50音ショートショート

50音分のタイトルで短編を書き終えれたら、関係ないけどとりあえず仕事やめようと思う(-A-)

(し)死にたがりのシチュエーション

理想の死に方は不慮の事故だ。
たとえば、青信号の横断歩道を渡っている最中、信号無視で突っ込んできた車に撥ねられて死ぬのが好ましい。
さらに言えば、その車の運転手が飲酒していたり薬物中毒者であれば、一層同情も集まるので好ましい。
もっと欲を出すのであれば、車に撥ねられそうになっている子供を助け、身代わりに死ぬくらいが最高に理想の形だ。
子供の命を救った僕を、世間は褒め称え、その死は尊いものとなるからだ。


そんなことを考えながら、僕は通勤用バッグを片手に、早足に朝の横断歩道を渡る。
信号待ちをする両車線の車は、行儀良く停止線の少し前で停車し、動き出す気配もない。
何も起こらなかったことに落胆することもなく、そのままいつものバス停までたんたんと歩みを進める。


自殺は駄目だ。
自殺するに値するようなカード、たとえば過酷な労働環境や耐え難い人間関係、借金や恋人の裏切り等を僕は持っていないからだ。
理由もなく死んで、「命を粗末にしやがって」なんていうバッシングを死んでから受けることは避けたい。
死ぬからにはせめて同情されたいのだ。
だから、僕の場合、自殺ではなく、不慮の事故が望ましい。


いつものバス停に、いつもの時刻に到着する。
いつものように10人程が既に列を作っており、僕はその最後尾にそっと着いた。


死を望む理由は特にない。
ただ、この毎日の繰り返しに嫌気がさした。
心から信頼できる友人も、一生寄り添いたいと思える恋人も、のめり込める趣味も、やりがいを感じれる仕事もない。
こんな毎日をあと何千回も繰り返すのだと思うと、途方に暮れるしかない。
死ぬための強い理由がないように、生きるための強い理由も僕は持っていなかった。


バスがきた。
誰1人として降ろさないバスは、僕を含めたこの列をゆっくりと飲み込み始める。
バスのステップを上がったところで、後ろの乗客に身体を押され、前にいた中年男性の靴の踵を踏んでしまう。
こちらを振り返る男性から、すかさず目を逸らしたところでバスの扉がガシャリと閉まり、ゆっくりと発進した。


事件に巻き込まれることも、理想の死に方だ。
たとえば、この満員バスの中に凶悪なテロリストが乗っていて、無差別に発砲した銃弾に当たって死ぬのが好ましい。
欲を出すのであれば、銃口を向けられた女性を庇って死ぬなんて最高だ。
最悪の事態の中で、勇敢にも女性を救った僕は英雄となり、死して初めて光を浴びることができるからだ。


十数分バスは走り続け、何事もなく予定時刻通りに僕の会社付近のバス停に到着した。
人を掻き分けながらバスを降り、また僕は歩き始める。
長いゆるやかな坂道を下ると、踏切に差し掛かる。
図ったかのようなタイミングで踏切の警報機が鳴り始め、僕の目の前で遮断機がゆっくりと下りた。


たとえば…、
いつものように、僕は理想の死について想像し始める。
たとえば電車が断線して道路に突っ込んでくれば、たとえば電車が通過する直前に誰かに背中を押されれば…

ガシャン、という大きな音が、すぐそばで鳴った。
驚いて音の方を見ると、遮断機に前輪をぶつけた自転車が一瞬数十センチ宙に浮いて、落ちていくところだった。
無人の自転車が、派手な音を立てて地面に打ち付けられるのを横目に、僕は踏切に目をやる。
遮断機の向こうには、線路の上を横断するような形でうつ伏せに倒れている男性が見えた。
その男性が直前まで見ていたのであろうスマートフォンが、地面を勢い良くスライドし、踏切の向こう側に立っている女性の足元で止まった。

あたりが一瞬静まり返った気がした。

実際には警報機が絶え間なく鳴り続けていたはずだが、この世の音が全て消え去ったかのような錯覚に僕は陥った。

線路の上に横たわる男性は、呻くように動いているが、打ち所が悪かったのか、それとも脚を折ったのか。立ち上がることも、踏切の上から這って移動することもできていない。

「これはチャンスだ」と、僕の頭が言う。
「お前が望み続けていたシチュエーションだ」と。

自分の鼓動がやけに大きく聞こえだした。それを合図に、一瞬消失していた他の音も聞こえ始める。

踏切の警報機も、けたたましくカンカンと鳴り続けている。
もう十秒もたたずに電車がやってくるはずだ。非常ボタンを押してもきっと間に合わない。

僕はあの男性を助けることができる。
あの男性を線路から押し出して、代わりに自分が死ぬのだ。
やっと死ぬための大義名分ができるのだ。
仮に間に合わずに2人とも死ぬことになっても誰も僕を責めないし、助けるのが上手く間に合って2人とも生きていたなら、僕はちょっとした英雄になれる。
どの結果に転んでも、僕にとってはプラスになる。
これは、僕が望み続けたシチュエーションなのだ。

しかし、僕の足は地に根が生えたかのように動かなかった。
心臓の鼓動はどんどん早まり、血はドクドクと体内を激しく巡り続けているというのに、指一本動かなかったのだ。

その時、僕の後ろにいた青年が、勢いよく遮断機の上を飛び越え、倒れている男性に駆け寄った。
このあたりの高校の制服を着た、幼さのまだ残るその青年は、男性の両腕を引っ張り、なんとか線路からどかそうとする。
それとほぼ同時に、踏切の向こう側にいた女性が、ヒールをその場に脱ぎ捨て、遮断機の下をくぐり、中学生に加勢した。
踏切の前で呆然としていたサラリーマン風の男たちは、彼女らの動きにつられるように踏切の中に入って手を貸した。
踏切の中にいた全員が、僕と反対側の遮断機の外に出た約三秒後、電車は踏切を通過した。
警報機はボリュームを下げた後完全に鳴り止み、何事もなかったかのように遮断機が開いた。

さっきまで足が動かなかったのが嘘のように、僕は自然と一歩を踏み出し、踏切を渡り始めた。
心臓は、ドクドクとまだ音を立て続けたままだ。

踏切を渡り終え、線路のそばにできている人だかりに恐る恐る目をやった。
高校生や、倒れている男性の姿は、それを取り囲む人たちによって見えなかった。
しかし、その人だかりを抜けて、ケータイ電話で救急車を呼ぶ裸足の女性と一瞬だけ目があった。
彼女は僕を非難することも、軽蔑の眼差しをおくることもなかった。
彼女は、そもそも僕なんて見えていないかのように自然と視線を外し、電話対応を続けた。

ここにいる全ての人にとって、僕は「無」だった。
僕は歩みを止める。
もう一歩も踏み出せないような絶望が全身を包みこむ。

僕以外のざわめきを抑え込むかのように、後ろでまた踏切の警報機が鳴り始めた。