50音ショートショート

50音分のタイトルで短編を書き終えれたら、関係ないけどとりあえず仕事やめようと思う(-A-)

(せ)セントエルモの火

息子が万引きをした。
それは僕にとって、かなりセンセーショナルな事件だった。

僕が務める会社に、颯太の通う小学校から電話がかかってくるなんてことは初めてだったし、颯太が万引きという「非行」に走ったのもやはり初めてだった。


会社の同僚に早退することを謝り、小学校の先生に迷惑をかけたことを謝り、コンビニの店長には万引きした商品の代金を支払った上で何度も何度も謝った。
そうしているうちにすっかり日は暮れ、当の颯太は結局殆ど僕と話をしないまま眠りについてしまった。

本来であれば、親として、その日のうちに息子の話を聞き、しっかり叱らねばいけないことはわかっていた。
しかし、「ごめんなさい」としゃっくりをあげて泣き続ける颯太から話を聞き出す強さも、説教できる威厳も僕にはなかった。


「息子と向き合う」という最も大切な父親の務めを明日に先送りし、どこかほっとしている自分の臆病さにうんざりしながら、泣き疲れてソファーで寝てしまった颯太に僕はそっと毛布をかける。
「ごめんな、こんな父親で」
そっと触れた颯太の頬は、涙が乾いてべっとりとしていた。
「美咲も、ごめん」
僕は、ソファーの後ろの戸棚に飾ってある妻の写真に向かって呟く。
「全然上手く父親できてないよな、ごめん」
今日は謝ってばかりだ。

僕は美咲の写真から目をそらすと、視界に入ったお菓子の箱を手に取って、眠っている颯太の横に腰をおろす。
颯太が盗ったのは、人気アニメのキャラクターカードがついているそのお菓子1つだった。
僕は何の気もなくカード袋の封を切り、中身を取り出してみる。
キラキラ光る銀色のコーティングがなされたそのカードには、皮肉にも「レアカード!」と書かれていた。
僕は思わず笑ってしまう。
息子が万引きするなんて、確かにレアかもしれない。
いや、もしかしたら大人が気づかないだけで、こんなこと少年たちの間では日常茶飯事なのかもしれない。

お小遣いは不自由なくあげていたつもりだった。
毎年親戚から貰うお年玉だって、颯太自身に渡していた。それに、お菓子ぐらい僕に頼めばいくらでも買ってやった。
なのに、どうして颯太は万引きなんてしなければならなかったのか。

僕の頭には、ちらりと「いじめ」という言葉が浮かんだ。
万引きを強要するイジメがあることは、ドラマや漫画で知っていた。もしかすると、颯太はその被害者なのかもしれない。

だけど、もしそうじゃなかったら?
息子贔屓かもしれないが、颯太は決していじめられるようなタイプではない。
背も高く、小学2年生の頃から4年続けているサッカーのおかげで、身体も他の子と比べてがっしりしている。
成績も悪くないし、何より明るくて活発な子だった。
しかし、そんな子が何か些細なことがきっかけでいじめられてしまうことだってありえないことではないのだろう。

僕はため息をもらす。
実際はどうなんだろう。
いや、僕はどちらを望んでいるんだろう。
颯太がいじめられていて、嫌々万引きをやらされた現実か。
それとも、颯太が自分の意志で万引きをした現実か。
どちらの方が親として責任が少ないのだろう。
そこまで考えて、僕はまた自己嫌悪に苛まれる。
ここにきても、僕は僕の落ち度だけを心配してしまっているのか。

「本当に、くそみたいな親だな」
美咲が病死してから2年。
弱音だらけの独り言は日に日に増えていく。
「どっちにしたって、僕は颯太と向き合うのが怖いよ」
僕はぐっと目を瞑り、空から落ちてくる槍から身を守るように、ソファーの上で縮こまった。手にしたままのカードが、掌の中でぐしゃっと音を立てた。

「本当、あきくんは弱っちいなぁ」
ぼんやり聞こえた懐かしい声に、はっと顔を上げる。
そこにはいつもと変わらない、物が散乱したままのリビングがあるだけだった。
僕は自嘲しながらため息をつく。
死んでしまってもなお、美咲に縋りつこうとしている自分が可笑しかった。
ゆっくり目を閉じると、途端に眠気が込み上げてきた。
襲い来る睡魔に抗う気もおこらず、僕はあっさりそれを受け入れようとソファーの背もたれに身体を沈める。
もう何も考えたくなかった。

