカップルたちが、通路を挟んで二席ずつ並べられた座席を埋めていた。
あと30分もすれば自宅の最寄り駅に着く頃だ。
僕は足元に置いた紙袋の中身をちらりと確認する。
ロフトの紙袋の中には真っ赤な衣装が入っている。それはサンタクロースの衣装で、ご丁寧にふわふわした真っ白い付け髭までついている。
サンタクロースサプライズは、そろそろサンタの存在を疑い始めた小学二年生の娘、彩香のために準備したものだった。
準備したと言っても、交番の近所の小学校でサンタの格好をして交通指導した時のものを物置から引っ張り出してきただけなのだが。
僕は背もたれに上半身を預けながら、娘のことを思い浮かべる。
サンタの正体を暴こうと、薄眼をあけて寝たふりをする彩香。暗闇の中、プレゼントを持って現れるサンタ。
彩香は起き上がるだろうか、それともドキドキしながらも眠ったふりを続けるだろうか。
自然と頬が緩んだ。

そんな僕の平和で安らかな妄想を打ち砕いたのは、キィーっというけたたましいブレーキ音だった。
僕は思わず窓の外を見る。
電車は大きな川に架かる橋の丁度真ん中あたりを走っていて、窓の外には殆ど灯りが見えない。勿論外が明るくてもここからでは電車がブレーキをかける原因等わかるわけもないのだが。
窓からは辛うじて雪がちらつき始めていることが確認できた。
ブレーキ音を合図に電車はみるみる減速し、数秒後には完全に停止してしまった。
車内が静まり返ると同時にアナウンスが入る。緊急事態に慌てているのか、それとも普段からそんな感じなのか、やけに早口の女性が、緊急停車を無感情に詫びた。車体に何らかの異変が確認されたが、それが何なのかはわからないという旨も同時に伝えられた。
アナウンスに周りはざわめき、後ろの座席からは舌打ちが聞こえた。

僕は何も見えない窓の外を見つめたままため息をつく。 早く帰りたい日に限って残業は発生するし、おまけに電車が遅延したりするものだ。
電車に乗り込んだ時点で、もうとっくに晩御飯を家族と共に食べられる時間は過ぎていたが、クリスマスケーキは一緒に食べられるはずだった。
しかし、22時を過ぎればさすがにまだ幼い娘は待っていられないだろう。
一刻も早く電車を動かせてもらえないだろうか。
「只今原因を調査中」と早口に繰り返すアナウンスに、僕はただただ懇願するばかりだった。

