50音ショートショート

50音分のタイトルで短編を書き終えれたら、関係ないけどとりあえず仕事やめようと思う(-A-)

(あ)雨上がりを待つ間

「最悪死ねばいいんだ。」

今日何度目かわからないその台詞を自分に言い聞かせ、自転車の重いペダルをゆっくり踏みこむ。陽が沈むのと同時にぽつぽつ降りだした雨から逃げるよう、徐々にスピードを上げていく。薄暗くなった道を進めば進むほど私自身が足元の陰に吸い込まれ、自転車と私の形をした”何か”だけが私を置いてどんどん前へ進んでいく、そんな感覚に陥る。

 

一年前に電車の人混みに耐えられなくなって過呼吸を起こした。

そこに見知らぬ多くの人がいて、無数の心臓が動いているのだと思うと吐き気が止まらず、それ以来全く電車には乗れなくなってしまった。

車はおろか、免許も持っていない私は次にタクシー通勤を選んだ。だけど、運転手と狭い密室に閉じ込められることがすぐに辛くなり、もう半年近く自転車での通勤が続いている。

 

何事も段階を踏み、着々と状況や状態は悪くなる。いっそ一思いに堕ちた方が楽なのではないかと毎日のように思う。

いっそ一思いに死ぬことを選べたら。

 

最初の”逃げ道”は「最悪休めばいい。」だった。

必死に勉強してそこそこ名のある大学に入り、必死に就活をしてそこそこ名のある企業に入社した。

そして、いわゆる”パワハラ上司”の下につき、入社して半年たつ頃には毎晩「最悪休めばいい。」と自分に言い聞かし、毎朝重い気持ちをごまかして出社した。

 

次の暗示は「最悪辞めればいい。」だった。

2年目になり、仕事量が山のように増え、休日出勤が当たり前になっていた。どんなに体調が悪くても「体調管理ができていない。」、「自業自得だ。」と一蹴され、休むという選択肢が完全に頭から抜け落ちてしまっていた。毎晩深夜に自宅のトイレで嘔吐しながら「最悪辞めればいい。」と自分に言い聞かし、毎朝重い身体を引きずって出社した。

 

そして今、「最悪死ねばいい。」と繰り返す私は会社をとっくに辞めていた。

身体も心も限界だった。

 

仕事をやめたことは両親にすぐばれた。

プライドが高く、世間体を気にする父と母は酷く私を攻めた。

そして、なかば勘当されたような形で私と両親との縁はあっさり切れた。

 

流れるように人生を踏み違えた私に、なかなか仕事は見つからなかった。

貯金も尽きかけ、投げやりな私が踏み込んだのは夜の仕事だった。

初めはキャバクラ。だけど、お酒は殆ど飲むことができない体質だったことと、人と上手く話すことができなくなっていたこともあって半年とたたずに辞めた。

そして、さらに道を踏み違えていき、流れ着いたのが今の仕事。風俗だった。

 

こうして、私は律儀に段階を踏みながら

今日まで堕ちてきたのだ。

 

 

「ペトリコールっていうんだよ。」

「え?」

私は開け放した窓から目を離し、シャワールームから出てきた上裸の男に視線をやる。45分間抱き合った相手だというのに、その男の顔に全く見覚えはない。最初と最後で男が入れ替わっていてもきっと私は気づけないだろうなとぼんやり思いながら、「なぁに、それ?」と馬鹿みたいな女の声が聞く。

「リサちゃん、さっき雨の匂いがするって言ったでしょ。それ、ペトリコールって名前がついてるんだよ。」

男は得意気に言いながら下着姿の私の横に立ち、その右腕で肩を抱く。そして、しとしとと降っている雨の強さを確かめるように、窓の外に左手を伸ばす。雨は強さを増していた。

 

いわゆる”デリヘル”と呼ばれる私は、基本的に窓なんてないラブホテルに呼び出されることが殆どで、今日みたいに小綺麗なビジネスホテルで迎えてくれるのは最近よく私を指名するこの男だけだった。男の顔も名前も覚えられないけれど、呼び出し先がこのビジネスホテルの時は少し心が踊る。狭い部屋でも、たとえ外が雨でも、知らない男に抱かれていても、窓があるだけで自由を手にしている気がするのだ。

