50音ショートショート

50音分のタイトルで短編を書き終えれたら、関係ないけどとりあえず仕事やめようと思う(-A-)

(こ)これからの話を

「佳菜子ってさ、友達全然いないよな」

それまで聞き流していた話の中に突然組み込まれた自分の名前にはっとし、私は思わず「え?」と声の主、雄一を振り返った。

「聞いてなかっただろ。お前最近ずっとぼーっとしてるよ」

彼は短くなった煙草を灰皿に擦り付けながら、呆れたように言った。

私は「ごめん。何の話だっけ」と、取り繕うように笑いながら鏡に向かいなおす。

どこかの国のお城にあるかのような、メルヘンチックなデザインの大きな鏡には、何とも平凡な顔立ちの女が崩れたメイクのまま映っている。

「来週のジャズコンサートのチケットが2枚余ってるから、お前にやるよって話。ニューヨークで超人気なやつだぜ」

そういって雄一は、灰皿の横に置いてある彼の勤める会社のロゴが入った薄い封筒を、トントンと指で叩いてみせた。

「でも、お前にペアチケットあげても、いっつも一人で来るんだけどな」くくく、と冗談めかして笑う彼を横目に、私は崩れたメイクを無心でなおし続ける。

雄一はイベント企画会社に勤めていて、彼と同じ歳の妻と、小学生の娘を持っている。自分が企画に携わる大きなイベントのチケットを、彼はいつも妻と娘の二人分用意する。そして、コンサートが彼女らの趣味や予定に合わなかった時、彼は時々私にチケットを譲ってくれていた。

「友達ぐらいいるよ。予定が合わないだけ」

「へぇ。見てみたいもんだねぇ、佳菜子のお友達」雄一は「お友達」をやけに強調しながら言うと、ベッドの上に脱ぎ捨てられていたワイシャツの袖に腕を通す。そして、外していた指輪を左手の薬指にしっかり嵌めてから、ベッドに組み込まれているデジタル時計が午後3時を指すのを確認すると「じゃ、仕事戻るわ」と、部屋の扉に手をかけた。

「また連絡する。」いつもの台詞を何の感情もなく私に投げかけると、彼は振り返ることもなく出ていった。

私は最低限メイクを整えた顔を鏡で確認し、化粧ポーチを鞄にしまう。

部屋を出るとき、虫の死骸のような煙草の吸殻が何本も入った灰皿の横の封筒に目がいった。私はそっとそれを手に取り、ため息をもらす。

彼の言うとおり、私には「友達」と呼べる人間なんて、一人もいなかった。

やけに重く感じられる僅か数gの封筒を自分の鞄に押し込めて、私はホテルを後にした。

 

異変に気付いたのは、自宅の扉を開ける時だった。

用心深い母は、上下2ヶ所についたドアの鍵をいつもきっちり閉めてから出かけるのだが、今日は下部の鍵が開いていた。

いつものように2つとも鍵を開けたはずなのに開かないドアに私は一瞬困惑し、何パターンか上下の鍵穴をガチャガチャと開けたり閉めたり繰り返し、漸く玄関に入ることができた。

ケータイを確認すると、5分ほど前に「友達と買い物にでかける」と、母から連絡がきていた。

うっかりしていたのだろうか、それとももう年なのだろうか。ぼんやりと今年還暦を迎える母を心配しながら、家にあがり、居間へのドアを開いた。

「あ…。」

空気が漏れたような、乾いた声がした。それは、少女のもののようにも、老爺のもののようにも聞こえた。

その声に少し遅れるようにして、「え?」という自分の声が、25年間暮らしてきた馴染みある空間に吸い込まれていった。

すっかり見慣れた居間にある、全く見慣れない存在に、私の思考は止まる。

そこには、真っ黒なジャージを纏い、ドラマの中の銀行強盗が被っている「私は強盗です」と名乗るかのような目出し帽で顔を隠した「誰か」が、こちらに身体を向けたまま停止していた。

私と、その黒ずくめの「誰か」は、随分長いことお互いを見つめ合ったまま硬直していた。「長いように感じた」というよりは、実際に長い時間そうしていたのだろう、床の冷たさが足に伝わり、じんじん痛み出していた。その冷たさと、経過した時間により幾分か冷静になった頭で、私は黒ずくめの存在を、「強盗」だと判断した。そして、目だけをそっと動かし、周辺の様子を伺う。居間が荒らされた形跡はなく、強盗自身も何も手にしていないようだった。

