50音ショートショート

50音分のタイトルで短編を書き終えれたら、関係ないけどとりあえず仕事やめようと思う(-A-)

(く)クリスマス・サプライズ

隣の席に座った男の顔を見たとき、ぴんときた。
男が網棚に何やら荷物を押し込み、座席に腰掛ける際、一瞬だけ目があったのだ。
その「ぴん」は、運命の人を見つけた時の「ぴん」でもなければ、「あ、◯◯さんだ」という明確な「ぴん」でもない。
誰かはわからないし、恐らく知り合いでもない。
しかし、どこかで見たことがあって、しかも割と重要な人物なのではないか、という警察官の勘による「ぴん」だった。

とは言っても、今はもう勤務外で、僕は家族のもとに帰る電車に乗っていた。
普段であれば勤務外だとしても、何らかの事件と関連があるかもしれない人間を見ると必死に頭を回転させ、その人物の動向を探るぐらいのことはするのだが、今日は全くそんな使命感は湧いてこない。
仮にこの男が犯罪者だったとして、僕が下手に気付いてしまいでもしたら、今晩は家に帰れなくなってしまうかもしれない。
何があってもそれだけは避けたい。
今日は愛すべき家族と過ごす年に一度のクリスマスイブなのだから。

時刻はすでに21時を過ぎていた。
本来なら18時には勤務先である交番を出て、19時には自宅に着けるはずだった。
しかし、そういう日に限ってごたごたした些細な事件は起こるものだ。
くだらない残業を終え、予定より2時間遅れて僕は電車に乗り込んでいた。

車内は程よく混んでおり、仕事帰りのサラリーマンや、デート帰りの若いカップルたちが、通路を挟んで二席ずつ並べられた座席を埋めていた。
あと30分もすれば自宅の最寄り駅に着く頃だ。
僕は足元に置いた紙袋の中身をちらりと確認する。
ロフトの紙袋の中には真っ赤な衣装が入っている。それはサンタクロースの衣装で、ご丁寧にふわふわした真っ白い付け髭までついている。
サンタクロースサプライズは、そろそろサンタの存在を疑い始めた小学二年生の娘、彩香のために準備したものだった。
準備したと言っても、交番の近所の小学校でサンタの格好をして交通指導した時のものを物置から引っ張り出してきただけなのだが。
僕は背もたれに上半身を預けながら、娘のことを思い浮かべる。
サンタの正体を暴こうと、薄眼をあけて寝たふりをする彩香。暗闇の中、プレゼントを持って現れるサンタ。
彩香は起き上がるだろうか、それともドキドキしながらも眠ったふりを続けるだろうか。
自然と頬が緩んだ。

そんな僕の平和で安らかな空想を打ち砕いたのは、キィーっというけたたましいブレーキ音だった。
僕は思わず窓の外を見る。
電車は大きな川に架かる橋の丁度真ん中あたりを走っていて、窓の外には殆ど灯りが見えない。勿論外が明るくてもここからでは電車がブレーキをかける原因等わかるわけもないのだが。
窓からは、辛うじて外に雪がちらつき始めていることが確認できた。
ブレーキ音を合図に電車はみるみる減速し、数秒後には完全に停止してしまう。

車内が静まり返ると同時にアナウンスが入った。緊急事態に慌てているのか、それとも普段からそんな感じなのか、やけに早口の女性が、緊急停車を無感情に詫びた。車体に何らかの異変が確認されたが、それが何なのかはわからないという旨も同時に伝えられた。
アナウンスに周りはざわめき、後ろの座席からは舌打ちが聞こえた。

僕は真っ暗な窓の外を見つめたままため息をつく。 早く帰りたい日に限って残業は発生するし、おまけに電車が遅延したりするものだ。
電車に乗り込んだ時点で、もうとっくに晩御飯を家族と共に食べられる時間は過ぎていたが、クリスマスケーキは一緒に食べられるはずだった。
しかし、22時を過ぎればさすがにまだ幼い娘は待っていられないだろう。
一刻も早く電車を動かせてもらえないだろうか。
「只今原因を調査中」と早口に繰り返すアナウンスに、僕はただただ懇願するばかりだった。

「あなたもサンタクロースですかな?」
この小さな不幸せに絶望し、頭を抱えていた僕は、最初その言葉が自分に向けて発せられているものだとは思わなかった。
視界の隅に入っていた隣の席の男が、こちらに顔を向けていることに数秒遅れで気づき、僕は慌てて男に目を向ける。
その男は真面目なサラリーマンにも、イタズラ好きな老人にも見えた。
白髪が混じる髪は丁寧に整えられており、顔には皺が多いが老けている印象は一切受けない。50代と言われても不思議ではないし、70代と言われても納得できる。不思議な雰囲気のある男だった。
僕は幼い頃から比較的記憶力に自信があり、人の顔に関しては一度会えばよっぽど個性のない顔でない限り概ね忘れはしない。
しかし、その男の顔を見たことがある気はするものの、どうしても記憶の中に該当する人物がいなかった。恐らくこんなに至近距離で見たことはないのかもしれない。

「どこかで見たことある男」に、「突然わけのわからない質問をされた」という事態に混乱し、僕は男に顔を向けたままただ目をぱちくりさせていた。
すると、彼は「それ」と、僕の足元を指差して微笑んだ。
僕は、その指が指す紙袋に視線を落としてから、漸く質問の意味を捉えた。
「あ、あぁ、そうです。今晩はサンタです。娘がサンタの存在を疑いだして」
僕は男に向き直って微笑んだ。
そして、「あなたも」と言った男の言葉を思い出し、「おたくもですか?」と加えた。
男は「ええ」と微笑んで、膝の上に置いてあったトートバックを傾け、中身を僕に見せてくれた。そこには綺麗な赤色の衣装が入っていた。それは一目見るだけで、僕のペラペラの衣装とは異なり、上質な生地でできていることがわかった。
「娘さんはおいくつなんですか?」
トートバックを再び膝の上に真っ直ぐ立たせながら男は尋ねた。
「小学二年生です」
「あぁ、確かにサンタクロースを疑い始める年ですね。もっと早くに疑う子供も少なくはないでしょうが」
「おたくのお孫さんはまだ信じてますか?」
そう聞いてから、「お孫さん」ではなく「お子さん」だったかな、と少し後悔したが、彼は「わかりませんが、まぁ信じていてほしいという大人のエゴですな」と上品に笑った。

男が言い終わると同時に、再び車内アナウンスが流れた。
当初から情報が更新されることも、女性の早口がなおることもなく、「原因を調査中」という内容を2回繰り返し、アナウンスは切れた。
「これは思わぬ足止めですな」
僕は彼の言葉に大きく頷いて同意を示す。
「そういえば、サンタのモデルが何かはご存知ですか?」
男は徐に僕に尋ねた。
電車が動かないことへの苛立ちや退屈さを、僕との会話で埋めようとしているのだろう。僕自身も暇を持て余していたので、彼の話にのることにした。
「あぁ、聞いたことがあります。確か聖人とかなんですよね」
「よくご存知ですね、聖ニコラスという人物です。ある晩、貧しさゆえに娘を嫁に出せず苦しんでいた家に、彼がこっそり金貨を窓から投げ入れたのがモデルなんですって」
「テレビで見たことある気がします」
僕は昔みたそのテレビ番組の内容をぼんやり思い出しながら続ける。
「でもニコラスさんは12月24日に金貨を送ったわけでも、真っ赤な服と帽子を身につけていたわけでもないんですよね」
「ええ、そもそもクリスマスはイエスキリストの誕生日ですしね、ニコラスは関係ありません。今のサンタイメージは後にコカコーラ社が作ったものらしいですしね」
僕は「へぇ」と漏らす。
皆が皆「サンタクロース」だと思っているあの陽気な老人は、大企業により緻密に設計されたデザインにすぎなかったわけだ。
そう思うと、途端に安っぽい真っ赤な衣装に今夜身を包もうとする自分がやけにマヌケに思えてくる。

「サンタクロースの成り立ちは何にせよ、大人は子供にサンタクロースを信じていてもらいたいし、子供はサンタクロースに実在してもらいたい」
なんとなく足元に置いた紙袋を隅においやる僕を尻目に、男は独り言のように呟いた。
そして、照れたように笑いながら続ける。
「ここまでその存在が否定されているのに、どうしてサンタクロースにはこうも魅力を感じてしまうんでしょうね」
「そうですねぇ」僕は男の言葉について考える。
普段ならこんな話、てきとうに流して「まぁいいじゃないですか、どうでも」と笑い飛ばしてしまうだろう。
しかし、今は完全にすることもなく、いつ解放されるかもわからない密閉空間に知らない人間同士が閉じ込められている。そんなプラスの要素が何一つ見つけられない中、呑気な会話に集中することは精神の健康のために最適であると僕は考え始めていた。

