50音ショートショート

50音分のタイトルで短編を書き終えれたら、関係ないけどとりあえず仕事やめようと思う(-A-)

(け)決別の賛歌

彼女は天才を愛していた。何故なら、彼女自身が天才ではなかったからだ。

彼女のピアノの技術はとても高かった。しかし、彼女が奏でる音は、輪郭も、表情も持たなかった。どれほど血が滲むような練習を繰り返しても、彼女の指からはのっぺりとした、無機質な音がただただ零れ落ちるだけだった。

そんな彼女のピアノに最も絶望していたのは他の誰でもない、彼女自身だった。

彼女に出会った時、大音量で発し続けられる彼女の悲鳴を僕は感じ取った。そして、底のない絶望を小さな身体に抱える彼女を、とても美しいと感じた。

僕は彼女を愛していた。誰よりも、愛していた。

しかし、結局のところ、彩子が愛していたのは僕の才能だけだった。

 

宮下翔という男のピアノを初めて耳にしたのは、僕と彩子が交際を初めて2年たった春のことだった。

 

その日は、かつての世界的ピアニスト、凍江琴美先生の45歳の誕生日だった。

凍江先生は5年前にピアニストを引退し、若い音楽家の育成に力を入れていた。

1年程前、凍江先生が審査員を務める国内のコンクールで準優勝したのをきっかけに、僕は時折、凍江先生にレッスンをつけてもらうようになっていた。

何度か、正式に自分に師事しないか、という誘いも凍江先生から受けていたが、丁重に断っていた。

ピアノは大好きだった。他の人にはないピアノの才能が自分にあることも知っていた。

だけど、僕はコンクールで優勝したいわけでも、プロとして活躍したいわけでもなかった。ただ楽しく、自分の好きな音を奏で続けられるだけで良かった。

そして、どこかで、彩子を置き去りにしてピアノに没頭してしまうことへの後ろめたさがあったのも事実だった。

 

凍江先生の誕生日パーティで、僕は凍江先生に師事する他の若手ピアニストに混ざり、順に1曲ずつ演奏することになっていた。

凍江先生の教え子の演奏は、どれも若い力溢れる素晴らしいものだった。

僕は彩子と共にパーティに出席し、彼らの演奏に聴き入った。

どの奏者の演奏も雰囲気は異なり、それぞれの音を主張していたが、ピアノの鳴らし方や曲の解釈の仕方にどことなく似通ったところがあり、そこに凍江先生の偉大な影が見え隠れしていた。

彼らの才能を発掘し、個性を伸ばしながらここまで適確に美しく育てたのだとしたら、本当に凍江先生は素晴らしい師であると感じた。

だが、自分の演奏が彼らの中の誰にも劣らないことを、僕は自覚していた。

「さて、次は特別ゲスト。凍江先生がスカウトし続けている広瀬慧さんです」

司会の女性がいたずらに微笑みながら僕の名を呼ぶ。周りが少しざわめく。

僕は彩子に「いってくるね」と笑いかけ、意気揚々と、客席より1段程高いだけの小さなステージに上がってお辞儀をする。顔をあげる頃にはざわめきが消え去り、小さな会場はしんと静まり返っていた。

あらゆる視線が僕に向けられている。

好奇の目。期待の目。嫉妬の目。緊張の目。

無数の感情を抱いた別々の個体全てが、今、僕の音に神経を集中させようと沈黙している。昔からこの瞬間が、たまらなく好きだった。

僕はそっと息を吸い込んでから、撫でるようにやさしく鍵盤に触れた。

そうしてしまえば、あとは指が勝手に動き出し、ピアノが歌いだしてくれる。

ドビュッシーの喜びの島。

幸せと儚さを連想させる、僕のお気に入りの曲。そして、彩子が一番好きな曲。

キラキラした音が澱みなく、真っすぐに会場にいる全ての人の耳に吸い込まれていく。そんな幸福な感覚に溺れそうになる。

僕は、思う存分ピアノの歌声を楽しみ、そして、勢いを殺さぬまま最後の音を送り出した。盛大な拍手が聞こえる。ピアノの椅子から降り、正面を向くと、一番に彩子の笑顔が視界に入る。