私と強盗は、炬燵を挟んで立っていた。強盗の後ろには庭に出られる引き戸がある。

何も盗っていないのなら、早くそこから逃げてくれないか。そう願わずにはいられない。

しかし、強盗は逃げるどころか、マネキンのように微動だにせず、その場で固まり続けている。

いっそ捕まえにかかってやろうか、そんな短絡的な考えが浮かび始めた時、ぐぅーっという小さな獣のうなり声のような音が、静まり返った居間に響き渡った。

私は何が起こったかわからず、ビクッと身体を強張らせる。そして、恐らく音の主だと考えられる強盗を窺うように見た。

今まで全く動かなかった強盗は、私の視線から守るかのように両手を自分のお腹にあて、へなへなとその場に座り込んでしまった。

「あの…」私は、お腹を抱いたままがっくりと項垂れる強盗に恐る恐る声をかける。

「大丈夫ですか…」強盗の腹は、堰を切ったかのように鳴り続けている。

「お腹すいた…」微かに聞こえてきた涙声は、まだ若い女の子の声だった。

「えっと、何か食べますか?」あまりにもお人好しな台詞に、我ながら馬鹿だと呆れたが、座り込んだ彼女は目出し帽を脱ぐと、「お願いします」と消えそうな声で頭を下げた。

 

彼女はマナミといった。

それが本名なのか私にはわからなかったが、別に構わなかった。

お金に困り、どこかの家に盗みに入ろうとこの辺りをうろついていた時、年老いた女性が家の前で鍵を落とすのを偶然目にした。

こんな幸運はない、と鍵を拾い侵入したのが、まさに我が家だったというわけだ。

マナミは昨晩の残り物であるカレーライスを頬張りながら、何度も何度も泣きながら謝っていた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔は、とんでもなく無垢に見えて、私は怒る気もわかなかった。

「マナミちゃんは大学生?ご両親はいないの?」

カレーを2皿完食し、洟をすすりながら出された熱いお茶をちょびちょびと飲む彼女に私は尋ねた。マナミは警戒の色を露わにしたが、「別に捕まえる気はないし、話したくなかったら話さなくてもいいよ」と付け加えると、肩の力がすっと抜け、口を開いた。

「二十歳。水商売してる。父はいなくて、母は、います。」

「お金が必要なの?」私は質問を続ける。マナミは満腹になったお腹にそっと片手をあてて俯いた。

自分はこの子にとって野次馬でしかないのだろうな、と、静かに流れる彼女の涙を見ながら思った。

普段自分以外の誰のことにも興味を持てない私がこの子を気にかけるのは、華奢で弱々しい女の子が強盗に手を出さなくてはいけないその境遇に同情しているからだ。不幸で、可哀そうな女の子の話を根掘り葉掘り聞いて、自分はまだマシなのだと思いたいのだ。

私は罪悪感から「ごめんね」と囁いて、彼女の湯飲みにお茶を注ぎ足した。

「そうだ、どら焼き、食べる?」私は母が隠し置いているどら焼きを台所から2つ取り出して皿にのせると、テーブルに置いてやった。

うちに入った強盗と、西陽の差す居間で炬燵に入りながらお茶をしている光景は奇妙なものだったが、心は不思議なほど落ち着いていた。

マナミは礼を言いながらどら焼きを頬張って、「美味しい」と小さく微笑んだ。

居間の空気がふわりと柔らかくなったように感じた。マナミがどら焼きを食べる咀嚼音と、古い掛け時計の秒針の音だけが聞こえる静けさがしばらく続く。それを破ったのは、私の声だった。

「私さ、不倫してるんだ」

どうして見ず知らずの強盗にそんな告白をしたのか、自分でもわからなかった。

彼女を好奇の目で見てしまったことへのお詫びの気持ちからきた打ち明け話だったのかもしれないし、「私だってわりと不幸なのだよ」という張り合いだったのかもしれない。

何故なのかは自分でもよくわからないけれど、私の口は淡々と言葉を紡ぎ続ける。

「2年前、派遣の仕事で手伝ったイベントの取りまとめが彼でね。頼りがいがあって、優しくて、本当にかっこよく見えた。既婚者なのは知ってた。でも、初めてキスされた時、そんなことどうでもいいやって思っちゃったの」

「好きだったから?」

マナミは齧りかけたどら焼きを皿に置き、優しい目で私に問いかける。

私は自嘲気味に笑いながら頷いた。

「あの頃は、愛し合えてるんだって思ってた」

体だけの関係がずるずる続き、出会った頃のように雄一に優しくされることはもうなくなってしまった。自分が「愛」だと思っていた繋がりが、あまりにも薄汚れた関係であることはすぐにわかった。だけど、それを認めてしまうのは怖かった。