「まず設定に夢がありますもんね。貧乏でも欲しいものがもらえる、とか、良い子にしてればサンタさんが来る、とか。実在することにメリットしかないわけだ」
僕の返答に男は嬉しそうに笑う。
こんなぐったりした空間で、いい大人が二人してサンタクロースというテーマに花を咲かせる光景はさぞ異常なものだろう。
しかし、僕たちはその後もサンタクロースに纏わる歴史やその存在価値についての意見を交わし合い、自分でも驚くほどあっという間に時は過ぎていった。
そして、彼がサンタクロースのもう一つのモデルであるアイスランドの妖精の話を終えた頃、とうとう車内アナウンスが運転再会を告げた。
車内から小さな歓声が湧いた。
アナウンスは緊急停車の原因となった電気系統のトラブルについて説明をしていたが、早口過ぎて殆どわからなかった。時刻はまもなく22時だった。

電車がゆっくりと動き出した頃、僕は昨年おこったある事件を思い出した。
はっきり思い出すより先に、「そういえば」と話し始める。
電車が動き出したことへの安堵と、聞き上手なこの男との会話の心地よさから、口が軽くなっていたのかもしれない。
「僕、実は警察官なんですけどね、昨年のクリスマスに一件ある相談を受けましてね」
男は「警察官」というワードに、「ご立派なお仕事を」と反応し、話の続きを促した。僕はさらに気分が良くなる。
「その相談というのは、クリスマスイブの夜に何者かが不法侵入していたかもしれない、という女性からのものだったんです」

その女性は、交番のすぐ傍のアパートに住むシングルマザーだった。
まだ若いはずなのに、すっかり窶れた顔からは一人で子供を育てることの苦労や辛さが滲み出ていた。
彼女は少し戸惑ったように何度も言葉を選びなおしながら、事の経緯を話した。

彼女は小学一年生になる一人息子を養うため、前日の夜、つまりクリスマスイブに飲食店で夜勤をしていた。クリスマスを祝うどころか、息子にプレゼントを買ってやる余裕は金銭的にも精神的にも彼女にはなかった。
クリスマスの朝、夜勤を終えて帰宅すると、息子は何やらはしゃいだ様子で、見覚えのないオモチャで遊んでいた。
それは小学生の間で流行っているロボットのオモチャだった。
彼女は、寝不足でぼーっとする頭を動かしながら、「それはどうしたのか」と息子に尋ねる。
「サンタさんだよ!」と弾けたように笑顔を見せた息子が説明するには、朝起きると玄関マットの上に、綺麗にラッピングされたそのオモチャが置かれていたらしい。

「盗られたものとかはないんですが、なんか気味悪くて」
彼女は困ったようにそこで言葉を切った。

僕は、彼女のアパート周辺の警備の強化を約束してから、周辺に設置されている監視カメラのデータを集め、念のため確認を開始した。
別に被害届がでているわけでもないので、聞き流してしまっても良かったが、その日はとてつもなく暇だったのだと思う。
そうして、監視カメラが記録していた見慣れた風景をぼんやり見ていた時、それが映ったのだ。

「何が映ってたんですか?」
トートバックを抱え、興味津々で尋ねる男の反応に、僕は得意げに笑う。
そして、「それがね」もったいぶるように一拍置いてから「サンタクロースだったんですよ」と、続けた。

その映像には確かにサンタクロースが映っていた。
あの、コカコーラ社がプロデュースしたお馴染みの衣装と髭を装着し、何かがぎっしり詰まった白い袋を肩に担いでるサンタクロースが、だ。
監視カメラの映像は白黒だったため、その衣装が赤かどうかはわからなかったが、一目でサンタクロースの格好をしている「誰か」だということがわかった。
僕は一応そこに映ったサンタクロースの顔を拡大するなり、鮮明化するなり工夫を凝らして、シングルマザーの女性に確認してもらったが、彼女は「見覚えはない」と答えただけだった。

「あれはなんだったんでしょうか」
僕は興味深そうに頷いている男に問いかけるように言葉を続ける。
「交番内では、彼女の元旦那のサプライズじゃないか、とか、戸締りを忘れていて誰かが部屋を間違えたんじゃないか、とかで片付けられたんですけど」

電車は大きな川を渡ってしばらく走った後、僕の最寄駅から3つ前の駅に到着した。
車内の何人かが、やれやれといった感じで降りていく。

「本物のサンタクロースだったりして」
入れ替わる人たちを横目に見ながら、男は優しく微笑む。
僕もつられて微笑む。
「あなたは、そのサンタクロースをどう思いますか?」
男は微笑みながら僕に尋ねる。その表情は優しくも厳しい校長先生のようだった。
「人様の家の扉を勝手に開けるのは犯罪だ、たとえ足を踏み入れず、プレゼントを置いていってるだけだったとしてもね。警察官のあなたとしては、そんな人間をどう思いますか?やはり、逮捕すべき犯罪者ですか?」

僕は彼の言葉を脳内で反芻する。
母親には他人が無断で部屋に入っているという恐怖を与えてしまうが、子供にとっては幸福な思い出となるはずだ。
しかし、やはり法に触れる行為は褒められたものではない。

「そうですね、警察官という立場からは何とも言えませんが」
僕はふと、監視カメラの映像を見た時の女性の顔を思い出す。
サンタクロースの格好をしたその謎の人物を見た途端、小さく吹き出して、柔らかく笑ったその女性の顔を。

「もしもサンタクロースがいるのだとしたら、決して捕まらないようにやっていただきたいですね」
僕の答えを聞くと、男性は軽快に笑った。
電車はまた走りだし、間も無く次の駅へ到着することをアナウンスが告げる。

「さて、私は次の駅だ。漸く我々もサンタクロースになれますね」
「ええ、でも僕が帰る頃には娘は熟睡してそうですけどね」
苦笑いする僕に、男性は優しく笑って言う。
「現実世界と夢の世界は意外と繋がっているものですよ。どうか娘さんが眠っていてもその衣装を着て、プレゼントを置いてあげてください」
電車はだんだん速度を下げていく。
乗客の何人かは、脱いでいたコートを着たり、荷物を網棚から降ろすために立ち上がり始める。

男はトートバックから赤いマフラーを引っ張りだし、首に丁寧に巻きながら、「そういえば」と、僕を見た。
「サンタクロース協会というのはご存知ですか?」
僕は首を振る。
「元気と暇とお節介を持て余している老いぼれたちが結成しているお遊びの会です」
「何をする会なんですか?」
僕が言い終わると同時に、電車がホームに滑り込んだ。男性は立ち上がる。
そして、トートバックとは別に、網棚から大きな荷物を取り出して両手で抱えた。
僕は「あ」と声を漏らす。
男は、どこかで見覚えのある大きな白い袋を肩に担ぐと、にこっと笑って答えた。
「サンタクロースの真似事なんですって」

電車の扉が開く。乗客は通路に小さな列を作り、ゆっくり下車してゆく。
「こんな夜にあなたとお会いできてよかった。メリークリスマス」
「あ」の形で口を開けたままにしている僕に行儀よく頭を下げ、男は車内から姿を消した。
少し遅れて、僕の頭の奥で「ピン」という音が間抜けに鳴った。

(こ)これからの話を

「佳菜子ってさ、友達全然いないよな」

それまで聞き流していた話の中に突然組み込まれた自分の名前にはっとし、私は思わず「え?」と声の主、雄一を振り返った。

「聞いてなかっただろ。お前最近ずっとぼーっとしてるよ」

彼は短くなった煙草を灰皿に擦り付けながら、呆れたように言った。

私は「ごめん。何の話だっけ」と、取り繕うように笑いながら鏡に向かいなおす。

どこかの国のお城にあるかのような、メルヘンチックなデザインの大きな鏡には、何とも平凡な顔立ちの女が崩れたメイクのまま映っている。

「来週のジャズコンサートのチケットが2枚余ってるから、お前にやるよって話。ニューヨークで超人気なやつだぜ」

そういって雄一は、灰皿の横に置いてある彼の勤める会社のロゴが入った薄い封筒を、トントンと指で叩いてみせた。

「でも、お前にペアチケットあげても、いっつも一人で来るんだけどな」くくく、と冗談めかして笑う彼を横目に、私は崩れたメイクを無心でなおし続ける。

雄一はイベント企画会社に勤めていて、彼と同じ歳の妻と、小学生の娘を持っている。自分が企画に携わる大きなイベントのチケットを、彼はいつも妻と娘の二人分用意する。そして、コンサートが彼女らの趣味や予定に合わなかった時、彼は時々私にチケットを譲ってくれていた。

「友達ぐらいいるよ。予定が合わないだけ」

「へぇ。見てみたいもんだねぇ、佳菜子のお友達」雄一は「お友達」をやけに強調しながら言うと、ベッドの上に脱ぎ捨てられていたワイシャツの袖に腕を通す。そして、外していた指輪を左手の薬指にしっかり嵌めてから、ベッドに組み込まれているデジタル時計が午後3時を指すのを確認すると「じゃ、仕事戻るわ」と、部屋の扉に手をかけた。