男がシャワーを浴びる間、私は毎回窓辺に立ち、窓を開けて外を眺めるようになっていた。

「名前なんてあったんだね、知らなかった。物知りね。」私は男ににこっと笑いかける。

とりあえず、行為後に会話に困った時は男を褒めておけばいい。それは私がこの業界に入ったときに20分程度の短い研修で学んだ数少ないことのうちの1つだった。

男はまた得意気に笑い、窓を閉じた。

閉じられた窓を見つめ、私は息苦しさをぐっとこらえて男に微笑み、肩を抱くその腕からするっと逃れてベッドの周りに散らばった自分の服を拾い集める。キャミソールを手にした私の手首を男がそっと掴む。

「延長、してもいい?」

若いなぁ、と、ただそれだけ思う。改めて男の顔を見ると実際に若々しく、恐らく私より年下であることがわかる。若いわりにはやけに自信に充ちていて、身に付けている服や時計も決して安くはないものばかりだ。

きっと昼間の彼は成功者なのだろう。そんな男が夜な夜な私のような敗者を買う。そこには優越感も劣等感も皮肉も哀れみもない。ただその事実と、尽きない男の性欲があるということ、それだけ。

「もちろん、何時間でも。」

私はプログラムされた笑顔を呈示する。窓のある部屋でいられるだけ幸せなのだ。

男は微笑んで私の背中に手をまわし、ブラを外しながら深く深くキスをした。

 

 

「リサちゃん、俺、もう本当にリサちゃんが好きになってる。」

延長時間が尽きた頃、メイクを直していた私を後ろから抱き締めながら男が甘い声で囁く。

「本当に本当に愛しているんだ。もう他の誰にも抱かれてほしくない。」

彼は私に名前と携帯番号を書いたメモを握らせた。

「僕は君の全てを受け入れるよ。」

 

 

0時を過ぎた頃、事務所に戻ると佐久間くんがスマホをいじりながら「リサさん、おかえりなさーい。」と気の抜けた声で出迎えてくれる。

このデリヘル専門店は小綺麗なビルの1室を事務所として使っており、ここで女の子たちはテレビを見たりスマホで遊んだりしながら客からの呼び出しを待つ。佐久間くんはアルバイトの電話番兼用心棒で、可愛らしい顔とは裏腹に格闘技に長けていてとても強い、らしい。

「雨まだ降ってます?」

スマホを片手にしたままぼんやり訊ねる佐久間くんに「降ってるよ。」と返しながら、私は女の子の控え室である奥の部屋へ入る。

 

女の子たちは皆出払っていて、部屋には誰もいなかった。つけっぱなしにされているテレビは、一目でくだらないとわかるバラエティ番組を垂れ流す。私はテレビの前にある大きなソファーに座り、ポケットから紙切れを取り出す。

携帯番号と名前が書かれたただの紙切れ。客からそういったものを渡されることは日常茶飯事で、いつも迷わず事務所のゴミ箱に捨てていた。

私はぼんやり紙切れを眺める。

そして、この紙切れを捨てることに少し迷っている自分に気付く。

窓のある部屋を与えてくれる人。「全てを受け入れる」と言った、私を救ってくれるかもしれない人。

 

「今夜ご紹介するのは人気沸騰中のペトリコール!」

 

つけっぱなしのテレビから流れた言葉にはっとする。

ペトリコール。なんだっけ。どこかで聞いた気がする言葉。私は思わず紙切れを握りしめ、テレビ画面を見つめる。

その番組は東京のおすすめスイーツを紹介するものらしく、栗色の明るい髪をポニーテールにした見たことのない若い女がペトリコールという店の大きなシュークリームを頬張りながら、くだらない感想を述べている。

 

「食べるとたちまち幸せになれると評判のペトリコールのシュークリーム!あなたも幸せになりませんか?」

 

幸せになりませんか?

なれるものならなりたかったけど。

私は鼻で笑ってテレビを消す。静まり返った部屋に、まるでそのタイミングを待っていたかのように玄関を開ける音と、「ナナさん、どうしたの?!」という佐久間くんの困った声と、佐久間くんが立ち上がった際に倒れたのであろう椅子が床に打ち付けられる安っぽい音が連続して聞こえてくる。