「あなたもサンタクロースですかな?」
この小さな不幸せに絶望し、頭を抱えていた僕は、最初その言葉が自分に向けて発せられているものだとは思わなかった。
視界の隅に入っていた隣の席の男が、こちらに顔を向けていることに数秒遅れで気づき、僕は慌てて男に目を向ける。
その男は真面目なサラリーマンにも、イタズラ好きな老人にも見えた。
白髪が混じる髪は丁寧に整えられており、顔には皺が多いが老けている印象は一切受けない。50代と言われても不思議ではないし、70代と言われて納得できる。不思議な雰囲気のある男だった。
僕は幼い頃から比較的記憶力に自信があり、人の顔に関しては一度会えばよっぽど個性のない顔でない限り概ね忘れはしない。
しかし、その男の顔を見たことがある気はするものの、どうしても記憶の中に該当する人物がいなかった。恐らくこんなに至近距離で見たことはないのかもしれない。
「どこかで見たことある男」に、「突然わけのわからない質問をされた」という事態に、僕は男に顔を向けたままただ目をぱちくりさせていた。
すると、彼は「それ」と、僕の足元を指差して微笑んだ。
僕は、その指が指す紙袋に視線を落としてから、漸く質問の意味を捉えた。
「あ、あぁ、そうです。今晩はサンタです。娘がサンタの存在を疑いだして」
僕は男に向き直って微笑んだ。
そして、「あなたも」と言った男の言葉を思い出し、「おたくもですか?」と加えた。
男は「ええ」と微笑んで、膝の上に置いてあったトートバックを傾け、中身を僕に見せてくれた。そこには綺麗な赤色の衣装が入っていた。それは一目見るだけで、僕のペラペラの衣装とは異なり、上質な生地でできていることがわかった。
「娘さんはおいくつなんですか?」
トートバックを再び膝の上に真っ直ぐ立たせながら男は尋ねた。
「小学二年生です」
「あぁ、確かにサンタクロースを疑い始める年ですね。もっと早くに疑う子供も少なくはないでしょうが」
「おたくのお孫さんはまだ信じてますか?」
そう聞いてから、「お孫さん」ではなく「お子さん」だったかな、と少し後悔したが、彼は「わかりませんが、まぁ信じていてほしいという大人のエゴですな」と上品に笑った。
男が言い終わると同時に、再び車内アナウンスが流れた。
当初から情報が更新されることも、女性の早口がなおることもなく、「原因を調査中」という内容を2回繰り返し、アナウンスは切れた。
「これは思わぬ足止めですな」
僕は彼の言葉に大きく頷いて同意を示す。
「そういえば、サンタのモデルが何かはご存知ですか?」
男は徐に僕に尋ねた。
電車が動かないことへの苛立ちや退屈さを、僕との会話で埋めようとしているのだろう。僕自身も暇を持て余していたので、彼の話にのることにした。
「あぁ、聞いたことがあります。確か聖人とかなんですよね」
「よくご存知ですね、聖ニコラスという人物です。ある晩、貧しさゆえに娘を嫁に出せず苦しんでいた家に、彼がこっそり金貨を窓から投げ入れたのがモデルなんですって」
「テレビで見たことある気がします」
僕は昔みたそのテレビ番組の内容をぼんやり思い出しながら続ける。
「でもニコラスさんは12月24日に金貨を送ったわけでも、真っ赤な服と帽子を身につけていたわけでもないんですよね」
「ええ、そもそもクリスマスはイエスキリストの誕生日ですしね、ニコラスは関係ありません。今のサンタイメージは後にコカコーラ社が作ったものらしいですしね」
僕は「へぇ」と漏らす。
皆が皆「サンタクロース」だと思っているあの陽気な老人は、大企業により緻密に設計されたデザインにすぎなかったわけだ。
そう思うと、途端に安っぽい真っ赤な衣装に今夜身を包もうとする自分がやけにマヌケに思えてくる。
「サンタクロースの成り立ちは何にせよ、大人は子供にサンタクロースを信じていてもらいたいし、子供はサンタクロースに実在してもらいたい」
なんとなく足元に置いた紙袋を隅においやる僕を尻目に、男は独り言のように呟いた。
そして、照れたように笑いながら続ける。
「ここまでその存在が否定されているのに、どうしてサンタクロースにはこうも魅力を感じてしまうんでしょうね」
「そうですねぇ」僕は男の言葉について考える。
普段ならこんな話、てきとうに流して「まぁいいじゃないですか、どうでも」と笑い飛ばしてしまうだろう。
しかし、今は完全にすることもなく、いつ解放されるかもわからない密閉空間に知らない人間同士が閉じ込められている。そんなプラスの要素が何一つ見つけられない中、呑気な会話に集中することは精神の健康のために最適であると僕は考えていた。
「まず設定に夢がありますもんね。貧乏でも欲しいものがもらえる、とか、良い子にしてればサンタさんが来る、とか。実在することにメリットしかないわけだ」
僕の返答に男は嬉しそうに笑う。
こんなぐったりした空間で、いい大人が二人してサンタクロースというテーマに花を咲かせる光景はさぞ異常なものだろう。
しかし、僕たちはその後もサンタクロースに纏わる歴史やその存在価値についての意見を交わし合い、自分でも驚くほどあっという間に時は過ぎていった。
そして、彼がサンタクロースのもう一つのモデルであるアイスランドの妖精の話を終えた頃、とうとう車内アナウンスが運転再会を告げた。
車内から小さな歓声が湧いた。
アナウンスは緊急停車の原因となった電気系統のトラブルについて説明をしていたが、早口過ぎて殆どわからなかった。時刻はまもなく22時だった。