「また連絡する。」いつもの台詞を何の感情もなく私に投げかけると、彼は振り返ることもなく出ていった。

私は最低限メイクを整えた顔を鏡で確認し、化粧ポーチを鞄にしまう。

部屋を出るとき、虫の死骸のような煙草の吸殻が何本も入った灰皿の横の封筒に目がいった。私はそっとそれを手に取り、ため息をもらす。

彼の言うとおり、私には「友達」と呼べる人間なんて、一人もいなかった。

やけに重く感じられる僅か数gの封筒を自分の鞄に押し込めて、私はホテルを後にした。

 

異変に気付いたのは、自宅の扉を開ける時だった。

用心深い母は、上下2ヶ所についたドアの鍵をいつもきっちり閉めてから出かけるのだが、今日は下部の鍵が開いていた。

いつものように2つとも鍵を開けたはずなのに開かないドアに私は一瞬困惑し、何パターンか上下の鍵穴をガチャガチャと開けたり閉めたり繰り返し、漸く玄関に入ることができた。

ケータイを確認すると、5分ほど前に「友達と買い物にでかける」と、母から連絡がきていた。

うっかりしていたのだろうか、それとももう年なのだろうか。ぼんやりと今年還暦を迎える母を心配しながら、家にあがり、居間へのドアを開いた。

「あ…。」

空気が漏れたような、乾いた声がした。それは、少女のもののようにも、老爺のもののようにも聞こえた。

その声に少し遅れるようにして、「え?」という自分の声が、25年間暮らしてきた馴染みある空間に吸い込まれていった。

すっかり見慣れた居間にある、全く見慣れない存在に、私の思考は止まる。

そこには、真っ黒なジャージを纏い、ドラマの中の銀行強盗が被っている「私は強盗です」と名乗るかのような目出し帽で顔を隠した「誰か」が、こちらに身体を向けたまま停止していた。

私と、その黒ずくめの「誰か」は、随分長いことお互いを見つめ合ったまま硬直していた。「長いように感じた」というよりは、実際に長い時間そうしていたのだろう、床の冷たさが足に伝わり、じんじん痛み出していた。その冷たさと、経過した時間により幾分か冷静になった頭で、私は黒ずくめの存在を、「強盗」だと判断した。そして、目だけをそっと動かし、周辺の様子を伺う。居間が荒らされた形跡はなく、強盗自身も何も手にしていないようだった。

私と強盗は、炬燵を挟んで立っていた。強盗の後ろには庭に出られる引き戸がある。

何も盗っていないのなら、早くそこから逃げてくれないか。そう願わずにはいられない。

しかし、強盗は逃げるどころか、マネキンのように微動だにせず、その場で固まり続けている。

いっそ捕まえにかかってやろうか、そんな短絡的な考えが浮かび始めた時、ぐぅーっという小さな獣のうなり声のような音が、静まり返った居間に響き渡った。

私は何が起こったかわからず、ビクッと身体を強張らせる。そして、恐らく音の主だと考えられる強盗を窺うように見た。

今まで全く動かなかった強盗は、私の視線から守るかのように両手を自分のお腹にあて、へなへなとその場に座り込んでしまった。

「あの…」私は、お腹を抱いたままがっくりと項垂れる強盗に恐る恐る声をかける。

「大丈夫ですか…」強盗の腹は、堰を切ったかのように鳴り続けている。

「お腹すいた…」微かに聞こえてきた涙声は、まだ若い女の子の声だった。

「えっと、何か食べますか?」あまりにもお人好しな台詞に、我ながら馬鹿だと呆れたが、座り込んだ彼女は目出し帽を脱ぐと、「お願いします」と消えそうな声で頭を下げた。

 

彼女はマナミといった。

それが本名なのか私にはわからなかったが、別に構わなかった。

お金に困り、どこかの家に盗みに入ろうとこの辺りをうろついていた時、年老いた女性が家の前で鍵を落とすのを偶然目にした。

こんな幸運はない、と鍵を拾い侵入したのが、まさに我が家だったというわけだ。

マナミは昨晩の残り物であるカレーライスを頬張りながら、何度も何度も泣きながら謝っていた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔は、とんでもなく無垢に見えて、私は怒る気もわかなかった。

「マナミちゃんは大学生?ご両親はいないの?」

カレーを2皿完食し、洟をすすりながら出された熱いお茶をちょびちょびと飲む彼女に私は尋ねた。マナミは警戒の色を露わにしたが、「別に捕まえる気はないし、話したくなかったら話さなくてもいいよ」と付け加えると、肩の力がすっと抜け、口を開いた。

「二十歳。水商売してる。父はいなくて、母は、います。」

「お金が必要なの?」私は質問を続ける。マナミは満腹になったお腹にそっと片手をあてて俯いた。

自分はこの子にとって野次馬でしかないのだろうな、と、静かに流れる彼女の涙を見ながら思った。

普段自分以外の誰のことにも興味を持てない私がこの子を気にかけるのは、華奢で弱々しい女の子が強盗に手を出さなくてはいけないその境遇に同情しているからだ。不幸で、可哀そうな女の子の話を根掘り葉掘り聞いて、自分はまだマシなのだと思いたいのだ。

私は罪悪感から「ごめんね」と囁いて、彼女の湯飲みにお茶を注ぎ足した。

「そうだ、どら焼き、食べる?」私は母が隠し置いているどら焼きを台所から2つ取り出して皿にのせると、テーブルに置いてやった。

うちに入った強盗と、西陽の差す居間で炬燵に入りながらお茶をしている光景は奇妙なものだったが、心は不思議なほど落ち着いていた。

マナミは礼を言いながらどら焼きを頬張って、「美味しい」と小さく微笑んだ。

居間の空気がふわりと柔らかくなったように感じた。マナミがどら焼きを食べる咀嚼音と、古い掛け時計の秒針の音だけが聞こえる静けさがしばらく続く。それを破ったのは、私の声だった。

「私さ、不倫してるんだ」

どうして見ず知らずの強盗にそんな告白をしたのか、自分でもわからなかった。

彼女を好奇の目で見てしまったことへのお詫びの気持ちからきた打ち明け話だったのかもしれないし、「私だってわりと不幸なのだよ」という張り合いだったのかもしれない。

何故なのかは自分でもよくわからないけれど、私の口は淡々と言葉を紡ぎ続ける。

「2年前、派遣の仕事で手伝ったイベントの取りまとめが彼でね。頼りがいがあって、優しくて、本当にかっこよく見えた。既婚者なのは知ってた。でも、初めてキスされた時、そんなことどうでもいいやって思っちゃったの」

「好きだったから?」

マナミは齧りかけたどら焼きを皿に置き、優しい目で私に問いかける。

私は自嘲気味に笑いながら頷いた。

「あの頃は、愛し合えてるんだって思ってた」

体だけの関係がずるずる続き、出会った頃のように雄一に優しくされることはもうなくなってしまった。自分が「愛」だと思っていた繋がりが、あまりにも薄汚れた関係であることはすぐにわかった。だけど、それを認めてしまうのは怖かった。

「別に彼は最初から私を愛してなんかいないし、都合よく利用されてるだけなのは頭でわかってるんだけど、どうしてもね、」

心がついていけないのだ、と続けようとしたが、それ以上声が出なかった。

頬を伝う生ぬるさがこそばゆくて、初めて自分が涙を流していることに気付いた。

「もともと一人ぼっちだったんだけどさ、誰かの温かみに触れちゃったら、また一人ぼっちに戻るの、あまりにも怖くてね」私は慌てて涙を手で拭いながら、わざとおどけたように言って笑った。2年もの間しっかり閉じ込めていたはずの感情が、何故急にこんな溢れ出すのか、もうわけがわからなかった。

「わかるよ」誤魔化すようにお茶を啜る私に、マナミはぽつりと呟く。

「愛情とか、温もりとか、いつかなくなっちゃうなら、最初から知らない方がよっぽど幸せだよね」そう続けると、また彼女はお腹に手を当て、優しくそっと撫でた。

何かを慈しむようなその仕草に、私は「まさか」と呟く。

「私にも好きな人、いたの。大好きだった。でも、赤ちゃんできたら逃げちゃった。お母さんに言ったら、おろしなさいって。育てるお金が家にはないから。でも、中絶するお金もないから、お母さん、借金しようとしてる」お腹を撫でていたマナミの手は、意志を失った生き物のようにぽとりと彼女の膝の上に落ちる。

「生みたいけど、今の私じゃ、どうやったってこの子は育てられない。だから、お金を盗ろうとしたの。成功したら、そのお金で中絶するつもりだった。でも、」マナミは視線をあげ、私の目をじっと見つめる。涙で潤み、赤く腫れた少女の目には、私では想像もつかない程の葛藤の末固められたのであろう覚悟が滲み出ていた。