僕は充たされた気分のまま微笑んで一礼し、低いステージからぴょんと飛び下り、演奏前と同じように彩子の隣に戻った。

 

幸せだった。僕は今のままでいい。

このままずっと大好きなピアノを大好きな人の隣で弾いていたい、と、強く思った。

しかし、そんな充たされた瞬間はあっけなく終わってしまったのだ。

 

「最高だった」と、口々に声をかけてくれる周りの人たちにお礼をしていると、司会の女性の声が再び聞こえた。

「さて、予定では奏者は広瀬さんで最後だったんですが、凍江先生のお誕生日ということで、急遽留学中のパリから駆けつけてくださった方がいます。凍江先生の甥っ子さんで、サックス奏者の宮本翔さんです」

僕は首を傾げる。サックス奏者?ピアノのステージでサックスを吹くのだろうか。

疑問を抱いたのは僕だけではなかったらしく、周りは一層低くざわめいた。

興味津々で目を向けたステージには、背の高い、僕より若いであろう青年がすっと立っていた。

凍江先生に甥がいたことも、宮本翔というサックス奏者の名前も聞いたことはなかったが、その姿を見ただけで、何故か背筋がぴんと伸びた。

陳腐な言葉を使うのなら、「オーラ」を感じたのかもしれない。

彼は行儀良くお辞儀をしてから、当たり前のようにピアノの前に座った。

周りから、「ピアノを弾くのか?」という、僕の頭に浮かんだものと全く同じ疑問の声がぼそぼそとあがった。しかし、そんなざわめきは、彼のファーストタッチで跡形もなく消え去る。

隣で彩子が息を飲むのがわかった。

彩子だけじゃない、周りの誰もが思考を止めた。

一瞬にして鳥肌が立つ。

モーツァルトの「ピアノ・ソナタ第十二番ヘ長調」。

優しい歌声。きらびやかな光。止めどなく与えられる幸福。そして、それらは決して永遠ではないのだと感じさせる途方もない無力感。

彼の指が動くごとに、僕の中で、言葉にしようがない感情が沸いては消える。

今まで「天才」のピアノは数えきれないほど聴いてきた。中には僕と同年代や、うんと年下の「天才」もいた。僕が敵わないと思う人も沢山いた。

だけど、ここまで感情を揺さぶられたピアノは初めてだった。

彼のピアノは僕と似ている。自由で、音楽への喜びが溢れている。

だけど、彼は僕にないものを確実に持っていた。たったそれだけのことが、僕をここまで震え上がらせているのか。

身震いした。理由のわからない焦りが、身体の内から胸をがんがん殴りつけてくる。

そして、突然焦りは不安に姿を変えた。

彩子。彩子はどう感じているのだろう。僕は我慢できずに彼女の表情を盗み見た。

冷たい空気が喉を通った気がした。

続いているはずの演奏が途端に途切れる。

彩子は涙を流していた。

彼女の心は、完全にもう僕から離れてしまっている。

見たことのない彼女の表情と、溢れ続ける涙に、僕は一瞬でそれを理解した。

彼女は美しい音楽を愛していた。そして、きっとそれを生み出せる才能を愛している。

彩子の心は、もう僕のものではなくなってしまった。

 

宮本は、最後まで一瞬たりとも揺らぐことなく演奏を終えた。

滝のような音を立てて拍手が鳴り響き、アンコールが口々に叫ばれる。もう誰も、その前にステージに立っていた僕の演奏等覚えてはいない。

 

狂ったように手を叩き続ける集団から逃れるように、僕はふらふらと会場の出口に向かう。彩子がちらりと僕を窺うのがわかった。

しかし、彼女は僕の後を追いかけてはこなかった。

 

全身に痺れたような感覚を抱きながら、僕は会場を出てすぐの中庭に出た。

花の蜜のような甘い匂いが生ぬるい夜風にのって鼻の奥をそっと撫でるように刺激する。

僕はへなへなとしゃがみこんだ。今まで味わったことのない感情がマグマのようにぐつぐつと湧き上がる。

喪失感。

僕は失ったのだ。何を?