電車がゆっくりと動き出した頃、僕は昨年おこったある事件を思い出した。
はっきり思い出すより先に、「そういえば」と話し始める。
電車が動き出したことへの安堵と、聞き上手なこの男との会話の心地よさから、口が軽くなっていたのかもしれない。
「僕、実は警察官なんですけどね、昨年のクリスマスに一件相談を受けましてね」
男は「警察官」というワードに、「ご立派なお仕事を」と反応し、話の続きを促した。僕はさらに気分が良くなる。
「その相談というのは、クリスマスイブの夜に何者かが不法侵入しているかもしれない、という女性からのものだったんです」

その女性は、交番のすぐ傍のアパートに住むシングルマザーだった。
まだ若いはずなのに、すっかり窶れた顔からは一人で子供を育てることの苦労や辛さが滲み出ていた。
彼女は少し戸惑ったように何度も言葉を選びなおしながら、事の経緯を話した。

彼女は小学一年生になる一人息子を養うため、前日の夜、つまりクリスマスイブに飲食店で夜勤をしていた。クリスマスを祝うどころか、息子にプレゼントを買ってやる余裕は金銭的にも精神的にも彼女にはなかった。
クリスマスの朝、夜勤を終えて帰宅すると、息子は何やらはしゃいで見覚えのないオモチャで遊んでいた。
それは小学生の間で流行っているロボットのオモチャだった。
彼女は、寝不足でぼーっとする頭を動かしながら、「それはどうしたのか」と息子に尋ねる。
「サンタさんだよ!」と弾けたように笑顔を見せた息子が説明するには、朝起きると玄関マットの上に、綺麗にラッピングされたそのオモチャが置かれていたらしい。
「盗られたものとかはなくて、なんか気味悪くて」
彼女は困ったようにそこで言葉を切った。
僕は、彼女のアパート周辺の警備の強化を約束してから、周辺に設置されている監視カメラのデータを集め、念のため確認を開始した。
別に被害届がでているわけでもないので、聞き流してしまっても良かったが、その日はとてつもなく暇だったのだと思う。
そうして、監視カメラが記録していた見慣れた風景をぼんやり見ていた時、それが映ったのだ。

「何が映ってたんですか?」
トートバックを抱え、興味津々で尋ねる男の反応に、僕は得意げに笑う。
そして、「それがね」もったいぶるように一拍置いてから「サンタクロースだったんですよ」と、続けた。

その映像には確かにサンタクロースが映っていた。
あの、コカコーラ社がプロデュースしたお馴染みの衣装と髭を装着し、何かがぎっしり詰まった白い袋を肩に担いでるサンタクロースが、だ。
監視カメラの映像は白黒だったため、その衣装が赤かどうかはわからなかったが、一目でサンタクロースの格好をしている「誰か」だということがわかった。
僕は一応そこに映ったサンタクロースの顔を拡大するなり、鮮明化するなり工夫を凝らして、シングルマザーの女性に確認してもらったが、彼女は「見覚えはない」と答えただけだった。

「あれはなんだったんでしょうか」
僕は興味深そうに頷いている男に問いかけるように言葉を続ける。
「交番内では、彼女の元旦那のサプライズじゃないか、とか、戸締りを忘れていて誰かが部屋を間違えたんじゃないか、とかで片付けられたんですけど」
電車は大きな川を渡ってしばらく走った後、僕の最寄駅から3つ前の駅に到着した。
車内の何人かが、やれやれといった感じで降りていく。
「本物のサンタクロースだったりして」
入れ替わる人たちを横目に見ながら、男は優しく微笑む。
僕もつられて微笑む。
「あなたは、そのサンタクロースをどう思いますか?」
男は微笑みながら僕に尋ねる。その表情は優しくも厳しい校長先生のようだった。
「人様の家の扉を勝手に開けるのは犯罪だ、たとえ足を踏み入れず、プレゼントを置いていってるだけだったとしてもね。警察官のあなたとしては、そんな人間をどう思いますか?やはり、逮捕すべき犯罪者ですか?」
僕は彼の言葉を脳内で反芻する。
あの女性は気味悪がっていたが、子供にとっては幸福な思い出となるはずだ。
しかし、法に触れる行為は褒められたものではない。
「そうですね、警察官という立場からは何とも言えませんが」
僕はふと、監視カメラの映像を見た時の女性の顔を思い出す。
サンタクロースの格好をしたその謎の人物を見た途端、小さく吹き出して、柔らかく笑ったその女性の顔を。
「もしもサンタクロースがいるのだとしたら、決して捕まらないようにやっていただきたいですね」
僕の答えを聞くと、男性は軽快に笑った。
電車はまた走りだし、間も無く次の駅へ到着することをアナウンスが告げる。