マナミは両手をそっと私に向け、テーブルの上に重ねた。

「私を、警察に引き渡してください」その手は小刻みに震えている。

「調べたの。刑務所に入ったら中絶にかかるお金は国から出してもらえるんだって。お母さんは悲しむだろうけど、お金で心配させることは、とりあえずない」

「マナミちゃん」私は震え続ける彼女の手をそっと握る。やけに彼女の震えが伝わってくるなと思ったら、自分の手も振るえていた。

「良かったら、今度の日曜日、コンサートにいかない?」

口をついて出てきたのは、そんな突拍子もない言葉だった。

「私、友達いないから、一緒に行ってくれない?」

「え?」マナミはキョトンとして間抜けな声を漏らす。

思わず口にした言葉だったが、マナミの手の震えが止まったのを感じて、私は自分の提案に確信を持ち始めた。

「そうよ、そうしよう。ニューヨークで人気なジャズのコンサートなんだって。ジャズとか私よくわからないけど、なんだか疲弊した心身に良さそうじゃない?」

「お姉さん…。私の話きいてた?」彼女は綺麗な眉毛をハの字にして、見るからに困ったように漏らす。

「聞いてた聞いてた。勿論身体に障ったら駄目だから今から一緒に病院行こう。それで、問題なかったらとりあえず今週は私とコンサートに行こう。それから、その後のことを一緒に考えない?」

私は頭の中で勘定を始める。自分の貯金はいくらあったか。昨年亡くなった祖父の保険金はあとどれぐらい残っていたか。中絶費っていくらなのだろう。もし生んで育てるとなったらいくら必要なのだろう。

「…同情、してくれてるの?」マナミは複雑な表情のまま俯く。私は頭の中の勘定を止め、自分に対し、マナミと同じ問いかけをする。

私は今、この子に同情をしているのだろうか。いや、同情とは少し違うのではないか。

「今の私とあなたには、男じゃなくて友達が必要だと思うの」そう答えた自分の声は、思っている以上にはっきりとした、明るい声だった。

「あなたとなら友達になれる気がするの」

マナミと2人でコンサートに行く自分を思い浮かべる。驚く雄一に、「あなたなんてもういらない」と別れを告げる。そして、素晴らしい音楽に二人で身を委ねてから、ゆっくりとこれからのことを話す。

ただの同情なのかもしれない。私の都合に彼女を利用しているだけなのかもしれない。彼女の力になんてなれないかもしれない。

だけど、マナミと一緒に笑っている未来が、彼女の飛びっきりの笑顔が、何故か妙にリアルに私の頭には浮かび上がっていた。

「一緒に、やりなおそうよ」彼女の両手を握る手に、ぐっと力をいれる。

マナミの目から静かに落ちた涙の粒が、私の手を力強く握り返した小さな手にぽとりと落ちる。

 「私も、ジャズ、初めて」彼女がその日初めて見せた満面の笑顔は、私がイメージしていた笑顔そのものだった。

(け)決別の賛歌

彼女は天才を愛していた。何故なら、彼女自身が天才ではなかったからだ。

彼女のピアノの技術はとても高かった。しかし、彼女が奏でる音は、輪郭も、表情も持たなかった。どれほど血が滲むような練習を繰り返しても、彼女の指からはのっぺりとした、無機質な音がただただ零れ落ちるだけだった。

そんな彼女のピアノに最も絶望していたのは他の誰でもない、彼女自身だった。

彼女に出会った時、大音量で発し続けられる彼女の悲鳴を僕は感じ取った。そして、底のない絶望を小さな身体に抱える彼女を、とても美しいと感じた。

僕は彼女を愛していた。誰よりも、愛していた。

しかし、結局のところ、彩子が愛していたのは僕の才能だけだった。

 

宮下翔という男のピアノを初めて耳にしたのは、僕と彩子が交際を初めて2年たった春のことだった。

 

その日は、かつての世界的ピアニスト、凍江琴美先生の45歳の誕生日だった。

凍江先生は5年前にピアニストを引退し、若い音楽家の育成に力を入れていた。

1年程前、凍江先生が審査員を務める国内のコンクールで準優勝したのをきっかけに、僕は時折、凍江先生にレッスンをつけてもらうようになっていた。

何度か、正式に自分に師事しないか、という誘いも凍江先生から受けていたが、丁重に断っていた。

ピアノは大好きだった。他の人にはないピアノの才能が自分にあることも知っていた。

だけど、僕はコンクールで優勝したいわけでも、プロとして活躍したいわけでもなかった。ただ楽しく、自分の好きな音を奏で続けられるだけで良かった。

そして、どこかで、彩子を置き去りにしてピアノに没頭してしまうことへの後ろめたさがあったのも事実だった。

 

凍江先生の誕生日パーティで、僕は凍江先生に師事する他の若手ピアニストに混ざり、順に1曲ずつ演奏することになっていた。

凍江先生の教え子の演奏は、どれも若い力溢れる素晴らしいものだった。

僕は彩子と共にパーティに出席し、彼らの演奏に聴き入った。

どの奏者の演奏も雰囲気は異なり、それぞれの音を主張していたが、ピアノの鳴らし方や曲の解釈の仕方にどことなく似通ったところがあり、そこに凍江先生の偉大な影が見え隠れしていた。

彼らの才能を発掘し、個性を伸ばしながらここまで適確に美しく育てたのだとしたら、本当に凍江先生は素晴らしい師であると感じた。

だが、自分の演奏が彼らの中の誰にも劣らないことを、僕は自覚していた。

「さて、次は特別ゲスト。凍江先生がスカウトし続けている広瀬慧さんです」

司会の女性がいたずらに微笑みながら僕の名を呼ぶ。周りが少しざわめく。

僕は彩子に「いってくるね」と笑いかけ、意気揚々と、客席より1段程高いだけの小さなステージに上がってお辞儀をする。顔をあげる頃にはざわめきが消え去り、小さな会場はしんと静まり返っていた。

あらゆる視線が僕に向けられている。

好奇の目。期待の目。嫉妬の目。緊張の目。

無数の感情を抱いた別々の個体全てが、今、僕の音に神経を集中させようと沈黙している。昔からこの瞬間が、たまらなく好きだった。

僕はそっと息を吸い込んでから、撫でるようにやさしく鍵盤に触れた。

そうしてしまえば、あとは指が勝手に動き出し、ピアノが歌いだしてくれる。

ドビュッシーの喜びの島。

幸せと儚さを連想させる、僕のお気に入りの曲。そして、彩子が一番好きな曲。

キラキラした音が澱みなく、真っすぐに会場にいる全ての人の耳に吸い込まれていく。そんな幸福な感覚に溺れそうになる。

僕は、思う存分ピアノの歌声を楽しみ、そして、勢いを殺さぬまま最後の音を送り出した。盛大な拍手が聞こえる。ピアノの椅子から降り、正面を向くと、一番に彩子の笑顔が視界に入る。

僕は充たされた気分のまま微笑んで一礼し、低いステージからぴょんと飛び下り、演奏前と同じように彩子の隣に戻った。

 

幸せだった。僕は今のままでいい。

このままずっと大好きなピアノを大好きな人の隣で弾いていたい、と、強く思った。

しかし、そんな充たされた瞬間はあっけなく終わってしまったのだ。

 

「最高だった」と、口々に声をかけてくれる周りの人たちにお礼をしていると、司会の女性の声が再び聞こえた。

「さて、予定では奏者は広瀬さんで最後だったんですが、凍江先生のお誕生日ということで、急遽留学中のパリから駆けつけてくださった方がいます。凍江先生の甥っ子さんで、サックス奏者の宮本翔さんです」

僕は首を傾げる。サックス奏者?ピアノのステージでサックスを吹くのだろうか。

疑問を抱いたのは僕だけではなかったらしく、周りは一層低くざわめいた。

興味津々で目を向けたステージには、背の高い、僕より若いであろう青年がすっと立っていた。

凍江先生に甥がいたことも、宮本翔というサックス奏者の名前も聞いたことはなかったが、その姿を見ただけで、何故か背筋がぴんと伸びた。

陳腐な言葉を使うのなら、「オーラ」を感じたのかもしれない。

彼は行儀良くお辞儀をしてから、当たり前のようにピアノの前に座った。

周りから、「ピアノを弾くのか?」という、僕の頭に浮かんだものと全く同じ疑問の声がぼそぼそとあがった。しかし、そんなざわめきは、彼のファーストタッチで跡形もなく消え去る。