「寝ちゃだめだってば。明日颯太とちゃんと話さなきゃだめなんでしょ。あきくん、ちゃんとできるの?」
頭の中にかかった靄を切り裂くような、はっきりとしたその声に、僕は飛び起きる。
今度は間違いない。
確かに美咲の声がしたのだ。
必死に目の前の光景に焦点を合わせる。
もうここは夢の中なのか、それとも幻なのか。
すっかり見慣れた寂しい空間には、毎日毎日焦がれるほど望み続けた美咲の姿があった。

「あ、あ…。美咲…」
呆れるぐらい情けない声がぼくの口から漏れる。唇はわなわなと震えていた。
「美咲、なのか」
テーブルの向こうで、カーペットの上にちょこんと座る美咲は、眉を下げて「そうだけど?」と笑った。
その呆れたような笑顔が懐かしくて、鼻の奥がつんとした。


「なんで、美咲が。幽霊?夢?」
僕はソファーから転げ落ちるようにふらふらと美咲のそばに寄ると、その華奢な肩に手を伸ばす。
心のどこかで、彼女に触れようとしても透けてしまうのではないか、と覚悟していた。しかし、意外にも僕の手は美咲の実体をとらえ、その温かい体温までも感じられた。
「さぁ。わかんないし、覚えてもないけど、あきくんが今困ってるのは知ってるよ。困りきって逃げそうになってることも」
美咲は、僕が手にしたままのぐしゃぐしゃのカードを指差しながら、僕に問いかける。
「さて、あきくんは明日颯太とどう向き合うのでしょうか」

こんなわけのわからない状況でも、美咲の顔を見ているうちに不思議と心は落ち着き始めていた。
残念ながら、これらきっと夢なのだ。
僕の弱い心が、夢に彼女を呼び出したのだ。
情けない状態ではあるが、夢の中なのだから、僕は思う存分美咲に甘えられるし、助けを乞うこともできる。
僕は肩の力をふっと抜いて、素直に美咲に今の思いをぶつけることにした。

「さあ、どうすればいいんだろう。とりあえず万引きの理由を聞くんだろうけど、正直に話してくれるかな」
美咲は「どうだろうね」とだけ呟く。
いつ覚めるかもわからないこの夢の中で、沈黙している時間がとても勿体無く感じられ、僕は続けざまに口をひらく。
「颯太がいじめられてるって可能性はないよな?無理矢理やらされたとか」
「あるかもしれないね。あなたは颯太がいじめられるタイプじゃないと思ってるみたいだけど、あの子、小学2年生の時いじめられてたしね」
「え?うそ」
「ほんと。同じマンションの上級生に」
美咲は、まるで何でもないことのように答える。
驚くべき事実に、僕は「どうして僕は知らなかったの」と、弱々しく尋ねるしかない。
「だって、その頃といえば、あきくんは出世がかかった大事なプロジェクトのリーダー様だったからね。殆ど家にいなかったし、大変そうだっから耳に入れなかったのよ。プロジェクトが落ち着く頃にはいじめも終息してたし」
「そういう問題かよ」
「でも、当時言ってたとしても、あきくんは困っちゃうだけで、何もできなかったでしょう」
美咲の遠慮のない指摘に僕は返す言葉がない。
夫婦喧嘩となればいつだって、美咲の完全勝利だったことを思い出す。
「それで、いじめはどうやって解決できたの?」
「それはもう、私がいじめっ子たちのところに行って、泣くまで叱ってやったのよ。騒ぎに駆けつけたいじめっ子の母親たちも味方になってくれて、トドメをさして終了。そっから颯太もサッカーやりだして逞しくなってったしね。見事な解決っぷりでしょう」
「君はいつも大胆すぎるよ」
僕は呆れた表情を作りながらも、内心感心していた。


僕ならよその子を叱るなんて到底できない。僕の行動のせいでもし颯太が余計酷い目にあってしまったら、とか、いじめっ子の親が怒鳴りこんできたら、とか、常識的に考えられるあらゆることを想定して動けなくなってしまうだろう。
しかし、美咲は違う。
一応色々想定したうえで、「そんなの知るか」と動き出せてしまうのだ。
勿論美咲の人生においては、それで失敗することの方が多かったに違いないのだが、彼女はその生き方を最後まで貫き通した。
そんな彼女に僕は、どうしようもなく惹かれていたのは事実だ。