「さて、私は次の駅だ。漸く我々もサンタクロースになれますね」
「ええ、でも僕が帰る頃には娘は熟睡してそうですけどね」
苦笑いする僕に、男性は優しく笑って言う。
「現実世界と夢の世界は意外と繋がっているものですよ。どうか娘さんが眠っていてもその衣装を着て、プレゼントを置いてあげてください」
電車はだんだん速度を下げていく。
乗客の何人かは、脱いでいたコートを着たり、荷物を網棚から降ろすために立ち上がり始める。

男はトートバックから赤いマフラーを引っ張りだし、首に丁寧に巻きながら、「そういえば」と、僕を見た。
「サンタクロース協会というのはご存知ですか?」
僕は首を振る。
「元気と暇とお節介を持て余している老いぼれたちが結成しているお遊びの会です」
「何をする会なんですか?」
僕が言い終わると同時に、電車がホームに滑り込んだ。男性は立ち上がる。
そして、トートバックとは別に、網棚から大きな荷物を取り出して両手で抱えた。
僕は「あ」と声を漏らす。
男は、なにやら物が沢山詰まった大きな白い袋を肩に担ぐと、にこっと笑って答えた。
「サンタクロースの真似事なんですって」
電車の扉が開く。乗客は通路に小さな列を作り、ゆっくり下車してゆく。
「こんな夜にあなたとお会いできてよかった。メリークリスマス」
「あ」の形で口を開けたままにしている僕に手を振り、男は車内から姿を消した。
少し遅れて、僕の頭の奥で「ピン」という音が間抜けに鳴った。

(こ)これからの話を

「佳菜子ってさ、友達全然いないよな」

それまで聞き流していた話の中に突然組み込まれた自分の名前にはっとし、私は思わず「え?」と声の主、雄一を振り返った。

「聞いてなかっただろ。お前最近ずっとぼーっとしてるよ」

彼は短くなった煙草を灰皿に擦り付けながら、呆れたように言った。

私は「ごめん。何の話だっけ」と、取り繕うように笑いながら鏡に向かいなおす。

どこかの国のお城にあるかのような、メルヘンチックなデザインの大きな鏡には、何とも平凡な顔立ちの女が崩れたメイクのまま映っている。

「来週のジャズコンサートのチケットが2枚余ってるから、お前にやるよって話。ニューヨークで超人気なやつだぜ」

そういって雄一は、灰皿の横に置いてある彼の勤める会社のロゴが入った薄い封筒を、トントンと指で叩いてみせた。

「でも、お前にペアチケットあげても、いっつも一人で来るんだけどな」くくく、と冗談めかして笑う彼を横目に、私は崩れたメイクを無心でなおし続ける。

雄一はイベント企画会社に勤めていて、彼と同じ歳の妻と、小学生の娘を持っている。自分が企画に携わる大きなイベントのチケットを、彼はいつも妻と娘の二人分用意する。そして、コンサートが彼女らの趣味や予定に合わなかった時、彼は時々私にチケットを譲ってくれていた。

「友達ぐらいいるよ。予定が合わないだけ」

「へぇ。見てみたいもんだねぇ、佳菜子のお友達」雄一は「お友達」をやけに強調しながら言うと、ベッドの上に脱ぎ捨てられていたワイシャツの袖に腕を通す。そして、外していた指輪を左手の薬指にしっかり嵌めてから、ベッドに組み込まれているデジタル時計が午後3時を指すのを確認すると「じゃ、仕事戻るわ」と、部屋の扉に手をかけた。

「また連絡する。」いつもの台詞を何の感情もなく私に投げかけると、彼は振り返ることもなく出ていった。

私は最低限メイクを整えた顔を鏡で確認し、化粧ポーチを鞄にしまう。

部屋を出るとき、虫の死骸のような煙草の吸殻が何本も入った灰皿の横の封筒に目がいった。私はそっとそれを手に取り、ため息をもらす。

彼の言うとおり、私には「友達」と呼べる人間なんて、一人もいなかった。

やけに重く感じられる僅か数gの封筒を自分の鞄に押し込めて、私はホテルを後にした。

 