隣で彩子が息を飲むのがわかった。

彩子だけじゃない、周りの誰もが思考を止めた。

一瞬にして鳥肌が立つ。

モーツァルトの「ピアノ・ソナタ第十二番ヘ長調」。

優しい歌声。きらびやかな光。止めどなく与えられる幸福。そして、それらは決して永遠ではないのだと感じさせる途方もない無力感。

彼の指が動くごとに、僕の中で、言葉にしようがない感情が沸いては消える。

今まで「天才」のピアノは数えきれないほど聴いてきた。中には僕と同年代や、うんと年下の「天才」もいた。僕が敵わないと思う人も沢山いた。

だけど、ここまで感情を揺さぶられたピアノは初めてだった。

彼のピアノは僕と似ている。自由で、音楽への喜びが溢れている。

だけど、彼は僕にないものを確実に持っていた。たったそれだけのことが、僕をここまで震え上がらせているのか。

身震いした。理由のわからない焦りが、身体の内から胸をがんがん殴りつけてくる。

そして、突然焦りは不安に姿を変えた。

彩子。彩子はどう感じているのだろう。僕は我慢できずに彼女の表情を盗み見た。

冷たい空気が喉を通った気がした。

続いているはずの演奏が途端に途切れる。

彩子は涙を流していた。

彼女の心は、完全にもう僕から離れてしまっている。

見たことのない彼女の表情と、溢れ続ける涙に、僕は一瞬でそれを理解した。

彼女は美しい音楽を愛していた。そして、きっとそれを生み出せる才能を愛している。

彩子の心は、もう僕のものではなくなってしまった。

 

宮本は、最後まで一瞬たりとも揺らぐことなく演奏を終えた。

滝のような音を立てて拍手が鳴り響き、アンコールが口々に叫ばれる。もう誰も、その前にステージに立っていた僕の演奏等覚えてはいない。

 

狂ったように手を叩き続ける集団から逃れるように、僕はふらふらと会場の出口に向かう。彩子がちらりと僕を窺うのがわかった。

しかし、彼女は僕の後を追いかけてはこなかった。

 

全身に痺れたような感覚を抱きながら、僕は会場を出てすぐの中庭に出た。

花の蜜のような甘い匂いが生ぬるい夜風にのって鼻の奥をそっと撫でるように刺激する。

僕はへなへなとしゃがみこんだ。今まで味わったことのない感情がマグマのようにぐつぐつと湧き上がる。

喪失感。

僕は失ったのだ。何を?

自信を。ピアノを。そして、彩子を。

たった一人の演奏で。

 

「こんなところでいじけているのね」

しゃがみこんだ僕の上から透き通る声が降ってきた。ぼーっとした頭で声の主を思い浮かべながらゆっくり顔をあげる。

「凍江先生…」

トレードマークである真っ黒のドレスを身に纏い、凍江先生がそっと微笑む。

「翔の演奏、すごかったでしょう。あの子は本物の天才よ。サックスはもっとすごい」

惜しみなく宮本を褒め称える凍江先生の言葉に、僕は思わず目を伏せた。

「すごかったです。なんかびっくりしちゃって」

自分が抱いた感情を1ミリも表現できないまま、僕は曖昧に笑った。

「もうピアノやめちゃおっかなぁ」

無意識に口をついて出た言葉にはっとする。凍江先生の前で、僕はなんて情けないことを言っているのだろう。

すぐに訂正しようと再び凍江先生の顔を見上げた時、先生の言葉が静けさを突き破り、矢のように僕を突き刺した。

「広瀬くん。私に師事しなさい」

ひどく、堂々とした声だった。まるで、そうすることしか道はないのだと断言するような。冷酷さをも感じさせる声だった。

「絶望と敗北を知りなさい。これまで知らなかった世界を見なさい。一度全てを失いなさい。そして、私のもとでピアノを弾きなさい。そうすれば貴方はもっと高みに登れるわ」

その言葉は光のようにも、永遠の闇のようにも感じられた。

何故か、涙が一筋頬を伝う。

凍江先生がそっと僕に手を差し伸ばす。

『音楽の神様』

月明かりに照らされた凍江先生の姿を見上げながら、そんな言葉が僕の頭に浮かんだ。

これは、音楽の神様との契約なのだ。

僕はすがるように、神様の手を掴んだ。

 

 

私は彼を愛していた。

彼の音はまるで色とりどりの宝石のような、光り輝く色をきらきらと惜しみなく放っていた。

私では到底弾けない音、表現できない色、感じ取れない世界を彼は持っていた。

自分のピアノに絶望していた私は、彼の音に心を救われ、そして、彼に強く魅かれた。

私は彼の音を愛し、そして、その音を生み出すにふさわしい彼の内側を愛した。

その音がずっと、私だけのものであれば、どれほど幸せだっただろうか。

 

「魔女め」

私はスマートフォンに表示させたネットニュースから目をそらし、一人ぼそっと呟く。

記事には廣瀬慧と、その師である凍江琴美が微笑みながら寄り添う写真が載せられており、「天才、新たなる歴史を刻む」という仰々しいタイトルのもと、慧へのインタビューが続いている。

音楽に全てを捧げることを選び、また、音楽にも選ばれた世界中の天才ピアニストたちが集う国際ピアノコンクール。

昨日ドイツで行われたその本選で、慧は日本人で初めて優勝を手にした。

師の凍江への感謝や、コンクールでのエピソード等を語った彼のインタビューの後には、今回のコンクールの審査を担当した有名ピアニストや、日本の音楽評論家たちのコメントがいくつか掲載されていた。

内容は、「広瀬慧は2年前に凍江琴美へ師事してから圧倒的にその才能を伸ばすことに成功した」だの、「凍江琴美の指導のもと、その表現力を着実に進化させている」だの、どれも師である凍江を称賛するものばかりだった。

 

幼い頃、凍江がピアニストとしてピアノを弾いているのを見るたびに、「魔女のようだ」とぼんやり思っていた。

彼女が奏でる音は多くの色を持っていた。彼女のピアノは、私がまだ知らない色や、名前すらないようなものまで、この世の全ての色を持っているかのような音を奏でた。

しかし、それらの色は美しい花畑や虹のように「カラフル」と呼ばれるものとは到底違う。何十色、何百色を全て重ね、混ぜあわせたような妖しい色。

1つ1つがどれほど鮮やかで美しい色でも、全てを混ぜ合わせると深い深い黒となる。

彼女が紡ぎだす音そんな残酷さを感じさせ、幼い私を震えさせた。

真っ黒な長い髪を乱しながら、憑かれた様に鍵盤を叩く凍江の姿は妖艶で、美しく、そして、恐ろしくも感じられた。そんな独特の演奏に加え、彼女のドレスがいつも黒や紺等、ピアニストでは珍しいような暗い色ばかりだったこともあるのだろうが、私は子供の頃から凍江のことを、心の中で『魔女』と呼んでいた。

 

一方で、慧の持つ音は、美しすぎた。

彼が放つ色は、どれも均等に引かれた下書きの線を決してはみ出さず、きっちりと隔てられており、一切混ざることがない。

汚れや濁りを全く知らないピアノ。喜びと幸福だけに満ちた世界。

悲しみや憎悪、孤独や絶望は、彼の音には存在しない。

彼は、幸せすぎたのだ。

彼の傍で彼のピアノを聴き続け、それに気づいたとき、私の中で迷いが生まれた。

彼がこのまま現状に甘んじ、この生ぬるい世界でピアノを弾き続けてしまったら。

小さな世界で甘やかされ、もて囃され、世界を舞台に死に物狂いで戦い続ける本物のピアニストたちと向き合うこともなく、絶望や孤独を感じることなく歳を重ねてしまったら。

彼は、きっと何も成し遂げることなくピアニストとしての人生を終える。

冷たい予感は日を追うごとに私の中で確信に変わっていった。

陰を表現できない彼のピアノは、きっと世界には通用しない。

そして、彼にそのことを気付かせることができるのは、彼が持たない色を教えることができるのは、自分だけではないのか。

しかし、彼がもし本当にあらゆる色を取り入れてしまったら。世界に目を向けてしまったら。きっと私は捨てられる。

私が彼を愛し続け、甘やかし続け、そして守り続けられれば、彼はずっと私の傍にいてくれるかもしれない。彼を私だけのものにできるかもしれない。

私は迷った挙句、何の行動もおこさないことを選んだ。

しかし、私の迷いは見抜かれていたのだ。あの魔女に。

 

凍江琴美と初めて言葉を交わしたのは2年前の春。彼女のあの誕生日パーティの1か月ほど前のことだった。

 

「広瀬くんを愛しているというのなら、貴女は彼を離してあげなくてはね」

私が通う音大のキャンパスで凍江と出くわしたのは、偶然ではなかったはずだ。

彼女は慧に足りないものも、それを充たす条件もわかっていた。

「貴女は彼にない色を、彼に教えてあげられる。そうすることで、彼は素晴らしいピアニストになれるわ。貴女が一番わかっているでしょう」

魔女め。私は心の中で何度も毒づいた。

全てを見抜き、私が一番言われたくない言葉を選んで語り掛けてくる。

「彼を、自由にしてあげて」

 