「うっさい!ほっといて!」

顔を見なくても泣いているとわかるような声で小さく叫びながら彼女は乱暴に私がいる部屋の扉を開ける。

目が合う。

「うぅー、真規子ー!」

傘をささなかったのか、長い髪をびしょびしょにして、涙で顔をぐちゃぐちゃにした女が私の隣にへなへなと座り込む。

「美波、どうしたの。」

私が唯一この店で本名を知っている人。

そして、唯一私の本名を知る人。

美波は私の声なんて聞こえてないように、薄いピンク色をしたハンカチで顔を被いながら泣き続ける。

「ナナさん、あの男にふられちゃったんでしょ。だからあいつ他の嬢をとっかえひっかえして遊んでるって言ったじゃない。」佐久間くんは心配そうに美波の肩にタオルをかけた。

「うるさい!うるさい!佐久間は出てって!」美波はハンカチで顔を隠したまま足をばたつかせ、鼻声で訴える。佐久間くんは困ったように私をみて、「リサさん、頼んます。」と金髪の頭を下げて部屋を出る。

「今度こそ本当に愛してくれてると思ったんだもん!一緒に住もうって言ってくれてたんだもん!」

美波は出ていく佐久間くんに見向きもせず泣き叫ぶ。髪と、大きな瞳からとめどなくぽたぽた落ちる滴がソファーにゆっくり染みをつくっていく。

こうやって男に裏切られた彼女を見るのは何度目だろう。

「だから客はやめときなって。」

私は佐久間くんが美波の肩にかけたタオルで彼女の茶色い綺麗な髪を拭く。美波が鼻をすする度に、彼女の耳からぶら下がったハート型のピアスがゆらゆら揺れる。

「デートだっていっぱいしたもん。すごい優しかったもん。」

「全部セックス付きでしょ。」

美波は黙りこくる。そして、高いしゃっくりをしながら嗚咽を漏らした。

「安いデート代だけでお気に入りの風俗嬢と好きなだけやれるんだからいくらでも男は優しくするよ。ましてや言葉なんてタダだから。愛してるなんていくらでも言うよ。」

ハンカチの下でちらりと見える彼女の歯が下唇を噛む。

「そんで、飽きたら捨てるよ。」

「うるさい!!」

美波が投げつけたハンカチは私に微塵もダメージを与えることなく、力なく足元に落ちた。美波は涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡れた顔をもう隠さない。

「そんなのわかってるけど!でも夢見たっていいじゃない!信じたっていいじゃない!私にだって愛される権利はあるでしょう?!」

…愛してくれたっていいじゃない。目一杯喚いた後、力なく付け足されたようなその言葉が行き場もなく宙にふわっと浮かぶ

「こんな私でも全てを受け入れてくれるって言ってくれたのに。愛してるって何度も言ってくれたのに。アキヒサさん、アキヒサさん。」

美波は泣きじゃくりながら何度も男の名を呼んだ。

 

“アキヒサさん。”

その名前を聞きながら、さっきテレビで聞いた言葉の意味を思い出す。ペトリコール。雨の匂い。

私は左手に握ったままだった紙切れをそっと開く。

さっきまで私を抱いていた男の携帯番号と、丁寧にフリガナの打たれた名前。

【東山彰久(ひがしやま あきひさ)】

ふと、笑いがこみあげた。私はその紙切れを丸めてソファーの横に置いてあるゴミ箱に捨てる。自分の惨めさや浅はかな希望ごと美波から隠すように。

「美波。とりあえずは、私がいるよ。」

私は顔を手で被いながら泣き続ける愚かな女をそっと抱き締める。こんな生き方しかできないのに、愛されることを望んで何度も傷付く彼女はきっととんでもなく馬鹿で、間抜けで、純粋だった。そして、残念ながらそれはきっと私も同じだ。

「真規子、真規子。」美波は私にしがみつくように泣いた。

真っ直ぐ、正しく生きられる女の子であるように。父がつけてくれた名前だった。 もう美波しか呼ぶ人のいない私の名前。 私の人生の真逆を指す名前。

「どうして私、こんなんになっちゃったんだろう。」それは私の声か、美波の声か。どうして私たちはこうなっちゃったんだろう。いつだって頑張ってきたつもりだったのに。

「最悪死ねばいいんだよ。」

私は目を閉じて無意識に呟く。毎日毎日真っ暗な中で、私を生かし続けた言葉。解放されないしがらみなんてこの世にはきっと何もない。最悪死ねばいいんだから。

 