「まぁ、そういうことで、もしかしたらまた誰かにいじめられてるのかもしれない。そしたらあきくんはどうするの?」
美咲は僕を真っ直ぐ見つめる。
投げかけられた質問を、僕は頭の中で反芻する。

颯太がいじめられていたとしたら。
そう考えた時、内心どこか安心している自分に気付く。
颯太がいじめを受けていることは心苦しいし、許せない。
しかし、いじめられていたならば、今回の万引きは颯太が悪いのではない。
むしろ颯太は被害者なのだ。
そう思うと、自分も「親の責任」という重荷から逃れられたような気がした。
しかし、心が軽くなるのは一瞬だけで、すぐにまた別のずっしりした重りが僕を襲う。
万引き問題はそれで済んでも、いじめという過酷な問題が、僕と颯太を捕らえ続けるのだ。
僕は、「いじめの解決」という模範解答の存在しない課題に押しつぶされる日々を想像しただけで絶句し、助けを求めるように美咲の大きな瞳を見つめ返す。


僕がギブアップしたと判断した美咲は、小さく溜息を漏らす。
「私が言うのもあれだけど。残念ながら、颯太の親はもうあきくんしかいないんだよ。これから何がおこっても、あきくんは颯太と2人で立ち向かっていかなきゃならない」
美咲はまた僕を見つめる。
厳しい言葉のわりに優しいその眼差しに、僕は涙腺が緩み出すのを感じ、ぐっと歯をくいしばる。
いくら夢であれど、彼女の前で泣くのはあまりにも情けない。


僕はわざとふざけたように唇を突き出しながら、涙を誤魔化すために軽口を叩くことにする。
「立ち向かうって、君みたいにいじめっ子の家に殴り込むってこと?」
「あぁ、それはだめだよ。あきくんみたいな弱っちそうなのがでてきても、返り討ちにされちゃう」
美咲の思わぬ返答に、言葉を失う。
僕は妻にずっと、「弱っちそう」と思われていたのか。
「じゃ、じゃぁどうすれは」
どうにか声になった言葉は、なるほど確かに弱っちい奴のそれだった。
「うーん、そうだねぇ」

静かな沈黙が生まれる。
壁に掛かった時計の秒針がチクタクチクタク4回鳴り、沈黙を恐れる僕が無計画に口を開こうとした時、美咲が呟くように話し始めた。
「私さ、いじめられてたことあるんだよね、中学生の頃」
「え?」
初耳だった。
僕と美咲が出会ったのは大学生の頃だから、それ以前のことは、美咲が話すこと以外殆ど知らないのは当然だ。
しかし、「いじめ」と「美咲」は全く別の世界にカテゴライズされているような気がして、颯太がいじめられていたと聞いた時よりその事実は信じられなかった。

「生意気だとか、調子乗ってるとか、まぁよくわからない理由で、無視とか嫌がらせとかされてたことがあってね。担任も知らんぷりだし、私も参ってて」
美咲は、珍しくぼそぼそと話を続ける。
「今思えば馬鹿らしいけど、その頃は学校だけが自分の世界だったからね。そこに居場所がないって事実がもう恐ろしくて。死んじゃおっかなって思ったこともあったの。まぁ実際今は死んじゃってるんだけど」


僕は、美咲の取って付けたような幽霊ジョークに反応できないぐらい、ショックを受けていた。
明るくて優しくて強い、僕の最愛の妻を、そんなにも追い詰めた人間がこの世にいただなんて。
もう20年以上も前のことだとわかっていながら、美咲を追い込んだ人間に、計り知れない怒りを覚えた。


「でね、そんな時、いじめられてることが親にばれちゃってね。恥ずかしいし情けないし、もう最悪だーって思ったんだけど、そっから毎日両親がどうすればいいのか熱心に考えてくれてね。その解決策がまた全部ぶっとんでて、全く役立つことはなかったんだけどさ」
美咲は少し照れたように笑った。


僕は、数年前に亡くなった美咲の両親の逞しい顔を思い浮かべる。
美咲の大胆さや強さはこの親あってのものなのか、と、結婚当初しみじみ納得してしまったことを思い出し、思わず笑みをこぼした。


「でも、ありがたかったんだ。あんな情けなかった私のこと、恥ずかしがることも、目を逸らすこともせず、一緒に悩んでくれてさ」
結局いじめは、クラス替えと同時にあっさり消滅したのだと、美咲は話してくれた。