自信を。ピアノを。そして、彩子を。

たった一人の演奏で。

 

「こんなところでいじけているのね」

しゃがみこんだ僕の上から透き通る声が降ってきた。ぼーっとした頭で声の主を思い浮かべながらゆっくり顔をあげる。

「凍江先生…」

トレードマークである真っ黒のドレスを身に纏い、凍江先生がそっと微笑む。

「翔の演奏、すごかったでしょう。あの子は本物の天才よ。サックスはもっとすごい」

惜しみなく宮本を褒め称える凍江先生の言葉に、僕は思わず目を伏せた。

「すごかったです。なんかびっくりしちゃって」

自分が抱いた感情を1ミリも表現できないまま、僕は曖昧に笑った。

「もうピアノやめちゃおっかなぁ」

無意識に口をついて出た言葉にはっとする。凍江先生の前で、僕はなんて情けないことを言っているのだろう。

すぐに訂正しようと再び凍江先生の顔を見上げた時、先生の言葉が静けさを突き破り、矢のように僕を突き刺した。

「広瀬くん。私に師事しなさい」

ひどく、堂々とした声だった。まるで、そうすることしか道はないのだと断言するような。冷酷さをも感じさせる声だった。

「絶望と敗北を知りなさい。これまで知らなかった世界を見なさい。一度全てを失いなさい。そして、私のもとでピアノを弾きなさい。そうすれば貴方はもっと高みに登れるわ」

その言葉は光のようにも、永遠の闇のようにも感じられた。

何故か、涙が一筋頬を伝う。

凍江先生がそっと僕に手を差し伸ばす。

『音楽の神様』

月明かりに照らされた凍江先生の姿を見上げながら、そんな言葉が僕の頭に浮かんだ。

これは、音楽の神様との契約なのだ。

僕はすがるように、神様の手を掴んだ。

 

 

私は彼を愛していた。

彼の音はまるで色とりどりの宝石のような、光り輝く色をきらきらと惜しみなく放っていた。

私では到底弾けない音、表現できない色、感じ取れない世界を彼は持っていた。

自分のピアノに絶望していた私は、彼の音に心を救われ、そして、彼に強く魅かれた。

私は彼の音を愛し、そして、その音を生み出すにふさわしい彼の内側を愛した。

その音がずっと、私だけのものであれば、どれほど幸せだっただろうか。

 

「魔女め」

私はスマートフォンに表示させたネットニュースから目をそらし、一人ぼそっと呟く。

記事には廣瀬慧と、その師である凍江琴美が微笑みながら寄り添う写真が載せられており、「天才、新たなる歴史を刻む」という仰々しいタイトルのもと、慧へのインタビューが続いている。

音楽に全てを捧げることを選び、また、音楽にも選ばれた世界中の天才ピアニストたちが集う国際ピアノコンクール。

昨日ドイツで行われたその本選で、慧は日本人で初めて優勝を手にした。

師の凍江への感謝や、コンクールでのエピソード等を語った彼のインタビューの後には、今回のコンクールの審査を担当した有名ピアニストや、日本の音楽評論家たちのコメントがいくつか掲載されていた。

内容は、「広瀬慧は2年前に凍江琴美へ師事してから圧倒的にその才能を伸ばすことに成功した」だの、「凍江琴美の指導のもと、その表現力を着実に進化させている」だの、どれも師である凍江を称賛するものばかりだった。

 

幼い頃、凍江がピアニストとしてピアノを弾いているのを見るたびに、「魔女のようだ」とぼんやり思っていた。

彼女が奏でる音は多くの色を持っていた。彼女のピアノは、私がまだ知らない色や、名前すらないようなものまで、この世の全ての色を持っているかのような音を奏でた。

しかし、それらの色は美しい花畑や虹のように「カラフル」と呼ばれるものとは到底違う。何十色、何百色を全て重ね、混ぜあわせたような妖しい色。

1つ1つがどれほど鮮やかで美しい色でも、全てを混ぜ合わせると深い深い黒となる。

彼女が紡ぎだす音そんな残酷さを感じさせ、幼い私を震えさせた。

真っ黒な長い髪を乱しながら、憑かれた様に鍵盤を叩く凍江の姿は妖艶で、美しく、そして、恐ろしくも感じられた。そんな独特の演奏に加え、彼女のドレスがいつも黒や紺等、ピアニストでは珍しいような暗い色ばかりだったこともあるのだろうが、私は子供の頃から凍江のことを、心の中で『魔女』と呼んでいた。