私は魔女に抗うつもりだった。彼の未来を潰してでも、私は彼の傍にいたかった。

そう強く願ったはずだった。

しかし、宮本翔の演奏を聴いたとき、私の願いが慧にとって酷く惨いものであることを突き付けられた気がした。慧にどこか似ているようで、全く異なるピアノ。

慧を凌駕する音。隣で慧が身震いするのがわかった。

無意識に涙が溢れた。

今の彼では、このピアノを越えられない。そして、きっとそのことがこの先慧を苦しめ続ける。

これから彼を苦しめるのは、きっと私の存在だ。


割れるような拍手の音に圧倒されたように、慧はふらふらと後ずさる。

私のもとから去ってしまう。

しかし、まるで魔法でもかけられたかのうように、私は動くことができなかった。

「彼を、自由にしてあげて」

頭の中で再生され続ける宮本のピアノの音の奥で、魔女の言葉が何度も何度も、呪いのように頭の中で響き続けていた。


私たちは、それを最後に顔を合わせることはなかった。 


私は今、ヘッドフォンを耳にあて、慧のコンクール音源を再生する。

彼のピアノは2年前より明らかに色が増え、陽と陰が複雑に、そして美しく混ざり合っていた。

何故か、涙が一筋頬を伝った。

彼はこれで良かったのだろうか。

私は、これで良かったのだろうか。

曲を最後まで聞かぬまま、ヘッドフォンを外す。

あぁ、今無性に、あの無垢な「喜びの島」が聴きたい。

(ち)父

父はとても無愛想な人だった。

私が小学生だった頃、父の日のプレゼントにと、図画工作の時間に父の似顔絵を描いたことがあった。

小さい頃から絵が得意だった私は、父の顔を思い浮かべながら似顔絵を紙いっぱいに描いた。

できあがったそれは我ながら良い出来で、父そっくりだった。しかし、父に似せようとするあまり、他の子たちが描くような笑顔のお父さんとは違い、ニコリともしていない不愛想なお父さんが私の画用紙には描かれてしまった。

先生は私の絵を見て、「上手ね」と褒めながらも、少し困った顔をしていた。

 

父の日当日、初めて渡す父へのプレゼントに、私は内心とてもわくわくしていた。

不愛想な表情の絵になってしまったけれど、今まで描いた絵の中で一番上手に描けたという自信はあったし、必ず喜んでくれるとも思っていた。

しかし、絵を受け取った父は、ありがとう、とも、下手くそ、とも言わず、片手でそれを受け取り、ちらりと見ただけでテーブルの上に置いてしまった。そして、何事もなかったかのように晩御飯の続きを食べ始めたのだ。

そんな父の反応に、直前まで胸いっぱいに広がっていた私の期待は一瞬で消え去った。そして代わりに、灰色のざらざらした悲しみが沸き起こるのを幼い私は感じた。

途端に鼻の奥がツンとし、涙が込み上げてきそうになったが、ここで泣いてしまったら父に呆れられてしまうという根拠のない確信がそれを必死に食い止めた。

私は、テーブルの上に無造作に置かれた父の不愛想な顔と、正面に座る本物の不愛想な顔を必死に視界から外し、時折零れそうになる涙を誤魔化しながら、母が作ってくれたハンバーグを一心不乱に飲み込み続けた。

 

父はとても静かな人だった。

私が中学生だった頃、少し悪い友人たちとつるむことも、髪を明るく染めたことについても父は何も言わなかった。

ある日、夜遅く家に帰った私から漂う煙草の匂いに、母は怒鳴り声をあげた。

母の大声など怖くもなんともなく、私は無視をして二階の自室に向かった。そして、階段の途中で、母の怒鳴り声を聞きつけて部屋から出てきたのであろう父と鉢合わせた。

「お前が吸っているのか?」と、父は静かに尋ねた。

実は、吸っていたのは友人だけで、煙草の匂いが苦手な私は吸っていなかったのだけれど、なんだかそれがカッコ悪いことのように思えて、「吸ってたらなんなの?」と、私はできるだけ冷たく答え、父から逃げるように速足で階段を上がった。

「かっこよくは、ないんだぞ」

ひとりごとのように小さく、しかし、はっきりと断言するような父の言葉に、私は思わず立ち止まった。顔がかっと熱くなるのを感じた。

父のその言葉をかき消すように、そして、自分が今感じている顔の熱を悟られないように、私は大きな音をたてて部屋の扉を閉めた。

次の日から、父の言葉に抗うように煙草を吸い始めた。

ちっとも美味しくなんてなかった。

すると、なんだか今やっている反抗全てがバカらしくなって、私はしばらくしてそのグループを抜け、髪を黒くした。

やはり、父は何も言わなかった。

 

父はとても勝手な人だった。

私が高校3年生になったころ、進路について母や先生と対立することが多くなった。

それなりに勉強ができた私に、母や先生は国立大学の受験を勧めた。

だが、私には行きたい美術大学があった。

その大学は入学が難しいうえに、入ってからも多額の授業料が必要となる。

そして、大学を無事卒業したとしても、芸術で食べていけるのは古今東西ほんの一握りであることは、その頃の私でもよくわかっていた。それでも、どうしても挑戦してみたかった。

しかし、毎日のように母や先生から「現実は甘くないのだから」と説かれ続け、周りの友達がせっせと一般大学に向けての受験勉強を進めるのを見ているうちに、私の中の漠然とした不安や焦りはどんどん膨れ上がり、自信や希望は隅っこへ追いやられていった。

そして、そろそろ進路をはっきり決めて勉強しなくては、という高校三年生の初夏。

不安に負けて自分の力を信じられなくなっていた私は、一般の大学受験を選ぶことにした。

 

普通の大学に行ったって芸術の道に進むことはできる。なんなら趣味で続けるだけでもいい。

そう自分に言い聞かせ、受験勉強を始めた頃、今まで進路に関して全く口を出さなかった父が、大量のスケッチブックと高価な絵具を買って帰ってきた。

無言でそれらを私に手渡し、何事もなかったかのように晩御飯を食べようとする父に、私は混乱しながらも「もう美大うけないんだけど」と、呟いた。

父は「うん」と頷いてから、手にしたばかりの箸を置いて、画材を持って立ちすくむ私の目をじっと見つめた。

「母さんも、先生も、お前の人生に責任は持てないんだぞ」

久々に正面から見る父の顔は、記憶にあったものより大分老けて見えた。だけど、大事なことをはっきりと断言するような話し方は、昔から何も変わっていなかった。

「責任を持てるのは、お前だけだ。だから、流されず、自分が好きな方を選びなさい」

そして、「責任はとれないが、応援も支援もする」と、ほんの少しだけ笑ってみせた。

父のそんな表情を初めて見た気がした。

そして、たったそれだけの言葉に、私はあっさりと背中を押されてしまった。

私は、父が買い与えてくれた画材の紙袋をぎゅっと握りしめ、「美大を、受験したい、です」と、父を真似て、はっきりと、自分に言い聞かせるように言った。

父に、母に、そして自分自身に。

その声は、自分が思っていた以上に大きな声だった。

母は「余計なことをしてくれた」と、父に対して口を尖らせていたが、すぐに「仕方ないな」と笑ってくれた。

 

父はとても不器用な人だった。

私が美大を卒業し、小さな事務所でイラストデザイナーとして就職し、細々と一人暮らしを始めた頃。父はずっと拒み続けていた携帯電話を持った。

父からメールや電話がくることはなかったが、私が所用で父にメールを送ると、毎回一分と経たずに誤字だらけの返信がきた。

たった一度だけ、そんな父からメールがきたことがあった。

それは、私が慣れない環境や思うようにいかない仕事を前に、自己嫌悪に陥っていた時。

もうやめてしまおうか。やっぱり普通の大学に行って普通に就職すればよかった。私には才能なんてない。もうやめてしまいたい。

そんなことをぐるぐる考え、泣き出しそうになる冬の夜のことだった。

突然父から、「元気か。味方だぞ。」という、何の脈絡もない短いメールが届いたのだ。

どういった経緯で送られてきたものなのか、そもそも本当に私に向けられたメールなのか。全く全貌がよくわからないその父からのたった一行に、何故か涙が溢れた。

堰を切ったように止まらなくなった涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、「何の話?」ととぼけて返したメールには、「間違えて送ってしまった」と、やはりすぐに返信がきた。

その返信に、私は一人で泣きながら笑った。


 

今、父の遺品を整理しながら様々なことを思い返す。

初めて買ってから一度も買い換えることのなかった父の携帯電話には、すごい量の未送信メールが残っていた。

「ご飯は食べてるか?」「次帰ってくるときは焼肉にしよう」「無理せず頑張れ」「雑誌でお前の絵を見たぞ」「お前は良い仕事をしてる」「たまには帰ってこい」「間違ってなんかないぞ」

未送信フォルダに何十件もあった短いメールの宛名は、全て私だった。

私は、いつかの夜のように泣きながら笑い、携帯電話を小さな箱の中にそっといれる。

父の形見として、私が父の部屋から集めたものが、その小さな箱に詰まっていた。


額にまで入れて大事に書斎にしまわれていた不愛想な似顔絵。


当時吸った記憶もないのに、中身がよくなくなっていた私の煙草と同じ銘柄の煙草数十本。


大量の絵画の本や、美術大学のパンフレット。


そして、私がデザインした全てのチラシやポスター。


私はその小さな箱にそっと蓋をする。

蓋の上に重ねた両手がほのかに温まるのを感じた。

(き)記憶の支配者

男は初恋の人が忘れられないという。
幼かったあの頃からは、好みや恋人に求める条件も大きく変わっているはずなのに、そもそもそれほどよくその子のことなんて知らなかったはずなのに、その名前を聞くだけでドキリとし、甘酸っぱい気持ちでいっぱいになる。
そんな人が男には大抵いるはずなのだ。