「話を戻すけどね。もしも颯太がいじめられてたとしても、あきくんが投げ出さずに、しっかり颯太の話を聞いて、一緒にうんうん唸りながら、解決策を考え続ければ、颯太は大丈夫だよ、きっと」
「君の子だから?」
「そう、私の子だから」
美咲はにっこり笑う。

ソファーで眠っている颯太が、小さく寝返りをうつ。美咲はゆっくり颯太のそばに寄り、愛おしそうにその髪を撫でた。
それはとても美しい光景のように思えた。
時計は、深夜3時をさしていた。

しばらく颯太の寝顔を幸せそうに見つめていたは美咲は、ふと思い出したかのように再び僕に呼びかける。
「それより、あきくん。いじめの可能性を心配するのもいいんだけど、颯太が自分の意志で万引きしてた場合の対応がわりと重要なんじゃないの、親としては」
「確かに」
何となく話がまとまった気になっていたが、まだ颯太との向き合い方を僕は全く定められていなかった。

「もしも颯太の意志で万引きをしていたなら、どうすればいいんだろう。怒るのかな?諭すのかな?美咲のご両親はどうしてた?」
「知るわけないでしょ、私、万引きなんてしたことないし」
思わず口にした問いかけをぴしゃりと跳ね返され、僕はしゅんとしてしまう。

「あきくんは?したことないの?万引き」
「え?」
あるわけないじゃないか、と言いかけて、僕は口をつぐんだ。
「え、あるの?真面目なあきくんが?」
美咲は意外そうに、僕が再び話し始めるのを待っている。

その時、僕の頭の中では、幼い頃の記憶が驚くほど鮮明に再生され始めていた。
それは、今日まで全く思い出されることのない記憶だった。

「未遂を、おかしたことは、あるかも」
僕は突然呼び覚まされた記憶に戸惑いながら続ける。
「小学生になりたてぐらいの頃かな、ショッピングモールの文房具売り場で、お試し用のペンや消しゴムを並べてるコーナーがあったんだ」
やけにはっきりと思い出せるそのコーナーには、フルーツやパンの形をした色とりどりの消しゴムが沢山置いてあった。

幼い僕は、それらにとても心を惹かれていた。
親に言えば買ってもらえたかもしれない。そもそも冷静に考えれば、それほど欲しいものでもなかったかもしれない。
だけど、何故か僕はその中の1つ、パイナップルの形をした黄色い消しゴムを、ズボンのポケットに入れてしまったのだ。


「なんで盗っちゃったのかは覚えてないんだ。ポケットに入れたことは誰にもばれなかった。でも、だんだん僕は怖くなってきて、そのショッピングモールのトイレに駆け込んで、洗面台のところにその消しゴムを置いて逃げたんだ」


消しゴムを置いた洗面台の位置まで詳細に思い出せることを、何より僕が驚いていた。
今までほんの一瞬たりとも思い出されることのなかった記憶が、どうしてここまで完璧に僕の頭に記録されているのか。


「まぁ未遂ってのがあきくんらしいよね」
僕の話を一通り聞いて、美咲は愉快そうに笑った。
「でも、その時あきくんは何が怖くなっちゃったんだろう。実際ばれずにその売り場は抜け出せたんでしょ?」
「うーん」


僕は再び記憶の中に潜り込む。
あの時、僕は万引きがバレることを恐れていたわけじゃなかったはずだ。
あんな小さな消しゴムが僕のズボンに入ってることなんて誰にもわからなかっただろうし、そもそもあれは、沢山あったお試し用の1つで、売り物でもなかった。
お店の人はなくなったことにも気付かないだろうし、気付いたとしても大した問題にはしないだろうと、僕は幼いなりに考えていたはずだ。
では、僕は何を恐れていたのだろう。

「誇りを、失うのが怖かったんだと思う」
その言葉は、意外にもすっと僕の口からでてきた。
言葉にした後で、「誇り」という大袈裟な表現に少し恥ずかしさを感じたが、それが一番自分の中でしっくりときた。
その言葉は、幼かったあの頃では、きっとどれほど考えても辿り着けなかった答えだった。


「盗んだことはばれなくても、僕は盗んだことを知っている。その罪悪感をこれからずっと持ち続けることに、僕は恐ろしくなったんだ。一度そんなずるいことをしてしまって、これから自分を信じられなくなることも。僕はそれが怖かったんだと思う」
「それも、とてもあきくんらしいね」
美咲が優しく笑いかける。
その美しい表情に、あんなに堪えようと決めていた涙が、いとも簡単に僕の目からぽろりと落ちた。


