50音ショートショート

50音分のタイトルで短編を書き終えれたら、関係ないけどとりあえず仕事やめようと思う(-A-)

(そ)その痛み

今朝から歯が痛くて仕方ない。
しかし、今はそんなことに気を取られていては駄目だ。
今は、私の人生において、きっと重要な場面なのだ。
この場面に集中しなければならない。
私はぐっと眉間に皺をよせ、彼の泣き出しそうな横顔を無言で見つめた。

「佳子には本当に申し訳ないと思ってる。でも、もう決めたんだ」

今、私は4年付き合った男に捨てられようとしている。
しかも、彼は浮気相手と子供を作り、そのまま結婚するのだという。
こんな馬鹿げた話があっていいわけがない。

「佳子、本当に申し訳ない」

相手は誰なの?いつからなの?謝って済むと思ってるの?私の4年間どうしてくれるの?私よりその女が好きなの?
私の視線から逃れるように頭を下げる彼に、聞かなきゃいけないことが山ほどあるはずだった。
まさか、こんな形で裏切られるなんて。
いくら攻めても攻め足りないはずだった。

しかし、一言も発することができない。
少し口を開くと、歯に僅かな風があたり、とてつもなく滲みた。
別れ話と歯の痛み。
何故一度に両方やってくるのか。

私は静かに、できるだけ時間をかけて慎重に息を吐き出し、正面のフロントガラスを見つめる。
彼が黙ってしまうと、車内は重い沈黙に支配された。
付き合い始めた頃に彼が買ったこの車。
休みの日はよく出掛けたし、思い出は沢山詰まっていた。
私たちと一緒に生きてきたはずのこの車に、いつから私以外の女が乗るようになっていたのだろう。
いつから見覚えのないカラフルなブランケットが置かれ、いつから馴染みのない香水の匂いがするようになっていたのだろう。
そして、何故今の今まで、私はそれに気付かなかったのだろう。

涙がこぼれそうになった。
それが歯の痛みのせいなのか、失恋の痛みのせいなのかはわからないが、必死でこらえる。
私は失恋で泣くような女じゃない。
ましてや、歯が痛くて泣くような、か弱い女なんかじゃない。

永遠を思わせるような長い沈黙に耐えきれなくなったのか、彼が顔をあげてちらりとこちらを見る。
「佳子…?」
彼が私の名前を呼ぶのは、もうこれが最後なのかもしれない。

これはきっと悲劇だ。
しかし、私はこの悲劇に上手く集中できないでいる。
もう、限界だと思った。
歯の痛みも、心の痛みも。

「はが…」
思っていた以上に声がかすれた。
歯がキンと痛む。
彼は私の発言に首を傾げながら、「はが?」と、呟くように復唱した。
私はどうにか痛みを堪えて、言葉を絞り出す。
「歯が、痛いから、帰るね」

彼は「そう…、お大事に」と言って、去っていった。
これが、私たちの別れだった。


次の日は朝一で歯医者に行った。
会社は、体調不良を理由に休んだ。
夜も眠れないぐらい歯が痛いのだから全く仮病ではない。


「これは、シズイエンですね」
「しずい、えん?」
歯医者にて一通り検査が終わった後、ベテラン感のある医師がやけに溌剌とした声で私にそう告げた。
告げられた病名を漢字変換できないでいると、助手の女性がタブレットで説明資料を表示して見せてくれた。
「歯髄炎…」
なんだか禍々しい漢字の並びに、言いようのない不安が膨れ上がる。
「なんらかの原因で歯が圧迫されちゃって、神経が傷ついちゃってるんですよ。赤坂さんの場合、既にいくらか死んでる神経もあるみたいでね」
医師はそう言いながら、カラーで撮った私の前歯の写真を見せる。
「ほら、これが今痛んでる歯ですね。色が他の歯と比べてうっすら黒っぽいでしょ。これ、神経が死んでる証拠です。で、今は、生きてる残りの神経が傷ついて痛んでるって状態ですね」

私の神経が、死んでいる?