 

一方で、慧の持つ音は、美しすぎた。

彼が放つ色は、どれも均等に引かれた下書きの線を決してはみ出さず、きっちりと隔てられており、一切混ざることがない。

汚れや濁りを全く知らないピアノ。喜びと幸福だけに満ちた世界。

悲しみや憎悪、孤独や絶望は、彼の音には存在しない。

彼は、幸せすぎたのだ。

彼の傍で彼のピアノを聴き続け、それに気づいたとき、私の中で迷いが生まれた。

彼がこのまま現状に甘んじ、この生ぬるい世界でピアノを弾き続けてしまったら。

小さな世界で甘やかされ、もて囃され、世界を舞台に死に物狂いで戦い続ける本物のピアニストたちと向き合うこともなく、絶望や孤独を感じることなく歳を重ねてしまったら。

彼は、きっと何も成し遂げることなくピアニストとしての人生を終える。

冷たい予感は日を追うごとに私の中で確信に変わっていった。

陰を表現できない彼のピアノは、きっと世界には通用しない。

そして、彼にそのことを気付かせることができるのは、彼が持たない色を教えることができるのは、自分だけではないのか。

しかし、彼がもし本当にあらゆる色を取り入れてしまったら。世界に目を向けてしまったら。きっと私は捨てられる。

私が彼を愛し続け、甘やかし続け、そして守り続けられれば、彼はずっと私の傍にいてくれるかもしれない。彼を私だけのものにできるかもしれない。

私は迷った挙句、何の行動もおこさないことを選んだ。

しかし、私の迷いは見抜かれていたのだ。あの魔女に。

 

凍江琴美と初めて言葉を交わしたのは2年前の春。彼女のあの誕生日パーティの1か月ほど前のことだった。

 

「広瀬くんを愛しているというのなら、貴女は彼を離してあげなくてはね」

私が通う音大のキャンパスで凍江と出くわしたのは、偶然ではなかったはずだ。

彼女は慧に足りないものも、それを充たす条件もわかっていた。

「貴女は彼にない色を、彼に教えてあげられる。そうすることで、彼は素晴らしいピアニストになれるわ。貴女が一番わかっているでしょう」

魔女め。私は心の中で何度も毒づいた。

全てを見抜き、私が一番言われたくない言葉を選んで語り掛けてくる。

「彼を、自由にしてあげて」

 

私は魔女に抗うつもりだった。彼の未来を潰してでも、私は彼の傍にいたかった。

そう強く願ったはずだった。

しかし、宮本翔の演奏を聴いたとき、私の願いが慧にとって酷く惨いものであることを突き付けられた気がした。慧にどこか似ているようで、全く異なるピアノ。

慧を凌駕する音。隣で慧が身震いするのがわかった。

無意識に涙が溢れた。

今の彼では、このピアノを越えられない。そして、きっとそのことがこの先慧を苦しめ続ける。

これから彼を苦しめるのは、きっと私の存在だ。


割れるような拍手の音に圧倒されたように、慧はふらふらと後ずさる。

私のもとから去ってしまう。

しかし、まるで魔法でもかけられたかのうように、私は動くことができなかった。

「彼を、自由にしてあげて」

頭の中で再生され続ける宮本のピアノの音の奥で、魔女の言葉が何度も何度も、呪いのように頭の中で響き続けていた。


私たちは、それを最後に顔を合わせることはなかった。 


私は今、ヘッドフォンを耳にあて、慧のコンクール音源を再生する。

彼のピアノは2年前より明らかに色が増え、陽と陰が複雑に、そして美しく混ざり合っていた。

何故か、涙が一筋頬を伝った。

彼はこれで良かったのだろうか。

私は、これで良かったのだろうか。

曲を最後まで聞かぬまま、ヘッドフォンを外す。

あぁ、今無性に、あの無垢な「喜びの島」が聴きたい。