「いやだ。」

私は目を開く。ほんの少しの間だけ目を閉じていたはずなのに、長い長い夜から目覚めた後のような感覚に陥る。

美波が泣き腫らした顔をあげ、大きな瞳で私を見つめている。今の今まで泣きじゃくっていたとは思えない、意志の宿った声に私はどきりとする。

「辛いときに死んじゃ駄目だよ。」

私を見つめる美波の瞳からはまだ涙がぼろぽろと流れている。しゃっくりを押し殺しながら彼女は続ける。

「今が最悪なの。これ以上酷いことなんてなにもない。私はこれから幸せになるの。だから辛い思いだけ味わって死ぬなんて嫌。」

美波は涙声で、それでも一言一言はっきりと続ける。

「私が死ぬときは『最高だった!』って言いながら死ぬんだから。」

その言葉は私にではなく、彼女自身に言い聞かせているようだった。

「私は愛されることを諦めない。」

きっとそれが彼女を生かす言葉なのだろう。

「真規子だってそうでしょう?」

涙を拭いながら私を見つめる美波の頭をそっと撫でる。少し乾いた髪から、ふわりと薫る花のような匂いがする。耳についたピアスが微かに揺れる。

「そうだね。だんだん、だんだん、またここからのぼっていける。」

そうだったらいいな、という気持ちで、私は美波に笑いかける。

「一思いに幸せの絶頂に昇らせてくれればいいけどね。」

美波は涙の筋がくっきり残る顔をくしゃっとさせて、拗ねたように笑う。

「そうそう、幸せってのは、ある日ぽっと訪れるんですよー。」

「え!佐久間くん!」

「びっくりした!急に出てきやがった!」

部屋の扉を開けて急に口を挟んできた佐久間くんに美波と私は驚きながら、また笑う。

「何、佐久間。聞いてたの?きっも。」

「顔、ぐちゃぐちゃですよ。”美波さん”。」佐久間くんは少し皺のある青いハンカチを美波に渡しながら微笑む。

「急に本名で呼ぶなよ、きっも。」

悪態をつきながら佐久間くんからハンカチを受け取り、遠慮なく鼻をかむ美波に私はまた少し笑ってしまう。

「いやぁ、もう暗い話が続くから俺出てきづらくて。」

佐久間くんはへらへら笑いながらそっと持っていた紙袋をテーブルの上に置いた。

「もう今日それ食べて帰っちゃっていいですよ。まぁアルバイトの俺にそんな権限ないっすけど、てきとーに誤魔化せるんで。」

「え、これ今超人気のシュークリームじゃん!なんで?佐久間並んだの?!」

美波の言葉で、佐久間くんがテーブルに置いた紙袋がついさっきテレビに写っていた店のものだと気付く。

「美波さん、この前雑誌見てこれ食べたいって言ってたじゃないすか。」

佐久間くんは少し照れたように笑う。

「雨の匂いは降り始めより、止んだ後の方が強いんですよ。」

「なにそれ。」

「ペトリコールって店名。雨上がりの匂いって意味を込めてるんですって。で、雨上がりに食べる幸せのシュークリーム。」

彼はおどけたように続ける。

「良いこと言ってるふうだけど全然意味わかんないし。」

「雨まだ降ってるし。」

からかうように意地悪く笑う私と美波に佐久間くんはひどいなぁー、と苦笑いする。

「まぁ、なんせそれでお二人が幸せになれんなら、俺は何時間でも並べますよってことっす。」

彼はそれだけ早口で言うとひらひら手を振りながら部屋を出ていった。

美波は佐久間くんが出ていったドアをぽかんと見つめていたが、ふっと微笑んで紙袋からシュークリームの箱を取り出した。

「こんなんで幸せになれるかっつーの。ねぇ!はい、真規子も食え食え。」

怒った素振りで箱を開ける美波の瞳からもう雫は落ちてこない。

「幸せは思わぬところからきたね。」

私は遠慮なく箱の中から綺麗な小麦色のシュークリームを取り出しながら呟く。

「だから!こんなんで幸せになれるかっての!」声をあらげながら美波はシュークリームを頬張る。

「でもさ」

美波は頬張ったせいで口のまわりについたクリームを指先で拭いながらぽつりと呟くように続ける。

「こんなシュークリームごときでさ、ちょっと絶望が和らいじゃうぐらい単純なんだからさ、あと半年もしたら私、超ハッピーになってるかもだよね。」

「シュークリームと佐久間くんの優しさでね。」私はからかうように笑う。

「シュークリームと愛しの真規子のおかげでね!」

調子良いなぁと私はまた笑いながらシュークリームをかじる。

甘い甘い味がする。

二人がシュークリームを食べ終わる頃には、雨が止んでいればいい。