50音ショートショート

50音分のタイトルで短編を書き終えれたら、関係ないけどとりあえず仕事やめようと思う(-A-)

(ち)父

父はとても無愛想な人だった。

私が小学生だった頃、父の日のプレゼントにと、図画工作の時間に父の似顔絵を描いたことがあった。

小さい頃から絵が得意だった私は、父の顔を思い浮かべながら似顔絵を紙いっぱいに描いた。

できあがったそれは我ながら良い出来で、父そっくりだった。しかし、父に似せようとするあまり、他の子たちが描くような笑顔のお父さんとは違い、ニコリともしていない不愛想なお父さんが私の画用紙には描かれてしまった。

先生は私の絵を見て、「上手ね」と褒めながらも、少し困った顔をしていた。

 

父の日当日、初めて渡す父へのプレゼントに、私は内心とてもわくわくしていた。

不愛想な表情の絵になってしまったけれど、今まで描いた絵の中で一番上手に描けたという自信はあったし、必ず喜んでくれるとも思っていた。

しかし、絵を受け取った父は、ありがとう、とも、下手くそ、とも言わず、片手でそれを受け取り、ちらりと見ただけでテーブルの上に置いてしまった。そして、何事もなかったかのように晩御飯の続きを食べ始めたのだ。

そんな父の反応に、直前まで胸いっぱいに広がっていた私の期待は一瞬で消え去った。そして代わりに、灰色のざらざらした悲しみが沸き起こるのを幼い私は感じた。

途端に鼻の奥がツンとし、涙が込み上げてきそうになったが、ここで泣いてしまったら父に呆れられてしまうという根拠のない確信がそれを必死に食い止めた。

私は、テーブルの上に無造作に置かれた父の不愛想な顔と、正面に座る本物の不愛想な顔を必死に視界から外し、時折零れそうになる涙を誤魔化しながら、母が作ってくれたハンバーグを一心不乱に飲み込み続けた。

 

父はとても静かな人だった。

私が中学生だった頃、少し悪い友人たちとつるむことも、髪を明るく染めたことについても父は何も言わなかった。

ある日、夜遅く家に帰った私から漂う煙草の匂いに、母は怒鳴り声をあげた。

母の大声など怖くもなんともなく、私は無視をして二階の自室に向かった。そして、階段の途中で、母の怒鳴り声を聞きつけて部屋から出てきたのであろう父と鉢合わせた。

「お前が吸っているのか?」と、父は静かに尋ねた。

実は、吸っていたのは友人だけで、煙草の匂いが苦手な私は吸っていなかったのだけれど、なんだかそれがカッコ悪いことのように思えて、「吸ってたらなんなの?」と、私はできるだけ冷たく答え、父から逃げるように速足で階段を上がった。

「かっこよくは、ないんだぞ」

ひとりごとのように小さく、しかし、はっきりと断言するような父の言葉に、私は思わず立ち止まった。顔がかっと熱くなるのを感じた。

父のその言葉をかき消すように、そして、自分が今感じている顔の熱を悟られないように、私は大きな音をたてて部屋の扉を閉めた。

次の日から、父の言葉に抗うように煙草を吸い始めた。

ちっとも美味しくなんてなかった。

すると、なんだか今やっている反抗全てがバカらしくなって、私はしばらくしてそのグループを抜け、髪を黒くした。

やはり、父は何も言わなかった。

 

父はとても勝手な人だった。

私が高校3年生になったころ、進路について母や先生と対立することが多くなった。

それなりに勉強ができた私に、母や先生は国立大学の受験を勧めた。

だが、私には行きたい美術大学があった。

その大学は入学が難しいうえに、入ってからも多額の授業料が必要となる。

そして、大学を無事卒業したとしても、芸術で食べていけるのは古今東西ほんの一握りであることは、その頃の私でもよくわかっていた。それでも、どうしても挑戦してみたかった。

しかし、毎日のように母や先生から「現実は甘くないのだから」と説かれ続け、周りの友達がせっせと一般大学に向けての受験勉強を進めるのを見ているうちに、私の中の漠然とした不安や焦りはどんどん膨れ上がり、自信や希望は隅っこへ追いやられていった。