そして、その面影は一生男の人生に付きまとう。

「なので、三年付き合って結婚も約束してた彼女は捨てて、初恋の人を追いかけます?」
沙希子は僕から目を反らさず静かに尋ねる。

喫茶店の席についてからすぐに注文した2つのアイスコーヒーは、いまだどちらも口がつけられておらず、一秒を刻むごとに溶けていく氷は茶色い液体を薄く薄く塗り替え続けている。

「本当にごめんなさい」
僕は沙希子の視線から逃れるように頭を下げ、喫茶店のテーブルにある染みを凝視し続けることを選んだ。
「その子とやったってこと?」
冷たい声が僕の下げた頭に降りかかる。
「やって、ない」
「嘘だ」
嘘だった。
中学の同級生同士の結婚式があったのはつい1ヶ月前のこと。

そこで僕は初恋の人、伊原梨花と再会した。

梨花とは中学2年生の頃クラスが同じで、共に美化委員だった。クジ引きで選ばれただけの委員だったので2人とも積極的に校内の美化に協力したことはなかったが、月に一度形式的に行われる委員会会議にはとりあえず出席しており、そこで会話を交わすようになった。
彼女は誰に対しても愛想がよく、頭も良いほうで、そして何よりとても美人だった。そんな彼女に単純な僕は恋をした。そして、彼女を想い続ける一方で、特にそれ以上接近することも、彼女について詳しく知ることもなく時は経ち、僕たちは全く別々の高校へ進学した。
そんな初恋の人に、僕は10年ぶりに再会したというわけだ。

あの頃より背が伸びて、胸も大きく膨らみ、化粧を施した梨花は誰から見ても美しかった。彼女の姿を見つけた時、僕は一瞬にして中学生の頃のあの代用できない気持ちを取り戻した。
だから彼女に声をかけられた時は飛び上がるぐらい嬉しかったし、彼女が「彼氏と別れたばかりで寂しい」と上目遣いで漏らした時は一気に身体が熱くなった。そして、僕は愛しの恋人であるはずの沙希子を完全になきものとし、梨花と一夜を過ごしてしまったのだ。

「周ちゃんて本当に嘘が下手」
沙希子が容赦なく吐き捨てる。
僕は嵐が過ぎるのを待つようにじっと俯き続ける。
「ねぇ、その人ともう付き合ってるってことなの?」
「…違う。付き合って、ない」
これは本当だった。

僕たちは確かに一夜を共にした。初めて抱きしめた彼女の身体は華奢すぎて硬く、冷たく感じた。柔らかくて温かい沙希子とは対称的だ。彼女が漏らす機械的な声も、表情も、沙希子とは全く違った。僕は彼女を抱きながら、やはり沙希子の方がいいなぁとぼんやり思った。そして、今夜のことはちょっとした過ちだったと正直に沙希子に謝って許してもらおうと誓った。そう、一度は何かに誓ったのだ。
けれど、別れ際に渡された梨花の連絡先を僕は嬉々として受け取ってしまい、帰宅してすぐに自ら甘い連絡もいれてしまった。「楽しかった」と返す彼女の言葉に舞い上がり、即刻次の約束を取り付けたのも他の誰でもない僕だった。

「でも、会ったのは一回だけじゃないんだよね?」沙希子の尋問は淡々と続く。
「うん…」
既に僕たちは4回会っていた。

1度目は再会した夜。
2度目はその次の週の土曜日だった。
僕は今月から上映されている人気映画のチケットを2枚とって彼女を誘った。沙希子が前々から見たいと言っていた人気監督が手がけるサスペンス映画だった。梨花は僕の誘いに快く応じた。
沙希子も僕もポップコーンは塩派なので毎回当たり前のように2人で分けていたが、彼女はキャラメルを好んだ。僕もキャラメル派ということにして上映中それを一緒に食べたが、ひどく甘く、なかなか進まなかった。結局彼女も太るからとあまり口にはせず、ポップコーンは半分以上残ったまま映画はエンドロールを迎えた。
やっぱり沙希子との方が気が合うな、と、僕は甘ったるいポップコーンを噛みながら上映中ずっとこの浮気を後悔し、沙希子にすぐに謝って許してもらおうと誓った。確かに誓ったのだけど、映画の後流れるままホテルにいき、相変わらず硬く冷たい彼女の身体を抱いた後、何故かまた自ら次の約束を取り付けていた。

3度目は彼女の家に招かれた。殆ど物がない部屋で、生活感を感じられない程彼女の部屋は綺麗だった。僕はワインを買って行ったが、料理はしないから食器がないのだと彼女は言い、コンビニで買った紙コップで乾杯した。コップと一緒に買った安っぽいツマミを食べながら、いつも酒を買っていくと美味しいツマミを作ってくれた料理上手の沙希子を思い出し、やはり浮気なんてこれっきりにして沙希子のもとへ戻ろうと僕は誓った。確実に誓ったのだけど、朝目覚めた時に僕の隣で眠る梨花の美しい寝顔を見て、僕はまたその夜彼女に連絡してしまった。

そして4度目に会ったのはつい昨日のことだった。彼女が僕のお気に入りの店に行きたいというので、少し迷ったが行きつけの小さな居酒屋に連れていくことにした。外装は古く、中もお世辞には綺麗とは言えないが、酒や料理は全て絶品で、沙希子と何度も通っていたお気に入りの店だった。だけど、結果的に僕らはその店には入らなかった。店の前まで来て、「ここだ」と僕が紹介すると、彼女は途端に苦い顔をし、「やっぱりイタリアンが食べたくなっちゃった」と綺麗に笑った。僕は自分自身を否定された気持ちになり、悲しく、恥ずかしく、そして腹を立てた。しかし、結局僕はへらへらしてイタリアンに彼女を連れていき、大して美味しくもない高いだけのパスタで腹を埋めた。

「本当その人のほうが好きになっちゃったんだね」
長かった沈黙を押し破って沙希子がため息を吐くようにそっと呟く。初めて聞くような、弱い弱い声に僕は思わず顔をあげる。
そこには僕が3年間愛し続けた女の子が、3年間見せたことのない悲しい顔をして座っていた。
背は低くて、胸も小さく、お世辞にも美人とは言えないけれど、愛嬌があって誰にでも好かれる子だった。僕と好みが似ていて、いつも美味しい料理を作ってくれて、よく笑う子だった。僕のことをいつも1番に考えてくれて、不器用だけど本当に優しい子だった。
「うん、好きなんだ」
言ってから、僕は自分が涙を流していることに気付いた。
沙希子を失うことに僕は恐怖を感じている。別れたくない。沙希子のそばにいたい。頭と身体はそう叫んでいるのに、僕の中の何かが梨花を選べと強く命令する。頭よりも、身体よりも、僕の中で強い権限を持った"何か"が、僕を沙希子から引き離そうとしている。
その"何か"に必死に抵抗するかのように、涙だけがぽろぽろと零れ続ける。
僕は初恋に支配されていた。
「そんなに、好きなんだね」
沙希子は僕の涙の意味を優しく受け止めた。そして、スカートのポケットから可愛らしいハンカチを取り出して僕に差し出す。僕は受け取ることもできず、俯きながら子供みたいに両手で目をこする。
「周ちゃん、目、腫れちゃうから」
沙希子がハンカチを無理やり僕の目に押し当てながらいつもの優しい声で言う。
「悲しいし、悔しいし、納得もいかないけど、わかったことにするよ。周ちゃんを泣かせてまでワガママ言えないし」
ハンカチを僕の手に握らせてから沙希子は立ち上がる。僕は顔をあげることすらできない。
「このコーヒーは奢ってよね。そんで、勝手に幸せになって」
沙希子の温かい手が僕の頭をぽんと撫でる。焦げるような痛みが胸に広がる。
引き止めなくてはいけない。謝らなくてはいけない。やっぱり僕には沙希子しかいない、そんなことずっとずっと分かっている。
「周ちゃん、大好きだったよ」

沙希子の気配が消える。喫茶店の扉にかけられたベルがカランと寂しげに鳴り、扉が閉まる冷たい音がする。結局口がつけられることのなかったアイスコーヒーからは氷が消えてしまっていた。


僕は顔をあげられず、机に増えていく染みをただ見つめることしかできない。
気付けばポケットの中のケータイが鳴っている。きっと梨花からの連絡に違いない。
僕は沙希子の香りのするハンカチを両目に押し当て、先の見えない未来に身震いする。
1つだけ、どうしようもなく確実にわかりきっていることはある。
僕はこの先、一生今日のことを後悔する。
ポケットから漏れる着信音は、いつまでもいつまでも鳴り止まない。