異変に気付いたのは、自宅の扉を開ける時だった。

用心深い母は、上下2ヶ所についたドアの鍵をいつもきっちり閉めてから出かけるのだが、今日は下部の鍵が開いていた。

いつものように2つとも鍵を開けたはずなのに開かないドアに私は一瞬困惑し、何パターンか上下の鍵穴をガチャガチャと開けたり閉めたり繰り返し、漸く玄関に入ることができた。

ケータイを確認すると、5分ほど前に「友達と買い物にでかける」と、母から連絡がきていた。

うっかりしていたのだろうか、それとももう年なのだろうか。ぼんやりと今年還暦を迎える母を心配しながら、家にあがり、居間へのドアを開いた。

「あ…。」

空気が漏れたような、乾いた声がした。それは、少女のもののようにも、老爺のもののようにも聞こえた。

その声に少し遅れるようにして、「え?」という自分の声が、25年間暮らしてきた馴染みある空間に吸い込まれていった。

すっかり見慣れた居間にある、全く見慣れない存在に、私の思考は止まる。

そこには、真っ黒なジャージを纏い、ドラマの中の銀行強盗が被っている「私は強盗です」と名乗るかのような目出し帽で顔を隠した「誰か」が、こちらに身体を向けたまま停止していた。

私と、その黒ずくめの「誰か」は、随分長いことお互いを見つめ合ったまま硬直していた。「長いように感じた」というよりは、実際に長い時間そうしていたのだろう、床の冷たさが足に伝わり、じんじん痛み出していた。その冷たさと、経過した時間により幾分か冷静になった頭で、私は黒ずくめの存在を、「強盗」だと判断した。そして、目だけをそっと動かし、周辺の様子を伺う。居間が荒らされた形跡はなく、強盗自身も何も手にしていないようだった。

私と強盗は、炬燵を挟んで立っていた。強盗の後ろには庭に出られる引き戸がある。

何も盗っていないのなら、早くそこから逃げてくれないか。そう願わずにはいられない。

しかし、強盗は逃げるどころか、マネキンのように微動だにせず、その場で固まり続けている。

いっそ捕まえにかかってやろうか、そんな短絡的な考えが浮かび始めた時、ぐぅーっという小さな獣のうなり声のような音が、静まり返った居間に響き渡った。

私は何が起こったかわからず、ビクッと身体を強張らせる。そして、恐らく音の主だと考えられる強盗を窺うように見た。

今まで全く動かなかった強盗は、私の視線から守るかのように両手を自分のお腹にあて、へなへなとその場に座り込んでしまった。

「あの…」私は、お腹を抱いたままがっくりと項垂れる強盗に恐る恐る声をかける。

「大丈夫ですか…」強盗の腹は、堰を切ったかのように鳴り続けている。

「お腹すいた…」微かに聞こえてきた涙声は、まだ若い女の子の声だった。

「えっと、何か食べますか?」あまりにもお人好しな台詞に、我ながら馬鹿だと呆れたが、座り込んだ彼女は目出し帽を脱ぐと、「お願いします」と消えそうな声で頭を下げた。

 

彼女はマナミといった。

それが本名なのか私にはわからなかったが、別に構わなかった。

お金に困り、どこかの家に盗みに入ろうとこの辺りをうろついていた時、年老いた女性が家の前で鍵を落とすのを偶然目にした。

こんな幸運はない、と鍵を拾い侵入したのが、まさに我が家だったというわけだ。

マナミは昨晩の残り物であるカレーライスを頬張りながら、何度も何度も泣きながら謝っていた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔は、とんでもなく無垢に見えて、私は怒る気もわかなかった。

「マナミちゃんは大学生?ご両親はいないの?」

カレーを2皿完食し、洟をすすりながら出された熱いお茶をちょびちょびと飲む彼女に私は尋ねた。マナミは警戒の色を露わにしたが、「別に捕まえる気はないし、話したくなかったら話さなくてもいいよ」と付け加えると、肩の力がすっと抜け、口を開いた。

