50音ショートショート

50音分のタイトルで短編を書き終えれたら、関係ないけどとりあえず仕事やめようと思う(-A-)

記憶の支配者

男は初恋の人が忘れられないという。
幼かったあの頃からは、好みや恋人に求める条件も大きく変わっているはずなのに、そもそもそれほどよくその子のことなんて知らなかったはずなのに、その名前を聞くだけでドキリとし、甘酸っぱい気持ちでいっぱいになる。
そんな人が男には大抵いるはずなのだ。

そして、その面影は一生男の人生に付きまとう。

「なので、三年付き合って結婚も約束してた彼女は捨てて、初恋の人を追いかけます?」
沙希子は僕から目を反らさず静かに尋ねる。

喫茶店の席についてからすぐに注文した2つのアイスコーヒーは、いまだどちらも口がつけられておらず、一秒を刻むごとに溶けていく氷は茶色い液体を薄く薄く塗り替え続けている。

「本当にごめんなさい」
僕は沙希子の視線から逃れるように頭を下げ、喫茶店のテーブルにある染みを凝視し続けることを選んだ。
「その子とやったってこと?」
冷たい声が僕の下げた頭に降りかかる。
「やって、ない」
「嘘だ」
嘘だった。
中学の同級生同士の結婚式があったのはつい1ヶ月前のこと。

そこで僕は初恋の人、伊原梨花と再会した。

梨花とは中学2年生の頃クラスが同じで、共に美化委員だった。クジ引きで選ばれただけの委員だったので2人とも積極的に校内の美化に協力したことはなかったが、月に一度形式的に行われる委員会会議にはとりあえず出席しており、そこで会話を交わすようになった。
彼女は誰に対しても愛想がよく、頭も良いほうで、そして何よりとても美人だった。そんな彼女に単純な僕は恋をした。そして、彼女を想い続ける一方で、特にそれ以上接近することも、彼女について詳しく知ることもなく時は経ち、僕たちは全く別々の高校へ進学した。
そんな初恋の人に、僕は10年ぶりに再会したというわけだ。

あの頃より背が伸びて、胸も大きく膨らみ、化粧を施した梨花は誰から見ても美しかった。彼女の姿を見つけた時、僕は一瞬にして中学生の頃のあの代用できない気持ちを取り戻した。
だから彼女に声をかけられた時は飛び上がるぐらい嬉しかったし、彼女が「彼氏と別れたばかりで寂しい」と上目遣いで漏らした時は一気に身体が熱くなった。そして、僕は愛しの恋人であるはずの沙希子を完全になきものとし、梨花と一夜を過ごしてしまったのだ。

「周ちゃんて本当に嘘が下手」
沙希子が容赦なく吐き捨てる。
僕は嵐が過ぎるのを待つようにじっと俯き続ける。
「ねぇ、その人ともう付き合ってるってことなの?」
「…違う。付き合って、ない」
これは本当だった。

僕たちは確かに一夜を共にした。初めて抱きしめた彼女の身体は華奢すぎて硬く、冷たく感じた。柔らかくて温かい沙希子とは対称的だ。彼女が漏らす機械的な声も、表情も、沙希子とは全く違った。僕は彼女を抱きながら、やはり沙希子の方がいいなぁとぼんやり思った。そして、今夜のことはちょっとした過ちだったと正直に沙希子に謝って許してもらおうと誓った。そう、一度は何かに誓ったのだ。
けれど、別れ際に渡された梨花の連絡先を僕は嬉々として受け取ってしまい、帰宅してすぐに自ら甘い連絡もいれてしまった。「楽しかった」と返す彼女の言葉に舞い上がり、即刻次の約束を取り付けたのも他の誰でもない僕だった。

「でも、会ったのは一回だけじゃないんだよね?」沙希子の尋問は淡々と続く。
「うん…」
既に僕たちは4回会っていた。

1度目は再会した夜。
2度目はその次の週の土曜日だった。
僕は今月から上映されている人気映画のチケットを2枚とって彼女を誘った。沙希子が前々から見たいと言っていた人気監督が手がけるサスペンス映画だった。梨花は僕の誘いに快く応じた。
沙希子も僕もポップコーンは塩派なので毎回当たり前のように2人で分けていたが、彼女はキャラメルを好んだ。僕もキャラメル派ということにして上映中それを一緒に食べたが、ひどく甘く、なかなか進まなかった。結局彼女も太るからとあまり口にはせず、ポップコーンは半分以上残ったまま映画はエンドロールを迎えた。
やっぱり沙希子との方が気が合うな、と、僕は甘ったるいポップコーンを噛みながら上映中ずっとこの浮気を後悔し、沙希子にすぐに謝って許してもらおうと誓った。確かに誓ったのだけど、映画の後流れるままホテルにいき、相変わらず硬く冷たい彼女の身体を抱いた後、何故かまた自ら次の約束を取り付けていた。