そして、そろそろ進路をはっきり決めて勉強しなくては、という高校三年生の初夏。

不安に負けて自分の力を信じられなくなっていた私は、一般の大学受験を選ぶことにした。

 

普通の大学に行ったって芸術の道に進むことはできる。なんなら趣味で続けるだけでもいい。

そう自分に言い聞かせ、受験勉強を始めた頃、今まで進路に関して全く口を出さなかった父が、大量のスケッチブックと高価な絵具を買って帰ってきた。

無言でそれらを私に手渡し、何事もなかったかのように晩御飯を食べようとする父に、私は混乱しながらも「もう美大うけないんだけど」と、呟いた。

父は「うん」と頷いてから、手にしたばかりの箸を置いて、画材を持って立ちすくむ私の目をじっと見つめた。

「母さんも、先生も、お前の人生に責任は持てないんだぞ」

久々に正面から見る父の顔は、記憶にあったものより大分老けて見えた。だけど、大事なことをはっきりと断言するような話し方は、昔から何も変わっていなかった。

「責任を持てるのは、お前だけだ。だから、流されず、自分が好きな方を選びなさい」

そして、「責任はとれないが、応援も支援もする」と、ほんの少しだけ笑ってみせた。

父のそんな表情を初めて見た気がした。

そして、たったそれだけの言葉に、私はあっさりと背中を押されてしまった。

私は、父が買い与えてくれた画材の紙袋をぎゅっと握りしめ、「美大を、受験したい、です」と、父を真似て、はっきりと、自分に言い聞かせるように言った。

父に、母に、そして自分自身に。

その声は、自分が思っていた以上に大きな声だった。

母は「余計なことをしてくれた」と、父に対して口を尖らせていたが、すぐに「仕方ないな」と笑ってくれた。

 

父はとても不器用な人だった。

私が美大を卒業し、小さな事務所でイラストデザイナーとして就職し、細々と一人暮らしを始めた頃。父はずっと拒み続けていた携帯電話を持った。

父からメールや電話がくることはなかったが、私が所用で父にメールを送ると、毎回一分と経たずに誤字だらけの返信がきた。

たった一度だけ、そんな父からメールがきたことがあった。

それは、私が慣れない環境や思うようにいかない仕事を前に、自己嫌悪に陥っていた時。

もうやめてしまおうか。やっぱり普通の大学に行って普通に就職すればよかった。私には才能なんてない。もうやめてしまいたい。

そんなことをぐるぐる考え、泣き出しそうになる冬の夜のことだった。

突然父から、「元気か。味方だぞ。」という、何の脈絡もない短いメールが届いたのだ。

どういった経緯で送られてきたものなのか、そもそも本当に私に向けられたメールなのか。全く全貌がよくわからないその父からのたった一行に、何故か涙が溢れた。

堰を切ったように止まらなくなった涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、「何の話?」ととぼけて返したメールには、「間違えて送ってしまった」と、やはりすぐに返信がきた。

その返信に、私は一人で泣きながら笑った。


 

今、父の遺品を整理しながら様々なことを思い返す。

初めて買ってから一度も買い換えることのなかった父の携帯電話には、すごい量の未送信メールが残っていた。

「ご飯は食べてるか?」「次帰ってくるときは焼肉にしよう」「無理せず頑張れ」「雑誌でお前の絵を見たぞ」「お前は良い仕事をしてる」「たまには帰ってこい」「間違ってなんかないぞ」

未送信フォルダに何十件もあった短いメールの宛名は、全て私だった。

私は、いつかの夜のように泣きながら笑い、携帯電話を小さな箱の中にそっといれる。

父の形見として、私が父の部屋から集めたものが、その小さな箱に詰まっていた。


額にまで入れて大事に書斎にしまわれていた不愛想な似顔絵。


当時吸った記憶もないのに、中身がよくなくなっていた私の煙草と同じ銘柄の煙草数十本。


大量の絵画の本や、美術大学のパンフレット。


そして、私がデザインした全てのチラシやポスター。


私はその小さな箱にそっと蓋をする。

蓋の上に重ねた両手がほのかに温まるのを感じた。