「赤坂さんの場合、親知らずが原因かもしれないですね。親知らずが歯をどんどんおしていって、前歯に皺寄せがきたのかも。それで、神経が死にかけてる」

残りの神経は、死にかけている?

「どうしましょうか。神経を全て抜いて痛みをとってしまうか、様子を見るか」
医師は「神経を抜くこと」が、まるで何でもないことのように軽い口調で尋ねた。
これまで神経を抜いたこともなければ、虫歯を持ったこともない私は、かなり狼狽した。
「このまま放っておいて、酷くなることもあるんでしょうか」
すぐには決断できずに、恐る恐る尋ねる。
「勿論ありますよ。さらに痛んでこのまま神経が死んでしまう可能性もありますし。でも、痛みがあっさり治ることもあります」

悩んだ末、神経を自ら殺すことに怖じけた私は、とりあえず様子を見ることを選んだ。

自宅に帰ると、コートのままベッドに倒れこんだ。
歯医者では、下の歯に当たってダメージを与えないよう、痛む上前歯を少し削った。
削ったのは僅かであったが、鏡を見ると隣の前歯との高さは明らかに違っていて、なんだか一層惨めな気分になった。

寝転びながら、私はふと、今死にかけている前歯の神経を思い浮かべる。
と言っても、神経なんて見たことがないので、代わりに細い細い糸をイメージした。
頭に浮かぶその糸は、何故かボロボロな操り人形に何本も繋がっている。
複数あるはずの糸は殆どが切れており、人形はがっくり項垂れ、手足もだらりと垂れ下がっている。
人形の胴体に繋がった数本の細い糸により、どうにかその身体は倒れずにいる状態だ。
しかし、糸は1秒ごとにミシミシと音を立て、いつ切れてしまうかもわからない。

こんなの、もう切れてしまったほうがいいのかもしれない。
生きているほうが惨めじゃないか。

痛み止めの副作用か、眠気が込み上げてくる。
歯の痛みが少しおさまってきたことで、脳に余裕ができたのか、昨夜の光景が漸くフラッシュバックしてきた。

あまりにもあっけなく終わったあの恋に、私は何を求めていたんだろう。
私の4年間はなんだったんだろう。
どうして、あの時泣けなかったんだろう。
歯が痛いって、泣き喚けば良かったのだ。
幼い頃そうしていたように、「痛い、痛い」と、泣き続ければ良かったのだ。
そしたら彼はきっとオロオロして、助けてくれたかもしれない。
私を1人にしなかったかもしれない。

今更涙がこぼれた。
死にゆく私の神経とともにイメージしてしまったあのボロボロな人形。
今にも糸が切れて、ばたりと倒れてしまいそうな人形。
あれは、私だ。
ここ数年間、彼の前ではおろか、1人の時も泣いたことがなかった。
泣きたくなることなんて数えられないほどあったのに、私は泣けなかった。
泣くのを我慢するたび、糸はぷちぷちと切れていた。
どうして、こんな中途半端に大人になってしまったのだろう。
どうして大人は歯が痛くて泣いてはいけないのだろう。
どうして私は失恋して泣いてはいけないと思っているのだろう。
どうして、こんなことになっているのだろう。

歯がキンと痛んだ。
私は思わず飛び起きる。
無意識のうちに、歯を食いしばってしまったようだ。
なんとも厄介な爆弾を抱えてしまった。
「まだ、生きてるのか…」
無意識に呟く。
痛みがあるということは、まだ私の神経は生きている。
私が失恋してようが絶望してようがお構いなく、私の歯の神経は今も悲鳴をあげて痛みに耐え続けている。
そう思うと、この厄介すぎる爆弾が、ほんの少しだけ愛しく思えた気がした。
痛む限り、生き続けている。
生き続ける限り、痛みがある。

今。
今は、とりあえず生きている。

さて、これからどうしたものか。