(か)彼

私が彼を殺した
比喩でもなんでもなく、ただ、物理的に。
二度と息が吹き返さないよう、できるだけ念入りに、念入りに、4度刺した。
最初は背中から。いつもむね肉を切るのに使っている包丁を両手に握りしめて、少し走りながら勢いよく刺した。幸い骨には当たらず、包丁は柄の寸前までスルッと彼の背中に飲み込まれた。それで終わりかと思った。しかし、生命とはそうあっさりと尽きるものではないらしい。彼は少しだけ呻いて、腰を折り曲げながらこちらを振り返ったのだ。私は驚いて、とっさに彼の背中から包丁を抜いた。
人通りが少なく、できるだけ灯りのない道を選んだつもりだったが、月がやけに明るい夜で、振り返った彼の表情がはっきりと見えた。
驚き、悲しみ、哀れみ、憎しみ。どれにもよく似た表情で、そして、きっとその全てを含んだ表情だったのだろう。低い声で呻きながら私に手を伸ばす彼を阻止するように私は既に血だらけの包丁を彼の胸目掛けて突き刺した。彼より伸長が15センチ低い私が胸を狙うと、やや不恰好になり、力も上手く入らない。さらに肋骨に拒まれ、包丁は彼の胸のかなり浅いところで止まった。
しかし最初に深く刺した背中の穴から溢れ続ける血のおかげで彼の顔からはどんどん色がなくなり、ついに膝をつき、ゆっくりとうつ伏せに倒れていった。私は倒れた彼の身体の横に膝をつき、両手で彼の肩甲骨の下あたりに勢いよく包丁を突き刺した。柄までとはいかなかったが、かなり手応えを感じた。彼は最後に鈍い声をあげ、動かなくなった。
人は三度刺されてやっと死ぬのか、と心でぼやいてから、念のためにもう一度背骨のあたりを刺した。暗い上に、彼は黒いコートを着ていたため、どれだけ血がでているのかはわからなかった。私は立ち上がり、目を凝らして自分の身体をチェックする。4度刺したわりに帰り血は浴びていない。しかし、膝を着いたときにコンクリートに流れていた血がついたのか、スキニーの膝の部分だけ少し黒く汚れていた。最近買ったばかりだったのに迂闊だった。私は少し重い気持ちになる。勿体無いけど洗って使う気にもなれない。次のごみの日に捨ててしまおう。
握りしめたままの包丁と両手に嵌めた安い革の手袋にはべっとり血がついていた。包丁はそのまんま捨ててしまいたかったが、凶器が見つかっていない方が捕まりにくくなりそうだなぁとぼんやり思って、とりあえず持ったまま立ち去ることにした。
別に逃げ切ろうと心に決めているわけではないが、捕まらないならそれにこしたことはない。
私は冷たいコンクリートに転がる彼の鞄に黒く染まった包丁と手袋を入れて持ち上げた。そのときに彼の鞄の奥にラッピングされたティファニーの小さな箱があるのが目についた。私はその箱を自分のコートのポケットに突っ込み、その場を後にした。

5分ほど歩くと街灯が増え、住宅街に入る。時間は深夜1時をまわった頃で灯りの点る窓は殆どない。明日はごみの日で、ぽつぽつと何件かフライングでごみ袋を玄関前に置いている家が見られた。
私はコートのポケットに突っ込んでいたティファニーの箱を取りだし、テキトーなごみ袋の結び目をそっと開けてその中に捨てた。ごみ袋を結び直す手は寒さにかじかんでいて、もうさっさと帰ろうと早足に住宅街を抜ける。

途中でコンビニの明るい看板が目に入る。ホットコーヒーでも飲みたいと思ったが、汚れたスキニーと、どう見ても服装に合わないビジネスバックが気になって諦めた。自分のアパートを目指して真っ直ぐ歩く。この街にはもう誰もいないんじゃないかと思えるぐらい、不思議と誰にも会わずに帰ってこれた。

さっさと熱いシャワーを浴びたかったが、血だらけの凶器をそのままにしておくのも気持ち悪く、100円均一で買いだめしていた新品のタオルでぐるぐる巻いて適当な小さな紙袋に入れた。手袋は2つに裁断して、4つのナプキンに包んみ、汚物用の真っ黒な袋に入れて固く結んだ。明日のごみの日に他のごみと一緒にだせばいい。包丁はどこかの駅で捨てておこう、幸い明日は出張で新幹線に乗る。停車中の電車のゴミ箱に突っ込んでおくのでもいい。
そんなことを考えながら熱いシャワーを浴びた。罪悪感も達成感もなかった。ただのありふれた日常のひとこまのようだ。
髪を乾かすと眠気が込み上げてくる。アラームをかけようとしてケータイを見ると図ったかのようなタイミングで友人の遥から電話がかかってきた。寝ているふりをしようか迷ったが、電話をとる。

「もしもし、麻衣子。ごめん、寝てた?」
「ううん、起きてたよ。誕生日おめでとう、遥」
「ありがとー。それが、聞いてよ。宗久さん、今日の0時過ぎに家を抜け出して会いに来てくれるって言ってたクセにこの時間になっても来てくれないのよ?私、待ってたのに。もう最悪。」
「酷い話だね、連絡とってみたの?」
「メールは入れたけど返信ないの。電話は私からは禁止されてるし…」
「家出る時に奥さんに見付かったとかじゃないの?遥も明日仕事でしょ、もう諦めて寝なよ。」
「うーん。なんか最近宗久さん冷たい気がするの。」
「不倫に罪悪感抱き始めたとか?」
「うん、それもあるかもしれないけど、私が思うにはさ…」
遥の声がそこで詰まる。私を伺っている。彼女は少しの間を置いて小さく息を吸う。口を開く微かな音が伝わる。
「もう一人、いる気がするんだよね、不倫相手。」

私は遥の言葉を笑い飛ばし、考えすぎだと慰めて電話を切った。

(お)終わりの終わりに

凍てつくような真冬の朝、会社に行くまでの道のりで突然酷い衝撃を背中に受けた時、「あぁ怨念に遂に追い付かれたのか」と直感した。
まず最初に浮かんだのはストレスを理由に仕事を辞めた後輩の顔だった。

「もう僕無理っぽいです。」
白い息を吐きながら冗談のように笑う彼の言葉が冗談でないことぐらい疎い私にもすぐにわかった。それが彼なりの必死のSOSだったことも。だけど私には向き合う余裕も、また優しさもなく、その振り絞るかのようなサインをなかったことにして笑った。なんと答えたかも覚えていない。
その後彼が亡くなったらしいと耳にした。やけに強調された「事故で」という言葉が不自然に社内を巡回していた。


衝撃が消えて、あたりが静かになる。
息苦しさに耐えきれず口を開く。冬特有の枯れ葉や湿った土の匂いを含んだ空気が身体に力なく入ってくる。


次に浮かんだのは去年別れた恋人の顔だった。
とても優しい人だった。そして、本気で私を愛してくれているのがよくわかっていた。私はそんな彼を愛し、そして生涯大切にするべきだった。そうあるべきなのはわかっていた。
しかし、付き合い始めて2年たった凍えるような朝、突然「欲望」としか表現できない感情が私の中でむくっと芽をだした。私は、私を信じきった彼の、私に裏切られた時の顔が見たくなったのだ、どうしようもなく。
そんな欲望はさらに3年かけてより膨らんだ。
愛はいつか風化する。だけどそれが傷になった場合、もっと長く彼の中に残れるんじゃないか。いつか誰もが私を忘れる日が来ても、彼はふとしたとき思い出してくれるんじゃないか。
誤った理屈なことはわかっていた。でも、止めることのできない衝動だった。
付き合って5年目、雪の降る夜、私は彼を深く、深く、念入りに、傷付けた。
何の戸惑いもなくやり遂げた自分が、私が管理していたはずの身体から随分遠いところに行ってしまったようで、寂しくて、少しだけ涙がでた。


冷えきっていたはずの身体が少し温かくなる。太陽が照ってきたのだろうか、空を見上げようとするが愛想のないコンクリートの地面しか見えない。
誰かが遠慮がちに私に触れる。


私の頭には次々と泣きそうな、すがるような目をした人たちの顔が写し出される。私が傷付け、追い込み、救わなかった人。私をしっかりと覚えているであろう人。
それを望んでいたはずなのに、いつしか怖くなっていた。
だから必死に前だけ見て走っていた。
だけどついに追い付かれてしまったのだ。
皮肉にもこんなにも寒い、大嫌いで、そして抱き締めたくなるぐらいたまらなく好きな冬の朝に。

もう温かさも冷たさも感じない。
こんなにほっとした気分で消えていくなら、もっと真剣に誰かと向き合えば良かった。愛せば良かった、「死にたくない」と足掻けるぐらい、人を愛せば良かった。

身体にまとわりつく優しい怨念たちにむけ、血だまりの中で私はくすっと力なく笑う。