50音ショートショート

50音分のタイトルで短編を書き終えれたら、関係ないけどとりあえず仕事やめようと思う(-A-)

(か)彼

私が彼を殺した
比喩でもなんでもなく、ただ、物理的に。
二度と息が吹き返さないよう、できるだけ念入りに、念入りに、4度刺した。
最初は背中から。いつもむね肉を切るのに使っている包丁を両手に握りしめて、少し走りながら勢いよく刺した。幸い骨には当たらず、包丁は柄の寸前までスルッと彼の背中に飲み込まれた。それで終わりかと思った。しかし、生命とはそうあっさりと尽きるものではないらしい。彼は少しだけ呻いて、腰を折り曲げながらこちらを振り返ったのだ。私は驚いて、とっさに彼の背中から包丁を抜いた。
人通りが少なく、できるだけ灯りのない道を選んだつもりだったが、月がやけに明るい夜で、振り返った彼の表情がはっきりと見えた。
驚き、悲しみ、哀れみ、憎しみ。どれにもよく似た表情で、そして、きっとその全てを含んだ表情だったのだろう。低い声で呻きながら私に手を伸ばす彼を阻止するように私は既に血だらけの包丁を彼の胸目掛けて突き刺した。彼より伸長が15センチ低い私が胸を狙うと、やや不恰好になり、力も上手く入らない。さらに肋骨に拒まれ、包丁は彼の胸のかなり浅いところで止まった。
しかし最初に深く刺した背中の穴から溢れ続ける血のおかげで彼の顔からはどんどん色がなくなり、ついに膝をつき、ゆっくりとうつ伏せに倒れていった。私は倒れた彼の身体の横に膝をつき、両手で彼の肩甲骨の下あたりに勢いよく包丁を突き刺した。柄までとはいかなかったが、かなり手応えを感じた。彼は最後に鈍い声をあげ、動かなくなった。
人は三度刺されてやっと死ぬのか、と心でぼやいてから、念のためにもう一度背骨のあたりを刺した。暗い上に、彼は黒いコートを着ていたため、どれだけ血がでているのかはわからなかった。私は立ち上がり、目を凝らして自分の身体をチェックする。4度刺したわりに帰り血は浴びていない。しかし、膝を着いたときにコンクリートに流れていた血がついたのか、スキニーの膝の部分だけ少し黒く汚れていた。最近買ったばかりだったのに迂闊だった。私は少し重い気持ちになる。勿体無いけど洗って使う気にもなれない。次のごみの日に捨ててしまおう。
握りしめたままの包丁と両手に嵌めた安い革の手袋にはべっとり血がついていた。包丁はそのまんま捨ててしまいたかったが、凶器が見つかっていない方が捕まりにくくなりそうだなぁとぼんやり思って、とりあえず持ったまま立ち去ることにした。
別に逃げ切ろうと心に決めているわけではないが、捕まらないならそれにこしたことはない。
私は冷たいコンクリートに転がる彼の鞄に黒く染まった包丁と手袋を入れて持ち上げた。そのときに彼の鞄の奥にラッピングされたティファニーの小さな箱があるのが目についた。私はその箱を自分のコートのポケットに突っ込み、その場を後にした。

5分ほど歩くと街灯が増え、住宅街に入る。時間は深夜1時をまわった頃で灯りの点る窓は殆どない。明日はごみの日で、ぽつぽつと何件かフライングでごみ袋を玄関前に置いている家が見られた。
私はコートのポケットに突っ込んでいたティファニーの箱を取りだし、テキトーなごみ袋の結び目をそっと開けてその中に捨てた。ごみ袋を結び直す手は寒さにかじかんでいて、もうさっさと帰ろうと早足に住宅街を抜ける。

途中でコンビニの明るい看板が目に入る。ホットコーヒーでも飲みたいと思ったが、汚れたスキニーと、どう見ても服装に合わないビジネスバックが気になって諦めた。自分のアパートを目指して真っ直ぐ歩く。この街にはもう誰もいないんじゃないかと思えるぐらい、不思議と誰にも会わずに帰ってこれた。

さっさと熱いシャワーを浴びたかったが、血だらけの凶器をそのままにしておくのも気持ち悪く、100円均一で買いだめしていた新品のタオルでぐるぐる巻いて適当な小さな紙袋に入れた。手袋は2つに裁断して、4つのナプキンに包んみ、汚物用の真っ黒な袋に入れて固く結んだ。明日のごみの日に他のごみと一緒にだせばいい。包丁はどこかの駅で捨てておこう、幸い明日は出張で新幹線に乗る。停車中の電車のゴミ箱に突っ込んでおくのでもいい。
そんなことを考えながら熱いシャワーを浴びた。罪悪感も達成感もなかった。ただのありふれた日常のひとこまのようだ。
髪を乾かすと眠気が込み上げてくる。アラームをかけようとしてケータイを見ると図ったかのようなタイミングで友人の遥から電話がかかってきた。寝ているふりをしようか迷ったが、電話をとる。

「もしもし、麻衣子。ごめん、寝てた?」
「ううん、起きてたよ。誕生日おめでとう、遥」
「ありがとー。それが、聞いてよ。宗久さん、今日の0時過ぎに家を抜け出して会いに来てくれるって言ってたクセにこの時間になっても来てくれないのよ?私、待ってたのに。もう最悪。」
「酷い話だね、連絡とってみたの?」
「メールは入れたけど返信ないの。電話は私からは禁止されてるし…」
「家出る時に奥さんに見付かったとかじゃないの?遥も明日仕事でしょ、もう諦めて寝なよ。」
「うーん。なんか最近宗久さん冷たい気がするの。」
「不倫に罪悪感抱き始めたとか?」
「うん、それもあるかもしれないけど、私が思うにはさ…」
遥の声がそこで詰まる。私を伺っている。彼女は少しの間を置いて小さく息を吸う。口を開く微かな音が伝わる。
「もう一人、いる気がするんだよね、不倫相手。」

私は遥の言葉を笑い飛ばし、考えすぎだと慰めて電話を切った。