「二十歳。水商売してる。父はいなくて、母は、います。」

「お金が必要なの?」私は質問を続ける。マナミは満腹になったお腹にそっと片手をあてて俯いた。

自分はこの子にとって野次馬でしかないのだろうな、と、静かに流れる彼女の涙を見ながら思った。

普段自分以外の誰のことにも興味を持てない私がこの子を気にかけるのは、華奢で弱々しい女の子が強盗に手を出さなくてはいけないその境遇に同情しているからだ。不幸で、可哀そうな女の子の話を根掘り葉掘り聞いて、自分はまだマシなのだと思いたいのだ。

私は罪悪感から「ごめんね」と囁いて、彼女の湯飲みにお茶を注ぎ足した。

「そうだ、どら焼き、食べる?」私は母が隠し置いているどら焼きを台所から2つ取り出して皿にのせると、テーブルに置いてやった。

うちに入った強盗と、西陽の差す居間で炬燵に入りながらお茶をしている光景は奇妙なものだったが、心は不思議なほど落ち着いていた。

マナミは礼を言いながらどら焼きを頬張って、「美味しい」と小さく微笑んだ。

居間の空気がふわりと柔らかくなったように感じた。マナミがどら焼きを食べる咀嚼音と、古い掛け時計の秒針の音だけが聞こえる静けさがしばらく続く。それを破ったのは、私の声だった。

「私さ、不倫してるんだ」

どうして見ず知らずの強盗にそんな告白をしたのか、自分でもわからなかった。

彼女を好奇の目で見てしまったことへのお詫びの気持ちからきた打ち明け話だったのかもしれないし、「私だってわりと不幸なのだよ」という張り合いだったのかもしれない。

何故なのかは自分でもよくわからないけれど、私の口は淡々と言葉を紡ぎ続ける。

「2年前、派遣の仕事で手伝ったイベントの取りまとめが彼でね。頼りがいがあって、優しくて、本当にかっこよく見えた。既婚者なのは知ってた。でも、初めてキスされた時、そんなことどうでもいいやって思っちゃったの」

「好きだったから?」

マナミは齧りかけたどら焼きを皿に置き、優しい目で私に問いかける。

私は自嘲気味に笑いながら頷いた。

「あの頃は、愛し合えてるんだって思ってた」

体だけの関係がずるずる続き、出会った頃のように雄一に優しくされることはもうなくなってしまった。自分が「愛」だと思っていた繋がりが、あまりにも薄汚れた関係であることはすぐにわかった。だけど、それを認めてしまうのは怖かった。

「別に彼は最初から私を愛してなんかいないし、都合よく利用されてるだけなのは頭でわかってるんだけど、どうしてもね、」

心がついていけないのだ、と続けようとしたが、それ以上声が出なかった。

頬を伝う生ぬるさがこそばゆくて、初めて自分が涙を流していることに気付いた。

「もともと一人ぼっちだったんだけどさ、誰かの温かみに触れちゃったら、また一人ぼっちに戻るの、あまりにも怖くてね」私は慌てて涙を手で拭いながら、わざとおどけたように言って笑った。2年もの間しっかり閉じ込めていたはずの感情が、何故急にこんな溢れ出すのか、もうわけがわからなかった。

「わかるよ」誤魔化すようにお茶を啜る私に、マナミはぽつりと呟く。

「愛情とか、温もりとか、いつかなくなっちゃうなら、最初から知らない方がよっぽど幸せだよね」そう続けると、また彼女はお腹に手を当て、優しくそっと撫でた。

何かを慈しむようなその仕草に、私は「まさか」と呟く。

「私にも好きな人、いたの。大好きだった。でも、赤ちゃんできたら逃げちゃった。お母さんに言ったら、おろしなさいって。育てるお金が家にはないから。でも、中絶するお金もないから、お母さん、借金しようとしてる」お腹を撫でていたマナミの手は、意志を失った生き物のようにぽとりと彼女の膝の上に落ちる。