「未遂」と言えど、長年鮮明な記憶として僕の頭に残っていたこの罪を、美咲が赦してくれたような気がした。


「その話を、颯太にもしてあげればいいよ」
美咲は、堰を切ったように涙を流し続ける僕の頭をぽんぽんと撫でながら、ゆっくり語りかける。
「颯太、ずっと泣いていたんでしょう。きっと罪の意識に潰されそうになって苦しんでるのよ。何でそんなことしたのかは聞かなくちゃいけないし、やってしまったことはちゃんと叱らなきゃいけない。その後で、あなたのその話をしてあげて。きっと、今のあの子はあなたの話がよくわかるはずだから」
「ちゃんと伝わるかな?このままぐれたりしないかな?」
子供のように泣きじゃくる僕は、まるでさっきまでの颯太みたいだった。
不安で、不安で、ただ怖かった。
「大丈夫」
そんな不安を、美咲の言葉がゆっくり、しかしはっきりと消し去っていく。

「僕の子だから?」
「あきくんの子だから」
笑顔を作ろうとするが、うまくいかない。


こんなにも充たされた気持ちなのに、涙は止まる気配がない。
それから美咲は長い時間、彼女がいなくなってからため続けたありったけの僕の弱音を、呆れもせず受け止め続けてくれた。

いつの間にか、カーテンの隙間から弱々しい光が遠慮がちに差し込んできている。
隣の部屋から、微かに生活を始める音が聞こえ始める。
朝がきた。

泣き疲れて、もう涙もでなくなった僕は、そっと美咲の手を握りしめる。
その手はやはりとても温かく、彼女がこの世に既にいないだなんて、とても信じられなかった。
だけど、美咲はもういない。

幽霊は朝が来れば消えてしまうし、夢は目覚めれば終わってしまう。
今ここに美咲がいるという奇跡が、どうして起こりえたのか、僕には想像することもできない。
しかし、そんな奇跡もきっと今終わりを迎えようとしている。

「美咲、美咲」
ごめん。最後にそう言おうとした。
こんなに情けなくて、弱っちい僕が生きていて、こんなにも強くて優しい美咲が死ぬなんて。
颯太に申し訳ない。
美咲に申し訳ない。


「あきくん」
美咲は、僕の名前を一音一音大事そうに、丁寧に呼んだ。
そして、壊れやすい、愛しいものに触れるように、そっと僕の頬に手をあてる。
「ありがとうね」
それが何に対しての言葉なのかもわからないまま、僕はただぶんぶんと首を振る。
美咲にありがとうと言われることなんて、僕は何一つできていないのだ。


「あきくんは大丈夫だよ」
美咲は優しく言葉を続ける。
「私が信じた人だから」
急に視界が霞む。
猛烈な眠気が僕を襲う。
駄目だ、寝ちゃ駄目だ。僕の頭は必死にそう呼びかけるのに、そんな命令などお構いなしに、瞼はずんと重くなる。
「美咲…」
いかないでほしい。幽霊でも夢でもいい。お願いだから、行かないで。
「そして、颯太も大丈夫だよ」
「美咲の、子、だから?」
途切れそうになる意識をどうにか繋ぎ止めながら、僕はなんとか笑ってみせる。
「行かないで」と「安心して行って」という矛盾した思いが、僕の中で激しくせめぎ合う。
「ちがうよ」
美咲は僕の手をぎゅっと握りしめる。
「私とあきくんの子だから」

こんなことを言うのはかなり恥ずかしいことだとわかっているが、優しい朝陽を浴びながら微笑む美咲は、我が妻ながら、天使のようだった。

「美咲」
何よりも愛しいその名前を、呼び終えたか、終えなかったか。
僕の意識はそこで途切れた。


目覚めた時はもう昼過ぎだった。
美咲の姿は勿論どこにもなかった。
自分の頬に触れると、颯太がそうだったように涙が乾いてパリパリになっていた。
僕は呆然としたまま、隣でまだぐっすり眠っている颯太の寝顔を見つめる。
安らかに眠っている颯太の口元は、どこか幸せそうに笑っていた。
「お前もお母さんの夢、見てるのか?」
そうだとしたら嬉しい。
自然と頬が緩んだ。
颯太と向き合う覚悟は既にできていた。
「ありがとう」
僕はソファーから立ち上がり、美咲が幸せそうに笑う写真に向かって呟きながら、颯太とのこれからを思った。