「別に彼は最初から私を愛してなんかいないし、都合よく利用されてるだけなのは頭でわかってるんだけど、どうしてもね、」

心がついていけないのだ、と続けようとしたが、それ以上声が出なかった。

頬を伝う生ぬるさがこそばゆくて、初めて自分が涙を流していることに気付いた。

「もともと一人ぼっちだったんだけどさ、誰かの温かみに触れちゃったら、また一人ぼっちに戻るの、あまりにも怖くてね」私は慌てて涙を手で拭いながら、わざとおどけたように言って笑った。2年もの間しっかり閉じ込めていたはずの感情が、何故急にこんな溢れ出すのか、もうわけがわからなかった。

「わかるよ」誤魔化すようにお茶を啜る私に、マナミはぽつりと呟く。

「愛情とか、温もりとか、いつかなくなっちゃうなら、最初から知らない方がよっぽど幸せだよね」そう続けると、また彼女はお腹に手を当て、優しくそっと撫でた。

何かを慈しむようなその仕草に、私は「まさか」と呟く。

「私にも好きな人、いたの。大好きだった。でも、赤ちゃんできたら逃げちゃった。お母さんに言ったら、おろしなさいって。育てるお金が家にはないから。でも、中絶するお金もないから、お母さん、借金しようとしてる」お腹を撫でていたマナミの手は、意志を失った生き物のようにぽとりと彼女の膝の上に落ちる。

「生みたいけど、今の私じゃ、どうやったってこの子は育てられない。だから、お金を盗ろうとしたの。成功したら、そのお金で中絶するつもりだった。でも、」マナミは視線をあげ、私の目をじっと見つめる。涙で潤み、赤く腫れた少女の目には、私では想像もつかない程の葛藤の末固められたのであろう覚悟が滲み出ていた。

マナミは両手をそっと私に向け、テーブルの上に重ねた。

「私を、警察に引き渡してください」その手は小刻みに震えている。

「調べたの。刑務所に入ったら中絶にかかるお金は国から出してもらえるんだって。お母さんは悲しむだろうけど、お金で心配させることは、とりあえずない」

「マナミちゃん」私は震え続ける彼女の手をそっと握る。やけに彼女の震えが伝わってくるなと思ったら、自分の手も振るえていた。

「良かったら、今度の日曜日、コンサートにいかない?」

口をついて出てきたのは、そんな突拍子もない言葉だった。

「私、友達いないから、一緒に行ってくれない?」

「え?」マナミはキョトンとして間抜けな声を漏らす。

思わず口にした言葉だったが、マナミの手の震えが止まったのを感じて、私は自分の提案に確信を持ち始めた。

「そうよ、そうしよう。ニューヨークで人気なジャズのコンサートなんだって。ジャズとか私よくわからないけど、なんだか疲弊した心身に良さそうじゃない?」

「お姉さん…。私の話きいてた?」彼女は綺麗な眉毛をハの字にして、見るからに困ったように漏らす。

「聞いてた聞いてた。勿論身体に障ったら駄目だから今から一緒に病院行こう。それで、問題なかったらとりあえず今週は私とコンサートに行こう。それから、その後のことを一緒に考えない?」

私は頭の中で勘定を始める。自分の貯金はいくらあったか。昨年亡くなった祖父の保険金はあとどれぐらい残っていたか。中絶費っていくらなのだろう。もし生んで育てるとなったらいくら必要なのだろう。

「…同情、してくれてるの?」マナミは複雑な表情のまま俯く。私は頭の中の勘定を止め、自分に対し、マナミと同じ問いかけをする。

私は今、この子に同情をしているのだろうか。いや、同情とは少し違うのではないか。

「今の私とあなたには、男じゃなくて友達が必要だと思うの」そう答えた自分の声は、思っている以上にはっきりとした、明るい声だった。

「あなたとなら友達になれる気がするの」

マナミと2人でコンサートに行く自分を思い浮かべる。驚く雄一に、「あなたなんてもういらない」と別れを告げる。そして、素晴らしい音楽に二人で身を委ねてから、ゆっくりとこれからのことを話す。

ただの同情なのかもしれない。私の都合に彼女を利用しているだけなのかもしれない。彼女の力になんてなれないかもしれない。

だけど、マナミと一緒に笑っている未来が、彼女の飛びっきりの笑顔が、何故か妙にリアルに私の頭には浮かび上がっていた。

「一緒に、やりなおそうよ」彼女の両手を握る手に、ぐっと力をいれる。

マナミの目から静かに落ちた涙の粒が、私の手を力強く握り返した小さな手にぽとりと落ちる。

 「私も、ジャズ、初めて」彼女がその日初めて見せた満面の笑顔は、私がイメージしていた笑顔そのものだった。