「生みたいけど、今の私じゃ、どうやったってこの子は育てられない。だから、お金を盗ろうとしたの。成功したら、そのお金で中絶するつもりだった。でも、」マナミは視線をあげ、私の目をじっと見つめる。涙で潤み、赤く腫れた少女の目には、私では想像もつかない程の葛藤の末固められたのであろう覚悟が滲み出ていた。

マナミは両手をそっと私に向け、テーブルの上に重ねた。

「私を、警察に引き渡してください」その手は小刻みに震えている。

「調べたの。刑務所に入ったら中絶にかかるお金は国から出してもらえるんだって。お母さんは悲しむだろうけど、お金で心配させることは、とりあえずない」

「マナミちゃん」私は震え続ける彼女の手をそっと握る。やけに彼女の震えが伝わってくるなと思ったら、自分の手も振るえていた。

「良かったら、今度の日曜日、コンサートにいかない?」

口をついて出てきたのは、そんな突拍子もない言葉だった。

「私、友達いないから、一緒に行ってくれない?」

「え?」マナミはキョトンとして間抜けな声を漏らす。

思わず口にした言葉だったが、マナミの手の震えが止まったのを感じて、私は自分の提案に確信を持ち始めた。

「そうよ、そうしよう。ニューヨークで人気なジャズのコンサートなんだって。ジャズとか私よくわからないけど、なんだか疲弊した心身に良さそうじゃない?」

「お姉さん…。私の話きいてた?」彼女は綺麗な眉毛をハの字にして、見るからに困ったように漏らす。

「聞いてた聞いてた。勿論身体に障ったら駄目だから今から一緒に病院行こう。それで、問題なかったらとりあえず今週は私とコンサートに行こう。それから、その後のことを一緒に考えない?」

私は頭の中で勘定を始める。自分の貯金はいくらあったか。昨年亡くなった祖父の保険金はあとどれぐらい残っていたか。中絶費っていくらなのだろう。もし生んで育てるとなったらいくら必要なのだろう。

「…同情、してくれてるの?」マナミは複雑な表情のまま俯く。私は頭の中の勘定を止め、自分に対し、マナミと同じ問いかけをする。

私は今、この子に同情をしているのだろうか。いや、同情とは少し違うのではないか。

「今の私とあなたには、男じゃなくて友達が必要だと思うの」そう答えた自分の声は、思っている以上にはっきりとした、明るい声だった。

「あなたとなら友達になれる気がするの」

マナミと2人でコンサートに行く自分を思い浮かべる。驚く雄一に、「あなたなんてもういらない」と別れを告げる。そして、素晴らしい音楽に二人で身を委ねてから、ゆっくりとこれからのことを話す。