3度目は彼女の家に招かれた。殆ど物がない部屋で、生活感を感じられない程彼女の部屋は綺麗だった。僕はワインを買って行ったが、料理はしないから食器がないのだと彼女は言い、コンビニで買った紙コップで乾杯した。コップと一緒に買った安っぽいツマミを食べながら、いつも酒を買っていくと美味しいツマミを作ってくれた料理上手の沙希子を思い出し、やはり浮気なんてこれっきりにして沙希子のもとへ戻ろうと僕は誓った。確実に誓ったのだけど、朝目覚めた時に僕の隣で眠る梨花の美しい寝顔を見て、僕はまたその夜彼女に連絡してしまった。

そして4度目に会ったのはつい昨日のことだった。彼女が僕のお気に入りの店に行きたいというので、少し迷ったが行きつけの小さな居酒屋に連れていくことにした。外装は古く、中もお世辞には綺麗とは言えないが、酒や料理は全て絶品で、沙希子と何度も通っていたお気に入りの店だった。だけど、結果的に僕らはその店には入らなかった。店の前まで来て、「ここだ」と僕が紹介すると、彼女は途端に苦い顔をし、「やっぱりイタリアンが食べたくなっちゃった」と綺麗に笑った。僕は自分自身を否定された気持ちになり、悲しく、恥ずかしく、そして腹を立てた。しかし、結局僕はへらへらしてイタリアンに彼女を連れていき、大して美味しくもない高いだけのパスタで腹を埋めた。

「本当その人のほうが好きになっちゃったんだね」
長かった沈黙を押し破って沙希子がため息を吐くようにそっと呟く。初めて聞くような、弱い弱い声に僕は思わず顔をあげる。
そこには僕が3年間愛し続けた女の子が、3年間見せたことのない悲しい顔をして座っていた。
背は低くて、胸も小さく、お世辞にも美人とは言えないけれど、愛嬌があって誰にでも好かれる子だった。僕と好みが似ていて、いつも美味しい料理を作ってくれて、よく笑う子だった。僕のことをいつも1番に考えてくれて、不器用だけど本当に優しい子だった。
「うん、好きなんだ」
言ってから、僕は自分が涙を流していることに気付いた。
沙希子を失うことに僕は恐怖を感じている。別れたくない。沙希子のそばにいたい。頭と身体はそう叫んでいるのに、僕の中の何かが梨花を選べと強く命令する。頭よりも、身体よりも、僕の中で強い権限を持った"何か"が、僕を沙希子から引き離そうとしている。
その"何か"に必死に抵抗するかのように、涙だけがぽろぽろと零れ続ける。
僕は初恋に支配されていた。
「そんなに、好きなんだね」
沙希子は僕の涙の意味を優しく受け止めた。そして、スカートのポケットから可愛らしいハンカチを取り出して僕に差し出す。僕は受け取ることもできず、俯きながら子供みたいに両手で目をこする。
「周ちゃん、目、腫れちゃうから」
沙希子がハンカチを無理やり僕の目に押し当てながらいつもの優しい声で言う。
「悲しいし、悔しいし、納得もいかないけど、わかったことにするよ。周ちゃんを泣かせてまでワガママ言えないし」
ハンカチを僕の手に握らせてから沙希子は立ち上がる。僕は顔をあげることすらできない。
「このコーヒーは奢ってよね。そんで、勝手に幸せになって」
沙希子の温かい手が僕の頭をぽんと撫でる。焦げるような痛みが胸に広がる。
引き止めなくてはいけない。謝らなくてはいけない。やっぱり僕には沙希子しかいない、そんなことずっとずっと分かっている。
「周ちゃん、大好きだったよ」

沙希子の気配が消える。喫茶店の扉にかけられたベルがカランと寂しげに鳴り、扉が閉まる冷たい音がする。結局口がつけられることのなかったアイスコーヒーからは氷が消えてしまっていた。


僕は顔をあげられず、机に増えていく染みをただ見つめることしかできない。
気付けばポケットの中のケータイが鳴っている。きっと梨花からの連絡に違いない。
僕は沙希子の香りのするハンカチを両目に押し当て、先の見えない未来に身震いする。
1つだけ、どうしようもなく確実にわかりきっていることはある。
僕はこの先、一生今日のことを後悔する。
ポケットから漏れる着信音は、いつまでもいつまでも鳴り止まない。