ただの同情なのかもしれない。私の都合に彼女を利用しているだけなのかもしれない。彼女の力になんてなれないかもしれない。

だけど、マナミと一緒に笑っている未来が、彼女の飛びっきりの笑顔が、何故か妙にリアルに私の頭には浮かび上がっていた。

「一緒に、やりなおそうよ」彼女の両手を握る手に、ぐっと力をいれる。

マナミの目から静かに落ちた涙の粒が、私の手を力強く握り返した小さな手にぽとりと落ちる。

 「私も、ジャズ、初めて」彼女がその日初めて見せた満面の笑顔は、私がイメージしていた笑顔そのものだった。

【クレしん】15年後の春我部防衛隊3

枯葉が風に舞う公園の少し開けたスペースで、僕としんのすけは焚き木の後始末を始めた。
しんのすけに後片付けを命じた彼の妹、ひまわりちゃんの姿は、もう既に公園にはなかった。
落ちていた空き缶やペットボトルに水を汲み、焚き木に撒く。そんな地味な作業を何度か繰り返すうちに火は完全に消え、公園の温度が何度か下がってしまったかのように感じられるほど寒さが身を刺し始めた。
水をかけられてしんなりとした落ち葉や木の枝を、しんのすけは軍手をはめた手で要領よくゴミ袋に移していく。
すっかり冷たくなった両手を擦り合わせながら、僕はテキパキ働く彼の姿を眺めていた。
「はい、これで片付け終了。」
しんのすけはゴミ袋の口を縛り、ふぅーっと大袈裟に額の汗を拭うふりをした。
「お前、なんか立派になったのな。」
僕は思わず率直な感想を口にする。子供の頃のしんのすけは散らかすばかりで、後片付けをしているところなんて見たこともなかった。
しんのすけですら成長してるんだな。」
「ですらって何。オラはもう立派な大人だからね。さ、もう帰ろ。」
しんのすけはゴミ袋をサンタが持つプレゼントのように肩に担ぐと、すたすたと歩き出す。
高くなった背と、大きな背中は本当に見覚えのない男のもので、とてつもない淋しさが僕を襲った。
「行かないでくれよ。」「もっと遊ぼう。」そんな子供みたいな台詞が口をついて出そうになるのを必死で堪えた。
もうしんのすけにとって僕は過去の〝親友″なのだ。僕がこの街を〝過去″として捨てたように。
「焼き芋、ありがとな。美味しかったよ。ひまわりちゃんにもよろしく言っといてよ。お前も良かったらまた東京遊びに来いよ。」
僕はしんのすけの背中に早口で声をかける。そして、じっと彼が振り返るのを待った。
しんのすけはすぐにくるっと体をこちらに向け、拗ねたように口を開く。
「何言ってんの風間くん。まだ5時だぞ。幼稚園児じゃないんだから、そんな早く帰るなんてナンセンスだぞ。」
胸がぽっと温かくなる。そして、同時に恥ずかしさがこみ上げた。
結局僕は子供の頃から、しんのすけから楽しいことに誘ってもらうのをずっと待っているだけだった。待っていさえすれば、こいつは必ずワクワクするところに引っ張っていってくれたから。
俯いて動かない僕に、しんのすけはのしのしと近付いてくると、ゴミ袋を背負ったのとは逆の手で僕の腕を掴んだ。
「こんな寒いとこ、オラはもう嫌だぞ。一緒に帰るよ。」
「い、いいのかよ。」
「いいも何も、もう寒いんだってば。早く行くぞ!」
しんのすけは頬を膨らましながら大袈裟に声をあげて歩き出す。僕の腕を掴んだまま。
しんのすけに引っ張られるまま一歩を踏み出す。なんだか自分のものじゃないみたいな、ふわふわとした感覚が足を伝う。
「ありがとう、しんのすけ。」
どうにかそれだけ呟いてみる。その声は自分でも呆れるほど小さくて、渇いた風が木の葉を揺らす僅かな音に掻き消された。
僕はなんだかまた恥ずかしくなって、俯きながら歩く。
だけど、嫌な気分ではなかった。

「あ、そういえば今日はもう一人ゲストがいるからお楽しみに。」
しんのすけが、楽しいことを思い出したようにニヤニヤと笑う。
「もう一人?」
突然の知らせに僕は間の抜けた声で聞き返す。
「もう一人って誰だよ。」
懐かしい赤い屋根の家が見えてきた。
「お馬鹿だな、風間くん。電車に乗ってるって、さっき教えてあげたでしょ。まぁ多分今頃は電車は降りて、オラん家に向かってる頃だと思うけど。」
「え、なんの話だよ。」
しんのすけとの会話を思い返すが心当たりがない。
あれこれと頭の中の記憶を探っていると、しんのすけの家まであと数メートルというところで反対側の道から歩いてくる人影が目に入った。
「お、ナイスタイミングだぞ。」
しんのすけが明るい声をあげて、僕の腕を掴んだまま駆け出した。
あちらから向かってくる人影も手を振りながら駆けてくる。
そうして、僕たちは測ったかのように、ちょうど野原家の前で顔を合わせた。
お久しぶり!」
しんのすけは漸く僕の腕から手を離し、そのまま正面に立つ男に向かって掲げた。
大きめのリュックを背負った男は、優しい微笑みを浮かべて、しんのすけの手にそっとハイタッチをした。
「しんちゃん、久しぶり。」
そして、ゆっくりと、何もかもを受け入れてくれるかのような優しい笑顔を僕にも向けた。
昔から何も変わっていないような彼の温かさに、僕は思わず涙がでそうになった。
「久しぶり、風間くん。」
彼はしんのすけとハイタッチしていない方の手を、僕に向かってゆっくりと掲げた。
「久しぶり…ぼーちゃん!」
僕は二人目の〝親友″との再会を噛み締めながら、ぼーちゃんとハイタッチをした。